第12話 模擬戦(2)
世界はいつも正しさを求める。
勝利を渇望し敗北を嘲る。
だけど、だから――
アリアは、攻撃を止めない。
残り時間、7秒。
リゼットの横隔膜を揺らす、重く、沈み込むような掌打。呼吸を止める。
体勢を崩したリゼットの左膝を的確に蹴り抜く。運動性能を奪う。
三撃、四撃、五撃。
的確に、急所だけを狙った、嵐のような打撃。
リゼットは、なすすべもなく防戦一方となる。
あと一撃。
あと一撃で、リゼットの意識を刈り取れる。
リゼットの身体は完全に沈黙する。
勝利、できる。
今、この一撃を叩き込めば、全てが変わる。
父を笑った連中を、全員、見返すことができる。
アリアの瞳に、勝利の光が宿りかけた、その瞬間。
その拳が、ぴたりと止まった。
勝利という果実を目前にしながら。
リゼットの鼻先、数センチのところで。
アリアの脳裏に、ユリウスの声が蘇る。
感情の乗らない、無機質な声。
『命令だ』
それは、勝利への渇望を縛る、絶対の呪い。
嫌だ。
ここで約束を破ったら、きっと、先生はわたしを見捨てる。
もう、何も教えてくれなくなる。あの人の隣にいられなくなる。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
見返したい。でも嫌われたくない。先生を失いたくない。
相反する感情の奔流が、彼女の中で激突し、火花を散らす。
ほんの刹那の、しかし永遠にも感じられる葛藤。
――約束の10秒は、終わった。
アリアは、張り詰めていた糸が切れたかのように、すっと拳を引いた。
そして、大きく後ろへ跳躍すると、未だ呆然とする審判に向かって、はっきりと告げる。
「……参りました」
その声は、少しだけ、震えていた。
あっけない、幕切れだった。
騒然とするアリーナを背に、アリアはユリウスの元へ歩み寄る。
「先生。言うとおりに、しました」
その声には、微かな誇りと、そして、それ以上に大きな、何かを押し殺したような響きが滲んでいる。
表情は、汗にまみれながらも、どこか晴れやかだった。
晴れやかに見せようと、必死に笑顔を作っている、そんなふうだった。
「ああ。格上の相手を倒すには、一瞬の隙を突き、一撃で戦闘能力を奪うしかない」
ユリウスは、ただ短く答えて、それ以上は、何も言わなかった。
教え子が、自分の指示通りに戦う。
それは当然のことで、すべての前提で――説明が必要だとは思っていなかった。
勝利を確信した瞬間こそ、あらゆる敗北の入り口となる。
驕り。油断。そして、思考の硬直。
それは、どれだけ訓練を積んだ戦士であろうと、決して逃れることのできない罠だ。
だからこそ、ユリウスは、深追いするな、と教える。
有利な状況でこそ、一度距離を取る。
敵の最後の一手――その逆転の目を潰す。
命のかかる実戦ならば、追い詰められた相手が最後の魔力を振り絞り、自爆覚悟の攻撃を仕掛けることもある。
そして、利き腕の使用禁止。
それは、単なるハンデではない。
戦場において、常に最適解を選べるとは限らない。
腕を負傷した場合。
武器を失った場合。
あらゆる不測の事態を想定し、次善策、あるいは最悪の状況下での悪あがきを、その身体に刻み込ませる必要があった。
生き残るために必要なのは、最強の一手ではない。
あらゆる状況に対応できる、思考の柔軟性と、選択肢の多さだ。
もし、アリアが約束の10秒を超えて、最後の一撃を放っていたら。
この模擬戦だけは、勝利したのかもしれない。
ここでリゼットを倒すことが目的ならば、それでもいい。
ただ、アリアが目指していたものは、目指すべきものは決して目先の勝利ではないはずだ。
ユリウスは、そう考えていた。
その夜。
ユリウスは、生徒寮の裏手で、一人、膝を抱えて泣いているアリアの姿を見つけた。
月の光も届かない、暗闇。
声を殺し、肩を震わせるその姿は、昼間の彼女とはまるで別人だった。
それは、論理と感情の乖離。
すなわち、人間の持つ非合理的な側面そのものだった。
その嗚咽は、まるで傷ついた小動物の鳴き声のように、痛々しく響いていた。
ユリウスは、その隣に、静かに腰を下ろした。
「……なぜ泣く必要がある」
ユリウスの問いに、アリアは、しゃくりあげながら答える。
「だっ……て……くやっ……悔し、く、て……」
「……」
「本当は、わたし……勝てたのに……! 最後の一撃を、出せば……!」
涙と嗚咽に、言葉が何度も途切れる。
「そんなこと、ばかり、ずっとっ……考えて……自分が、嫌になって……。わたし、きっと、勇者になりたいんじゃなかった……。お父さんのこと、馬鹿にされたのが、悔しくて……。馬鹿にしてた、人たちのこと、見返して、やりたくて……。ただ、それだけ、だったって、わがって……!」
それは、不合理な感情の奔流。
嗚咽に何度も遮られながらも、堰を切ったように溢れ出る言葉。
彼女がずっと心の奥底に隠してきた、泥のような、しかしあまりにも人間的な感情の奔流だった。
ユリウスに理解はできない。
だが、その熱量だけは、嫌というほど伝わってきた。
「みんなを守りたいなんて……嘘、だった……。自分の、プライドのため、だけに、先生との約束も破ろうとした……。そんな、身勝手なわたしが……恥ずかしくて、情け、なくて……」
自己嫌悪の嵐の中で、少女は溺れかけていた。
「こんなんじゃ……、わたし、勇者になんて、なれるはず、ない……!」
ユリウスは、合理的な解答など、持ち合わせていない。
どうすればいいのか、どうすべきか、何も分からなかった。
ただ、気づけば、ユリウスの右手が、不器用に伸びていた。
ぎこちない動きで、震える栗毛の頭を、ゆっくりと撫でていた。
アリアが、びくりと肩を震わせ、涙に濡れた瞳でユリウスを見上げる。
その瞳に、何を言うべきか、ユリウスは一瞬、思考を巡らせた。
そして、昼間、言いそびれた言葉を、口にした。
それは、慰めでも、同情でも、共感でもなく。
不合理な葛藤の末に、少女が選び取った選択――最も生存確率の高い選択に対する、ユリウスなりの、最大限の評価だった。
「――よくやった」
その一言は、少女の涙を拭うためではなく。
ひとりの戦士が下した、世界で最も正しい敗北。
それを、認めるために。
冷たい夜空の下で、確かな熱量をもって、響いていた。
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