第36話 リリーの不安

「ではもう一度確認しますね」


 リリーの部屋につき、彼女が荷物の片付けをしている間にミラベルはカモミールティーを入れた。少しでも気持ちが落ち着くように願いながら入れ終わる頃にはリリーもミラベルの対面のソファに腰を下ろす。


 リリーの住む部屋は小さなキッチンが付き小ぶりの応接セットの置かれた部屋と扉を隔てた隣に寝室のある二間続きの部屋だ。今まで貴族の邸宅に住んでいた者にとっては馬小屋よりも狭いだろう。それでも階下の平民用の部屋と比べれば寝室が別になっているだけましだった。


「まず、離婚を勝ち取るためにかかる弁護士の費用に関しては慰謝料から一割を報酬としていただきます。これは成果報酬となりますので、リリー嬢が用意する必要はありませんわ」


 そう言いながらミラベルは詳細の書かれた一枚の書類を彼女の前に差し出す。


「それから、住居費に食費、お風呂の用意などの使用人代ですが、慰謝料が支払われてから実費を請求させていただきます。こちらも最初に用意していただくことはありません。もちろん、先に支払うことが可能であればそれでもかまいませんが……」

 

 境遇的に最初に用意することは難しいとミラベルは思ったものの、以前打ち合わせした時にリリーはなるべく先に支払いたいと言っていた。

 

「……お恥ずかしながら資金を用意することはできませんでしたわ」


 伯爵家の令嬢として生まれ育ちその後伯爵夫人だったリリーにとって、ある意味施しを受けるような現状はつらいものだろう。何かしら先立つ物さえ持ち出せればそれも可能だったのだろうが、そもそもそんなことができるのであればここまでのことになっていない。


「ではこちらも後からとさせていただきますね」


(貴族としての矜持はこんなことでは傷つかないのよ)


 そう伝えたかったけれど、ミラベルはあえて何も触れずに次の話題へと移る。


「たとえ慰謝料を受け取ったとしてもそれでずっと暮らしていけるわけではありませんわ。打ち合わせの時にもお話しさせていただきましたが、刺繍を仕事にする、その考えに変わりはありませんか?」


 リリーは学園生の頃から校内で話題になるほど刺繍の腕が優れていた。彼女の刺した刺繍を欲しがる者も多く、それこそ在学中に彼女が寄付をしたタペストリーは学園長室に飾られたという。


「ええ、変わりありません。私にはそれしかないのですもの。仕事として成り立ち収入につながるのであればこちらからお願いしたいくらいですわ」

「わかりました。ではドレスショップとの打ち合わせの時間を設定させていただきますね」

「でも……大丈夫なのでしょうか? 私の刺繍に商品となる価値があるのかどうか……」


 貴族の女性にとって刺繍は仕事ではなく女性としての価値を高めるものでしかない。幼き頃から手習いとして学び、素敵な刺繍を刺せることは令嬢の良さの一つとして判断された。そして綺麗な刺繍が施されたハンカチを持つ夫は、それだけ教養豊かな女性を妻に持てるほど優れているとみなされるのだ。


「もちろんですわ。リリー嬢の刺繍に価値を認めているからこそショップのデザイナーも仕事として依頼したいと言っているのですから」


 幸いなことに今社交界では凝った刺繍を施したドレスの人気が高まりつつある。リリーの腕があればドレスショップはさらなる話題を呼ぶことができるだろう。


「……夫に見つからないかしら?」


 それはある意味リリーにとって一番心配なことなのかもしれない。


「離婚が成立するまでは請け負いの形で仕事を受注した方がいいと思いますわ。この寮内であれば簡単に入ってくることはできないですしね」


 一商会の寮とはいえ、アルバート商会は領都で一番栄えている商会だ。警備を担当する者たちも雇っているし、そもそも表向きには平民が住んでいる寮。ここにリリーがいることを見つけることも難しければ、中に入ることも難しいはず。

 もし無理矢理にでも押し入ろうものなら、伯爵家が侯爵家に喧嘩を売ることになる。日頃は貴族であることをあまり感じさせないアルバートではあるが、それでも侯爵家の者だからだ。


「日用品などの買い出しも使用人に頼んでください。窮屈かとは思いますが、少しの辛抱ですわ」

「これからの自由のためですもの。苦にはなりません」


 そう言ってリリーがふわりと笑った。

 再会してから今までで一番の微笑みだった。


 


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