@aomiya_mizuki

駅舎

忘れられない程の泥酔は私を焦燥させた。宿酔いは解けると思っていたのだが、どうやら度数がやや強かったらしく、頭が錆びたメリーゴーランドのように廻らない。私をここまで呆けさせたのは、今より一年前に付き合っていた彼女に別れを急に告げられたせいである。柔和で、気が利いていて、なによりも唇が艷やかで私のぽかんと空いていた胸の内が満たされるような気がしていた。切子細工程の一抹の華やかさは私には勿体ない勿体ない、あゝ勿体ない。そもそも私への不満なら私に吐露してほしい。何故女どもの旧友めらに流暢な会話の話題にされてしまうのだ。遮二無二わからないのである。太陽の方に開花しない向日葵のつもりならやめてほしいと心の底から思う。このまま酔いが醒められたら良かったのだが、そのまま催眠状態に陥ってしまった。いっそこのまま亡くなってしまおうと合点がいった。極論かもしれないがこんな醜い私を私自身が嫌いで嫌いで仕方がなかった。だが、今一度死んで気を失くしてしまう前に一つ、海を見てみたかった。今しがた海というものを見たことがなかったためである。昨日、食卓に並んだ一切れの艷やかな朱を纏った引き締まった身の鮭を実際に海へ行ってこの目で見てみたかった。十字の焼き目の裏の白い雲のようなものは果たして海に浮いていたのだろうか。あの塩辛い味は海のミネラルから由来するものなのかを知りたかった。二週間前に喫茶店にて奴から告げられた、「このまま一緒にいることが想像できない」という心許ない言葉の心理よりも昨夜、信楽の茶を纏った角皿の上に質量分の切り身を知ることの方が先決であった。だから、今こうして海にいる。誰もいない海の浜にいる。砂浜は果てしなく長く続いている。あの鮭とやらを見てみたい。鮭は海にいるのだからと我ながら安直な事象で一人電車を乗り継いでここまで来た。錆びた駅舎には誰もいない。運賃箱の投入口は広かったので財布ごと投入した。その時から、心拍とともに感情がクレシェンドのようでコードはF#くらい。波の声が胃の腑にすうっと落ちる。心が洗われたようなそんな気がした。鮭は海をどう思うのであろうか。この青い海を蒼い空を、太陽も私にとっての空気や美術であるのか。私はそのような遮二無二な感情で袂からソフト煙草を取り出したのである。

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