赤いカッパ

太田道灌

赤黒カッパの連中

それは一目で異様だと分かった。

妙にどす黒い赤いカッパを着た男が、呆然と改札口を見つめている。

見上げれば、雲一つない青空。真夏の太陽がじりじりと焼きつけ、目を背けたくなる。

男は微動だにせず、変わらず改札口を見つめていた。

周囲には彼を避ける人だかりができ、気味悪そうにひそひそ話す女子高校生たちもいる。

それでも男は周囲を気にせず、ただ改札口を見つめ続けていた。


不思議に思い、野次馬根性に駆られて男に近づいてみると、

煙草でも線香でもない、異質な煙の臭いに気を取られた。

臭いの元をたどれば、やはりあの赤いカッパの男だった。


男は中肉中背で、顔に特別な特徴はない。

いわゆる平均的な顔だ。

しかし表情はどこか虚ろで、それでも真っすぐ改札口を見据えていた。


はっきり言って,気味が悪かった。意味が分からない。だが,男が普通の人ではない人と言うことは底辺大学卒の自分の脳でも理解できた。


不意に,あの男に声をかけてみようという衝動が自分を侵食した。やがて好奇心と衝動に敗北し,男に声をかけるために近づいた。


男に近づけば近づくほど鼻に来る異質な煙の臭い。そして目につくどす黒い赤色のカッパ。


「あの,すみません。」

男は,それでも一切微動だにすることなく返事をした。

「はい,なんでしょうか」


その言葉を聞いたとき,自分の脳は強烈な違和感に苛まれた。日本語学習者とも異なる謎のアクセント,イントネーション。そして形容しがたい差違。

視覚・嗅覚・聴覚すべてが違和感に占拠された。


「何を見つめられているのですか?」

「……改札です。」

「なぜ改札を見ているのですか?」


そう声をかけた瞬間、男は消えていた。

視界の端に、赤黒いカッパの裾だけがわずかに揺れていた。


それが,すべての始まりだった。ICカードのタッチ音と話し声の奥に聞こえる蝉時雨に耳を傾けながら左手に持ったコーヒーを飲みほした。


――二体目を見かけたのは、それから二週間ほど経った頃だった。

何の気なしに、近所のコンビニに栄養補助食品を買いに出かけた帰り道。

ふと視界に入ったのは、あのときと同じ、赤黒いカッパをまとった人影だった。


その日も変わらず晴天。

連日の猛暑で、ニュースでは国が外出自粛を呼びかけていた。

うだるような暑さの中、重ね着をしているだけで異常だった。


また、あの男か。

そう思い、何気なく顔を見て、息をのんだ。


それは女だった。

しかも、思わず見とれるほどの美人。


けれど、その整った顔立ちを見れば見るほど、

彼女の身にまとう赤黒いカッパが、異様な違和感となって視界に染みこんでくる。


そして、あのときと同じ。

煙草でも線香でもない、どこか不吉な煙の臭いが、鼻先にまとわりついていた。


「あら、私に何か用?」


整った顔立ちに見とれ、異様な赤黒いカッパに言葉を失っていたせいか――

気がつけば、彼女と目が合っていた。


「あ、いえ……何でもありません」


内心では驚きに満ちていた。

それは、顔の美しさでも、唐突な問いかけでもない。


彼女の話し方だった。


――あの男と、まったく同じ。


発音の癖、抑揚、音量、話す速度。

まるで機械のように一致している。


口調には何か“人間的でない規則性”があり、それが逆に妙な生々しさを伴って耳にこびりついた。


そのあと、早急に会話を切り上げて、目的の品を手に取った。

レジを済ませると、何かから逃げるようにコンビニを出て、足早に家路についた。


偶然――ではないだろう。


あんな格好。

あの臭い。

あの、どこか機械的で奇妙な話し方。


それが二人も。しかも、別人。

そんな偶然があるはずがない。


だが、では偶然でないとすればなぜなのか。

そこに思考は届かない。

理由も、意味も、目的も、まったく分からない。


ただ、何かが始まりつつある。

そんな予感だけが、じわじわと胸に居座っていた。


――三体目を目にしたのは、意外なほど早かった。

コンビニでの女から逃げた、まさにその翌日。


出勤途中、職場のエントランスをくぐった瞬間――

また、あの“赤”が視界に入った。


今度も女だった。

だが、前日の女とはまるで雰囲気が違う。

年の頃は五十前後、落ち着いた佇まいにベテラン社員の風格が漂う。


けれど、やはりあのカッパ。

そして、煙のような臭い――いや、もはや“あの臭い”としか言いようがない。


同僚に訊いたところ――

あの女は、最近本社から異動してきたばかりのエリート社員らしい。

元本社組のやり手で、今はこの支社で新しくついた部下の教育を担当しているという。


そして、廊下の奥からふと耳に入った彼女の声。


「こういう案件は、絶対に取り逃さないでね」


――また、あの話し方だ。

あの改札口の男、コンビニの女、そしてこの女。


三人とも、話し方がまったく同じ。


あの妙なアクセント。

どこか緩慢で、しかし一音一音が過剰に明瞭な発音。

流暢なのに不自然な、日本語のようでいてどこか違う響き。


普通ではない。

絶対に、普通の人間ではない。


――それからというもの、

赤黒いカッパを着た人々に遭遇する頻度が、目に見えて増えた。


毎日のように、視界のどこかにあの異様な姿が映り込む。


――ある時は、デパートのエレベーター内。

――ある時は、カラオケの待合室。

――またある時は、休日に訪れた隣町の緑地公園で。


気がつけば、あのカッパたちは、街に溶け込んでいた。


周囲の人間たちは、もう飽きたように関心を失っていた。

「またあれか」とでも言いたげに、誰も気に留めていない。


だが、自分は違った。

何故だか分からない。

あれだけ目にするうちに慣れてもよさそうなものなのに、

どうしても視線を逸らすことができなかった。


赤黒いその姿が、何かを訴えかけてくるような気がしてならなかった。


――さらにしばらくしてからのことだった。

彼らは一人ではなく、集団で現れるようになった。


電車の三号車には、ずらりと並んだ赤黒いカッパの集団。

全員が無言で、同じ方向を向いていた。


公園のベンチでは、三人並んで座ったカッパたちが、まるで順番を待つかのようにじっと前を見つめていた。

誰一人、喋らない。動かない。


ある晩、近所の定食屋に入った時は、思わず目を疑った。

カウンターからテーブル席まで、合わせて十三名のカッパ。


それぞれが別々の席に散ってはいたが、全員、赤黒いカッパを着て、どこか同じように虚ろな目をしていた。

食事をしていた者もいた。スマホをいじる者すらいた。

だが――何かが決定的に「違う」と、皮膚感覚でわかった。


それは、日常に溶け込むようでいて、あまりにも不自然な風景だった。


一度だけ、これは何かのファッションなのではないかという可能性が頭をよぎった。

まさかとは思いながらも、念のためにファッションに詳しい知人に聞いてみた。


返ってきたのは、嘲笑を含んだ一言だった。


「……何馬鹿言ってんの?」


その冷たく呆れた声が、妙に耳に残った。


――そうか、やはり違うのか。


では、あれは一体何なのだろうか?


誰にでも見えている。誰も騒がない。だが、自分だけが気になる。

ぐるぐると考えが回る。何度も、何度も。


浮かんでは消える思念。

掴めそうで掴めない答え。


煙の臭いだけが、鼻の奥にしつこくこびりついていた。


――217体目だったか274体目だったか分からないが,また連中を見つけた。

今度は,珍しく一人だった。

いつもと変わらない赤黒いカッパ。

そして何かを呆然と見据えるその奇怪な目。


だが、違和感があった。


――臭いが、違う?


いつもの煙の匂いだと思って深く息を吸い込んでみた。

しかしその香りは、どこか焦げ付き、さらに腐った生ごみのような、嫌な臭いを含んでいた。


その臭いが、胸の奥にじわじわと嫌な予感を染み込ませていく。


「おはようございます。」

相手から声がかかった。いつもと同じ、不思議なイントネーションの話し方だ。

だが、視線の奥にこちらを見透かしたような空気を感じた。


「おはようございます。」

咄嗟に返す。


「おや、私、臭いますか?」

言葉を受けて、どう答えればいいのか迷った。


そこからはお世辞を並べて、どうにか話を切り上げた。

軽い世間話で会話を終わらせたが、あの謎めいた臭いだけが、鼻にしつこくこびりついて離れなかった。


――何かが違う。何かがおかしい。


一度、警察に相談してみた。

だが、拳銃密輸や連続殺人事件の対応に追われ、まともに取り合ってはもらえなかった。

事情聴取を受けたが、それで終わり。


虚ろな返事を受け取り、妙に空しくなった。


――そこからは,特段変わったことはなかった。

ただ、赤黒いカッパの人々が日常の片隅にひっそりと紛れ込むようになっただけだった。


街の騒音と人々の喧騒の中で、彼らの存在はいつの間にか当たり前の風景となり、誰もが無視するかのように視線を逸らした。


拳銃密輸事件や連続殺人のニュースが連日報じられ、緊張感が高まっていく中,この町では平和な日々が続いていた。


その奇妙なカッパの男たちと共に、静かに、しかし確実に時は過ぎていった。


――あれから三年の月日が経ち、赤黒カッパは町のあちこちで見かける“ありふれた風景”になっていた。

結局、彼らが何者で、何のために、何をしているのか――誰にも分からないままだった。


だが、もはや気にする者はいない。

拳銃の密輸事件だの、連続殺人の犯人が未だ捕まっていないだの、もっと“直接的に”危険で、“叩きやすい”対象が世間の関心を奪っていった。


赤黒いカッパの連中は、不気味ではあるが、何もしない。

ただそこにいるだけで、危害を加えるわけでもない。


それよりも、「国家権力の怠慢」や「自分たちの生活に影響する事件」の方が、ネットで騒げて、正義を語れて、快感がある――

だから、誰も彼らを気にしなくなった。


ふと、交差点のガラスに映った自分の姿に目が止まる。

変わらぬ日常。変わらぬ生活。変わらぬ姿。


一瞬,赤黒いカッパを着た自分を幻視した。

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赤いカッパ 太田道灌 @OtaSukenaga

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