太陽

海原 狸

太陽

 窓の外に、白みがかった橙色が静かに広がっていく。まだ陽は完全に昇りきらず、空と街の境界は、どこか夢と現の狭間のようだった。

 その静けさの中で、河北は目を覚ました。

 瞼の裏を優しくなぞるように、カーテンの隙間から溢れる光が、まだ眠りきれない朝を告げている。

 耳を澄ませば、時計の針が小さな音を刻む。午前四時五十三分。けれど、それはただの数字だった。

 目覚めてしまったというよりも、眠りから追い出されたような感覚が、彼女の胸の奥に微かに残る。

 体を起こす。動作は機械のように整っていた。制服のポロシャツに袖を通し、髪をゴムで束ねる。それが、まだ自分という存在を保つための、唯一の証だった。

 朝食の匂いが漂っていたが、食欲はどこか遠い場所に置き忘れてきたようで、椅子に座るふりだけして、自室に戻った。

 それから数時間。時間を持て余しながらも、ただ静かに過ごした。何もせず、何も考えず、ただ「行かなければ」とだけ繰り返す朝。結局、家を出たのは、七時半を過ぎてからであった。マスクをして、家の門を開ける。

 外の空気は湿り気を帯びていて、それでもどこか涼しい。肩に重たくのしかかるリュックサック。駅へと向かう道には、日々見慣れた景色が並んでいる。

 それなのに、すべてが薄い膜を一枚隔てた向こう側のように、遠く感じられた。





 駅の改札で足を止めた。リュックサックに掛けたパスケースを手に取り、ICカードを機械にかざす。


『ピンポーン』


 電子音が冷たく響いた。身体が小さく跳ねる。ディスプレイに「残高不足」の文字。

 不意に、記憶の中の扉がゆっくりと開いた。

 最後にこのカードを使ったのは、二月の終わりだった。

 凍えるような駅のホームで「元気でね」と笑い合った仲間たちの顔。あの光景だけが、今も色褪せずに心に残っていた。

 その日から、学校は休校に入り、部活動も停止となった。だけど、それでも皆、家でそれぞれの楽器を手にしていた。いつ再開してもいいように、次のステージに備えるように。スマートフォン越しに音を送り合ったり、互いに練習の様子を録音して共有し合った、そんな日々が続いていた。

 けれど、それも終わりは突然にやってきた。

 学校再開のわずか二週間前、「今年のコンクールは中止」と知らされたその日を境に、全てが凍りついたように止まった。

 誰も何も言わなかった。グループチャットは静まり返り、河北も、仲間たちも、いつの間にか楽器に触れることをやめていた。

 その沈黙は、まるで長い冬眠のようだった。カードも、河北自身も、その沈黙の中に深く沈んでいった。

 財布から紙幣を取り出し、無言でチャージ機に差し込む。機械的な処理音が、どこか無機質で、それでも日常の一部のように響く。

 改札が開くと、彼女は何事もなかったかのように電車へと足を運んだ。

 車内は静かだった。通勤ラッシュのほんの少し前。始発よりも大分遅いが、それでも始業にはなんとか間に合う──そんな時間帯。人の気配もまばらで、余白がまだ残されていた。

 車窓の外、街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。その光景は、磨かれた楽器のようにひんやりと冷たく、それでもどこかで美しくもあった。

 最寄り駅に着き、駅前から出る路線バスに乗る。車内にすでにだいぶ高くなった朝日が射していた。

 やがて、高校へ続く坂の途中から、窓の外に校舎が見えてきた。久しぶりに見るその姿は、朝焼けというより、すっかり日が昇りきった夏の光に包まれていた。

 笹本は思わず目を細める。その眩しさが、ほんの少しだけ、心に痛かった。

 ホームルームの時間、担任の声はどこか遠くで響いていた。言葉が耳をすり抜け、意味を持たない記号のように宙を舞う。

 誰とも目を合わせず、ただ机に向かって呼吸を整える。河北にとって、それが唯一の均衡だった。

 チャイムが鳴り終わると、身体が自然に立ち上がっていた。目的を持たないまま、足は校舎の奥、教科棟の階段を昇っていく。三階の踊り場で止まり、左手の奥へと歩を進める。そこには──音楽室。河北たちの部室だった場所。







 軋む扉をそっと引くと、静けさが出迎えた。誰もいない教室。置き去りにされた机たちが、かすかに歪んだ列を作っている。片隅には譜面台がいくつか寄せ集められ、窓の向こうからはうっすらと白い陽射しが差し込んでいた。

 それは、まるで時間が止まってしまった空間だった。

 河北はラックに近づくと、リュックサックから楽譜を挟んだファイルを取り出し、その中に挿し込んだ。

 ふと、いくつかのまっさらな楽譜が目に入る。仲間たちと弾こうと決めて取り寄せたものだ。今となっては、もうそれらを弾けることはない。


「やっぱ、来てたんだな」


 背後から聞こえた声に、肩が小さく震えた。


 振り返ると、そこに立っていたのは森本だった。上履きの踵を踏んでいる。マスクの奥は見えないけれど、笑ってるような、困ってるような目。


「森本」


 名前を呼ぶだけで、喉が少し詰まる。驚きよりも、戸惑いが先に立った。


「元気だったか?」


 森本が、上履きを棚に置きながら尋ねた。


「うん、森本は?」


「俺も、まあ、なんとか」


 短い会話に、沈黙が続く。懐かしさがあるはずなのに、どこか距離がある。それでも、ここに来たのはきっと偶然じゃない。


「この部屋、鍵開いてたんだな」


 森本がぽつりとつぶやいた。


「うん。最後に部活したとき、閉め忘れたのかも」


「うわよかったな、顧問にバレなくて」


 森本が小さく笑う。河北も、少しだけ口元を緩めた。

 だけど、次の言葉が出ない。何を話せばいいのか、何から話せばいいのか、分からなかった。


森本は、少し間を置いてから言った。

「あれから俺ら、話してなかったんだな」


「そうだね」


二人の言葉は、互いに遠慮がちに交差した。言い訳でも、謝罪でもない。ただ、話すことで確かめたかった。


「まったくさあ、理不尽だよな。俺らなんか悪いことしたかな」


「うん、本当に驚いた」


「中止って聞いたとき、最初は信じられなかったよ。絶対デマだと思った」


「ね。何度も公式サイト見返した。延期じゃないのかって」


「俺も。スマホのニュース、更新しまくった」


河北は、ふっと力の抜けたような笑みを漏らす。

「なんか、あれからさ。楽器にも、楽譜にも、触れられなかった」


「俺もだよ。ケース開けるだけで、なんか……重くて」


「時間ならあったのにね」


「うん。時間だけは、無駄にあった」


二人の間に、再び静けさが訪れる。

けれど、その沈黙は、さっきより少しだけ柔らかかった。


河北は、音楽室の窓のほうをちらりと見たあと、ふと顔を伏せるようにして、ぽつりと口を開いた。


「でもさ、コンクール、なくなってホッとしたんだよね、私」


 喉の奥に、針が刺さったような痛みを覚える。しかし河北は続ける。


「きっと、心のどこかで気づいてたんだ。私たちは、本選には出られないって」


 一度あふれてきてしまった言葉を、止められはしなかった。

 河北は、壁際の黒板へ視線を向けた。そこには、まだ「本選へ!」とチョークで書かれた文字の跡が、うっすら残っている。


「あの黒板に毎日目標とか書いてさ、いつまでに楽譜のどこまでできるようになるとか、曲のイメージを固めるとか、馬鹿みたいだったよね」


 陽射しが厚い雲に隠れ、音楽室がふっと暗くなる。森本の表情が見えなくなる。


「見て見ぬふりをしてたんだよね、ずっと。どう頑張っても、どれだけ頑張っても、届かないって。最初から──」


 その瞬間、森本が彼女の胸ぐらを掴んでいた。窓に押しつけられ、河北の背中に冷たい感触が走る。

 唇は強く結ばれたまま、森本は何も言わない。息だけが荒く、喉の奥で乾いた呼吸が鳴る。

 目の奥に光るものがある。けれど、それが涙か、怒りか、自分でも分からないとでも言うように、森本は言葉を失っていた。

 河北も、同じように黙っていた。声を出せないのではない。出してしまえば、何かが壊れてしまう気がして。

 静けさの中で、彼の指がそっと力を緩める。

 掴まれた胸元の布が、わずかに皺を残したまま解放された。

 森本はゆっくりと顔を背け、乱れた呼吸を押し殺すようにして肩を震わせた。


「俺、中学のとき、何も本気になれなかったんだ」


 まだ少し整わない呼吸のままで、ぽつりと森本が口を開く。


「勉強も部活も、全部そこそこ。上手くやっている“ふり”だけして、本当は何も持ってなかった」


 森本の手は震えていた。過去の自分が、誰かに負けることも、傷つくことにも怯えていたように。


「でも、高校でたまたまこの部活に誘われて、見に行って。最初、訳も分からず入って、楽器持ったんだよ。何もかも下手くそだったけど、練習してるうちに、気づいたら夢中になってた」


 森本は、河北の目を見つめた。


「音が揃った瞬間、身体がゾクッとするんだよ。何かに本気で向かうのって、こんなに楽しいのかって思ったの、多分人生で初めてだった」


 彼はゆっくり息を吸ってから、言葉を続けた。


「そのとき、いたんだよ。お前が──いや、河北が、そこにいた」


 唇を少し震わせながら、視線を落とす。


「河北は、ただ上手いとかじゃなくて、本当に楽しそうだった。ああ、自分もこんなふうになりたいって、思った。最初は憧れだった。でも途中から、それだけじゃなくて、隣に立ちたいって、そう思うようになったんだ」


 声が掠れた。


「だから努力した。いつでもコンクールのことも、河北のことも思ってた。でも、あの日、全てが目の前で崩れていった気がした。今までが全部、意味がなかったみたいに」


 河北はいつの間にか唇を噛みしめていた。血の味が口の中に滲む。


「諦めようと思ったよ、俺だって。毎日『仕方ない』って自分に言い聞かせた」


 森本は静かに言った。


「でも、朝になると、また始発より前に目が覚める。練習もないのに、楽器を抱えてる夢ばっかり見る」


 言葉は空気を切るように、まっすぐだった。


「そんな呪いみたいなもんが、俺にあった」


 しばしの沈黙のあと、彼は俯いてから言った。


「河北、違うだろ……?そんなことが、言いたかったんじゃないだろ……?」


 ぽたり、と涙が床に落ちた。


「悔しかったんだよ、悲しかったんだよ、俺ら」


 絞り出すようなその声に、河北の胸に貼りついていた何かが、ぽろりと剥がれ落ちた。

 あの春、学校が閉ざされ、部活動が消えたとき。ほぼ毎日テレビやネットから聞こえた、「何気ない日常の大切さを知った」と。

 けれど、河北の胸の奥には、いつも小さな反発があった。


 ──違う。そうじゃない。


 日常のありがたみ、なんてものを知るために、私たちは朝を早く起きて、音に身を削ってきたんじゃない。

 ただの「ありがたい日常」を守るために、全てを懸けてきたわけじゃない。

 もっと遠くへ。もっと高く、もっと熱く──夢を奏でたくて、音楽をしていた。

 そのことを思い出したとき、河北の目から涙が溢れた。見て見ぬふりをしていたのは、ずっと奥底に押し込めていた、悔しさと、怒りと、悲しみだった。

 河北は俯いて泣く森本を、そっと抱きしめて、そして大声を上げて泣いた。

 森本もまた、彼女の背を抱きしめ返した。

 二人の泣き声だけが、この初夏に響いていた。







 しばらくして、二人は向き直す。


「悪い、痛かった、よな」


 森本が目線を外す。河北は首を横に振る。


「ううん、私こそ、ごめん」


 河北は一度鼻をすすってから振り返り、音楽室の窓を開けた。重たい枠が軋みながら開き、初夏の風が吹き抜ける。

 遠くで蝉が一声だけ鳴いた。


 「ねえ、私たち、これからどうしたらいいんだろう」


 窓の外を見つめながら、河北がぽつりと呟く。

 森本は少しの間沈黙し、それから答えた。


「分からねぇ。でも、俺たちは、このことをずっと受け入れられないと思う」


 そのとき、雲の隙間から漏れ出た光芒が、教科棟を、音楽室を、そして二人を照らす。

 ――彼らは諦める他なかった。夢を、未来を。

 だが、それで終わりだとは誰も思わなかった。

 季節は移ろい、音楽も、夢も、かたちを変えてゆく。けれど、変わらないものも確かにあった。

 かつて、彼らが追いかけたもの――それは、太陽のような夢だった。

 触れられないほど遠く、眩しくて、まっすぐに見つめることすらできない。

 けれど、確かにそこにあった。あの日々、朝より早く起きて、汗を流して音を重ねたのは、その光のもとに立つためだった。

 太陽は、今も空のどこかにある。手は届かなくても、その光の残り火が、彼らの胸にまだ灯っている。


 ──諦めたからこそ、見える景色がある。

 ──諦めたからこそ、見つけられる光がある。


 河北はそっと目を細めて、森本の方を見た。


「じゃあさ、ひとまず前に進もう。転んでも、うまくいかなくても。それでいつか、また前みたいに戻れたら、『私たちは頑張ったんだ』って、私たちのことを綺麗な言葉で綴って、美談にしてやろうよ」


 そう言って、手を差し出した。


 森本は、迷わずその手を握り返した。







 校舎を出ると、空にはすでに夏の匂いが漂っていた。

 陽射しは柔らかく、地面を染め、彼女たちの足元にまだらな影を落とす。

 二人は並んで歩いた。

 その沈黙は、もう痛みを伴うものではなかった。

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太陽 海原 狸 @unabara_tanuki

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