第8話
第8話
― お守り ―
⸻
1月1日。午前五時前。
まだ真っ暗な駅前広場は、白い吐息だけがふわりと舞っていた。
待ち合わせのベンチに座っていた私は、あらためて空を見上げる。冬の夜空には星が瞬き、新しい年の幕開けを静かに告げているようだった。
「…おはよう、凛」
背後から奏の声が聞こえた。振り返ると、目の前にはマフラーとニット帽をしっかり着込んだ彼の姿。頬は紅く染まり、両手には小さな巾着が握られているようだった。
「奏、おはよう。早かったね?」
私はぶるりと身震いしながらも、笑顔を向ける。
「だって、凛と一緒に初日の出を見たいから…って言っただろ?」
奏はそう言って、凛の手袋の隙間をぴたりと寄せるようにして、小さな声で続けた。
「それと…これ、凛に渡したくて」
奏が差し出したその手には、深い紺色の巾着袋。絹のような手触りがほんのり温かい。
「…お守りだよ。ずっと凛を守ってほしくて、初詣に来る途中で買ってきたんだ」
開けなくてもわかる、小さな鈴の音がかすかに響いた。
「ありがとう…」
私はそっと巾着を受け取り、軽く頷く。
「でも奏、初詣はこれからなのに、どうしてもうお守りがあるの?」
奏は少し照れたように笑い、息を整えながら答えた。
「ほら、凛が寒いの我慢して待ってるから、少しでも安心してほしくて。手袋もだけど、このお守りも凛のそばにあれば、寒さなんて気にならないかなって思って」
私はその言葉に胸がじんわりと熱くなるのを感じた。巾着を開くと、中からは小さな白いお守り袋。真ん中には金色の「家内安全」の文字が刺繍され、その周りを薄い雪の結晶がぐるりと囲っている。なんて繊細で、冬らしいデザインだろう。
「わあ…きれい」
私は指先でそっと触れてみる。ふわりと心地よい手触りで、鈴がまたかすかに鳴った。
「これ、どこのお守り?」
「凛の地元の神社だよ。あそこ、山沿いで雪景色がきれいなのを知ってたから。冬限定の絵柄らしいんだ」
奏が少し誇らしげな顔で言ったので、私はにっこり笑って返す。
「ありがとう、奏が選んでくれたんだね。私、すごく嬉しいよ」
「うん。凛が喜んでくれるなら、僕はそれだけで嬉しい」
そんな奏の目は真剣で、夜明け前の寒ささえ柔らかく包むように輝いていた。
――鐘の音が遠くから聞こえる。きっと神社の境内だろう。
ふたりは息をそろえて立ち上がり、駅からほど近い小さなバス停へと歩き出す。ほかには誰もいないはずの早朝の町並みに、ふたりの足音だけが静かに響く。
「凛、これから先、どこに行っても、このお守りは凛と奏を繋いでくれると思うんだ」
奏は少し照れくさそうに言いながら、凛の手首にそっと紐を通して結んでくれた。絹糸が凛のコートの上できゅっと締まり、そのたびに鈴が小さく揺れて鳴った。
「…奏がいるだけで、もう十分守られてる気がする」
私はそう呟き、奏と目を合わせる。
「でも、これがあるともっと安心だよ」
奏は小さく頷き、凛の肩をそっと押して進むよう促した。
バスに乗り込み、凛と奏は窓の外に広がる雪化粧の街並みを眺める。遠くの山々にはうっすらと雪雲がかかり、その奥から徐々に明るみが差し込んできた。
バスが終点の神社前に停まると、参道にはすでに数人の初詣客の列ができていた。凛と奏は手袋越しに再び手をつなぎ、ゆっくりと階段を上っていく。手に残る鈴の感触は、手袋を通してもかすかに伝わってきた。
拝殿の前に到着すると、冷たい風が舞い、凛は思わず肩をすくめる。奏は凛のコートの襟元をそっと整え、凛の手首にぶら下がるお守りを確認すると、自分も心の中で手を合わせた。
「…今年も、ふたりで素敵な一年にしよう」
奏は静かにつぶやき、凛は目を閉じて深く頷いた。手首に触れるお守り袋は、凛の小さな願いと、奏の大きな想いを優しく抱えているように感じた。
鈴の音が遠くで揺れ、静寂の中に新たな年の始まりが広がっていく。寒さに震えながらも、凛と奏の胸は、互いを想う気持ちでほのかに温かかった。
これが、ふたりにとっての「お守り」。形は小さくても、これから訪れるすべての時間を守り導いてくれる、確かな絆の証なのだ。
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