狂気猫

月這山中

 

 おわあ、おわあ、おわあ。


 外で野良猫が鳴いている。

 私は執筆の手を止める。

 暗い部屋でも目がやられないようにダークモードにしたモニター、連なった百字ほどをBackSpaceキーで削除する。生理前の荒れた肌が余計に神経を苛立たせる。

 遅々として進まない原稿から逃げるように体を横に滑らせる。


 おわあ、おわあ、……おわあ、おわあ。


 初夏の短い夜。盛った猫の声は断続的に続いている。

 私は空になったコップを手に取った。

 自分の部屋から出て階段を降り、台所へ水を汲みに向かった。


 おわあ、おわあ、おわあ。


 猫の声が近付く。随分と近所で鳴いているようだ。

 階段を降り切って、和室で眠っている父を起こさないように、電灯はつけずリビングへ入る。

 暗闇に慣れた目は蛇口を探し当てる。天窓から差し込む三日月の僅かな光を反射している。

 コップに水を注ぎ入れる。


 おわあ、おわあ、おわあ、おわあ、おわあ、おわあ。


 声が激しくなった。二匹が鳴き交わしているというわけでもなく、一匹の声が息も切らさず続いている。

 ふと気付いた。

 声は父の部屋からしている。


 おわあ、おわあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。


 私はコップを手にしたまま和室の前に立った。

 気の病を発して家に籠った父を母は見捨てた。私は父の面倒を見るために仕事を辞め、先の見えない生活を続けている。

 僅かに開いた引き戸の端に手をかけて、私は、その中を覗き見る。


 ぬるりとした光沢に包まれた眼球が見えた。


「おわあ」


 目をいっぱいに見開いた父が、こちらを覗き返していた。

 水が靴下を濡らした。震えた手がコップを取り落としたのだ。私は跳び退った。


「はは、はははは、はは、びっくりしただろ」


 悪戯好きの父が笑いながら出て来た。

 気の病を発する以前からこういう人だった。これも愛想をつかされた原因かもしれない。

 私は拳で床を叩いて怒りを露にする。


「どうしてくれるの、これ」


 水浸しの床を指さす。


「すまんすまん、拭くの手伝うよ。でも夜更かしはほどほどにな」


 父は謝るが反省の様子はない。

 私は立ち上がって、電灯のスイッチを探し当てた。


 おわあ。


 明るくなったことで、ようやくそれを認識した。

 巨大な毛むくじゃらの顔が窓に貼りついていた。

 ぬるりとした光沢に包まれた眼球が見えた。


 瞬間、風が吹き付けるような音がしたかと思うと、私と父の肉体は壁と共に掻き混ぜられた。



  了

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狂気猫 月這山中 @mooncreeper

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