太陽
海原 狸
太陽
窓の外に、白みがかった橙色が静かに広がっていく。まだ陽は完全に昇りきらず、空と街の境界は、どこか夢と現の狭間のようだった。
その静けさの中で、河北は目を覚ました。
瞼の裏を優しくなぞるように、カーテンの隙間から溢れる光が、まだ眠りきれない朝を告げている。
耳を澄ませば、時計の針が小さな音を刻む。午前四時五十三分。けれど、それはただの数字だった。
目覚めてしまったというよりも、眠りから追い出されたような感覚が、彼女の胸の奥に微かに残る。
体を起こす。動作は機械のように整っていた。制服のポロシャツに袖を通し、髪をゴムで束ねる。それが、まだ自分という存在を保つための、唯一の証だった。
朝食の匂いが漂っていたが、食欲はどこか遠い場所に置き忘れてきたようで、椅子に座るふりだけして、自室に戻った。
それから数時間。時間を持て余しながらも、ただ静かに過ごした。何もせず、何も考えず、ただ「行かなければ」とだけ繰り返す朝。結局、家を出たのは、七時半を過ぎてからであった。マスクをして、家の門を開ける。
外の空気は湿り気を帯びていて、それでもどこか涼しい。肩に重たくのしかかるリュックサック。駅へと向かう道には、日々見慣れた景色が並んでいる。
それなのに、すべてが薄い膜を一枚隔てた向こう側のように、遠く感じられた。
*
駅の改札で足を止めた。リュックサックに掛けたパスケースを手に取り、ICカードを機械にかざす。
『ピンポーン』
電子音が冷たく響いた。身体が小さく跳ねる。ディスプレイに「残高不足」の文字。
不意に、記憶の中の扉がゆっくりと開いた。
最後にこのカードを使ったのは、二月の終わりだった。
凍えるような駅のホームで「元気でね」と笑い合った仲間たちの顔。あの光景だけが、今も色褪せずに心に残っていた。
その日から、学校は休校に入り、部活動も停止となった。だけど、それでも皆、家でそれぞれの楽器を手にしていた。いつ再開してもいいように、次のステージに備えるように。スマートフォン越しに音を送り合ったり、互いに練習の様子を録音して共有し合った、そんな日々が続いていた。
けれど、それも終わりは突然にやってきた。
学校再開のわずか二週間前、「今年のコンクールは中止」と知らされたその日を境に、全てが凍りついたように止まった。
誰も何も言わなかった。グループチャットは静まり返り、河北も、仲間たちも、いつの間にか楽器に触れることをやめていた。
その沈黙は、まるで長い冬眠のようだった。カードも、河北自身も、その沈黙の中に深く沈んでいった。
財布から紙幣を取り出し、無言でチャージ機に差し込む。機械的な処理音が、どこか無機質で、それでも日常の一部のように響く。
改札が開くと、彼女は何事もなかったかのように電車へと足を運んだ。
車内は静かだった。通勤ラッシュのほんの少し前。始発よりも大分遅いが、それでも始業にはなんとか間に合う──そんな時間帯。人の気配もまばらで、余白がまだ残されていた。
車窓の外、街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。その光景は、磨かれた楽器のようにひんやりと冷たく、それでもどこかで美しくもあった。
最寄り駅に着き、駅前から出る路線バスに乗る。車内にすでにだいぶ高くなった朝日が射していた。
やがて、高校へ続く坂の途中から、窓の外に校舎が見えてきた。久しぶりに見るその姿は、朝焼けというより、すっかり日が昇りきった夏の光に包まれていた。
笹本は思わず目を細める。その眩しさが、ほんの少しだけ、心に痛かった。
ホームルームの時間、担任の声はどこか遠くで響いていた。言葉が耳をすり抜け、意味を持たない記号のように宙を舞う。
誰とも目を合わせず、ただ机に向かって呼吸を整える。河北にとって、それが唯一の均衡だった。
チャイムが鳴り終わると、身体が自然に立ち上がっていた。目的を持たないまま、足は校舎の奥、教科棟の階段を昇っていく。三階の踊り場で止まり、左手の奥へと歩を進める。そこには──音楽室。河北たちの部室だった場所。
*
軋む扉をそっと引くと、静けさが出迎えた。誰もいない教室。置き去りにされた机たちが、かすかに歪んだ列を作っている。片隅には譜面台がいくつか寄せ集められ、窓の向こうからはうっすらと白い陽射しが差し込んでいた。
それは、まるで時間が止まってしまった空間だった。
河北はラックに近づくと、リュックサックから楽譜を挟んだファイルを取り出し、その中に挿し込んだ。
ふと、いくつかのまっさらな楽譜が目に入る。仲間たちと弾こうと決めて取り寄せたものだ。今となっては、もうそれらを弾けることはない。
「やっぱ、来てたんだな」
背後から聞こえた声に、肩が小さく震えた。
振り返ると、そこに立っていたのは森本だった。上履きの踵を踏んでいる。マスクの奥は見えないけれど、笑ってるような、困ってるような目。
「森本」
名前を呼ぶだけで、喉が少し詰まる。驚きよりも、戸惑いが先に立った。
「元気だったか?」
森本が、上履きを棚に置きながら尋ねた。
「うん、森本は?」
「俺も、まあ、なんとか」
短い会話に、沈黙が続く。懐かしさがあるはずなのに、どこか距離がある。それでも、ここに来たのはきっと偶然じゃない。
「この部屋、鍵開いてたんだな」
森本がぽつりとつぶやいた。
「うん。最後に部活したとき、閉め忘れたのかも」
「うわよかったな、顧問にバレなくて」
森本が小さく笑う。河北も、少しだけ口元を緩めた。
だけど、次の言葉が出ない。何を話せばいいのか、何から話せばいいのか、分からなかった。
森本は、少し間を置いてから言った。
「あれから俺ら、話してなかったんだな」
「そうだね」
二人の言葉は、互いに遠慮がちに交差した。言い訳でも、謝罪でもない。ただ、話すことで確かめたかった。
「まったくさあ、理不尽だよな。俺らなんか悪いことしたかな」
「うん、本当に驚いた」
「中止って聞いたとき、最初は信じられなかったよ。絶対デマだと思った」
「ね。何度も公式サイト見返した。延期じゃないのかって」
「俺も。スマホのニュース、更新しまくった」
河北は、ふっと力の抜けたような笑みを漏らす。
「なんか、あれからさ。楽器にも、楽譜にも、触れられなかった」
「俺もだよ。ケース開けるだけで、なんか……重くて」
「時間ならあったのにね」
「うん。時間だけは、無駄にあった」
二人の間に、再び静けさが訪れる。
けれど、その沈黙は、さっきより少しだけ柔らかかった。
河北は、音楽室の窓のほうをちらりと見たあと、ふと顔を伏せるようにして、ぽつりと口を開いた。
「でもさ、コンクール、なくなってホッとしたんだよね、私」
喉の奥に、針が刺さったような痛みを覚える。しかし河北は続ける。
「きっと、心のどこかで気づいてたんだ。私たちは、本選には出られないって」
一度あふれてきてしまった言葉を、止められはしなかった。
河北は、壁際の黒板へ視線を向けた。そこには、まだ「本選へ!」とチョークで書かれた文字の跡が、うっすら残っている。
「あの黒板に毎日目標とか書いてさ、いつまでに楽譜のどこまでできるようになるとか、曲のイメージを固めるとか、馬鹿みたいだったよね」
陽射しが厚い雲に隠れ、音楽室がふっと暗くなる。森本の表情が見えなくなる。
「見て見ぬふりをしてたんだよね、ずっと。どう頑張っても、どれだけ頑張っても、届かないって。最初から──」
その瞬間、森本が彼女の胸ぐらを掴んでいた。窓に押しつけられ、河北の背中に冷たい感触が走る。
唇は強く結ばれたまま、森本は何も言わない。息だけが荒く、喉の奥で乾いた呼吸が鳴る。
目の奥に光るものがある。けれど、それが涙か、怒りか、自分でも分からないとでも言うように、森本は言葉を失っていた。
河北も、同じように黙っていた。声を出せないのではない。出してしまえば、何かが壊れてしまう気がして。
静けさの中で、彼の指がそっと力を緩める。
掴まれた胸元の布が、わずかに皺を残したまま解放された。
森本はゆっくりと顔を背け、乱れた呼吸を押し殺すようにして肩を震わせた。
「俺、中学のとき、何も本気になれなかったんだ」
まだ少し整わない呼吸のままで、ぽつりと森本が口を開く。
「勉強も部活も、全部そこそこ。上手くやっている“ふり”だけして、本当は何も持ってなかった」
森本の手は震えていた。過去の自分が、誰かに負けることも、傷つくことにも怯えていたように。
「でも、高校でたまたまこの部活に誘われて、見に行って。最初、訳も分からず入って、楽器持ったんだよ。何もかも下手くそだったけど、練習してるうちに、気づいたら夢中になってた」
森本は、河北の目を見つめた。
「音が揃った瞬間、身体がゾクッとするんだよ。何かに本気で向かうのって、こんなに楽しいのかって思ったの、多分人生で初めてだった」
彼はゆっくり息を吸ってから、言葉を続けた。
「そのとき、いたんだよ。お前が──いや、河北が、そこにいた」
唇を少し震わせながら、視線を落とす。
「河北は、ただ上手いとかじゃなくて、本当に楽しそうだった。ああ、自分もこんなふうになりたいって、思った。最初は憧れだった。でも途中から、それだけじゃなくて、隣に立ちたいって、そう思うようになったんだ」
声が掠れた。
「だから努力した。いつでもコンクールのことも、河北のことも思ってた。でも、あの日、全てが目の前で崩れていった気がした。今までが全部、意味がなかったみたいに」
河北はいつの間にか唇を噛みしめていた。血の味が口の中に滲む。
「諦めようと思ったよ、俺だって。毎日『仕方ない』って自分に言い聞かせた」
森本は静かに言った。
「でも、朝になると、また始発より前に目が覚める。練習もないのに、楽器を抱えてる夢ばっかり見る」
言葉は空気を切るように、まっすぐだった。
「そんな呪いみたいなもんが、俺にあった」
しばしの沈黙のあと、彼は俯いてから言った。
「河北、違うだろ……?そんなことが、言いたかったんじゃないだろ……?」
ぽたり、と涙が床に落ちた。
「悔しかったんだよ、悲しかったんだよ、俺ら」
絞り出すようなその声に、河北の胸に貼りついていた何かが、ぽろりと剥がれ落ちた。
あの春、学校が閉ざされ、部活動が消えたとき。ほぼ毎日テレビやネットから聞こえた、「何気ない日常の大切さを知った」と。
けれど、河北の胸の奥には、いつも小さな反発があった。
──違う。そうじゃない。
日常のありがたみ、なんてものを知るために、私たちは朝を早く起きて、音に身を削ってきたんじゃない。
ただの「ありがたい日常」を守るために、全てを懸けてきたわけじゃない。
もっと遠くへ。もっと高く、もっと熱く──夢を奏でたくて、音楽をしていた。
そのことを思い出したとき、河北の目から涙が溢れた。見て見ぬふりをしていたのは、ずっと奥底に押し込めていた、悔しさと、怒りと、悲しみだった。
河北は俯いて泣く森本を、そっと抱きしめて、そして大声を上げて泣いた。
森本もまた、彼女の背を抱きしめ返した。
二人の泣き声だけが、この初夏に響いていた。
*
しばらくして、二人は向き直す。
「悪い、痛かった、よな」
森本が目線を外す。河北は首を横に振る。
「ううん、私こそ、ごめん」
河北は一度鼻をすすってから振り返り、音楽室の窓を開けた。重たい枠が軋みながら開き、初夏の風が吹き抜ける。
遠くで蝉が一声だけ鳴いた。
「ねえ、私たち、これからどうしたらいいんだろう」
窓の外を見つめながら、河北がぽつりと呟く。
森本は少しの間沈黙し、それから答えた。
「分からねぇ。でも、俺たちは、このことをずっと受け入れられないと思う」
そのとき、雲の隙間から漏れ出た光芒が、教科棟を、音楽室を、そして二人を照らす。
――彼らは諦める他なかった。夢を、未来を。
だが、それで終わりだとは誰も思わなかった。
季節は移ろい、音楽も、夢も、かたちを変えてゆく。けれど、変わらないものも確かにあった。
かつて、彼らが追いかけたもの――それは、太陽のような夢だった。
触れられないほど遠く、眩しくて、まっすぐに見つめることすらできない。
けれど、確かにそこにあった。あの日々、朝より早く起きて、汗を流して音を重ねたのは、その光のもとに立つためだった。
太陽は、今も空のどこかにある。手は届かなくても、その光の残り火が、彼らの胸にまだ灯っている。
──諦めたからこそ、見える景色がある。
──諦めたからこそ、見つけられる光がある。
河北はそっと目を細めて、森本の方を見た。
「じゃあさ、ひとまず前に進もう。転んでも、うまくいかなくても。それでいつか、また前みたいに戻れたら、『私たちは頑張ったんだ』って、私たちのことを綺麗な言葉で綴って、美談にしてやろうよ」
そう言って、手を差し出した。
森本は、迷わずその手を握り返した。
*
校舎を出ると、空にはすでに夏の匂いが漂っていた。
陽射しは柔らかく、地面を染め、彼女たちの足元にまだらな影を落とす。
二人は並んで歩いた。
その沈黙は、もう痛みを伴うものではなかった。
太陽 海原 狸 @unabara_tanuki
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