Reverie Fall:第五意識層の子どもたち

CROY

第1話:静寂の下に眠る傷

 最終電車が到着する数分前。ホームには冬の風が吹き込み、構内の空気を冷たく撫でていた。


 平日の深夜にしては人が多い気がする。だが、耳に届くのは構内放送と電光掲示板の機械音だけ。会話ひとつない沈黙が、寒さをさらに際立たせていた。まるで、この場所だけ時間が止まっているかのように――。


 神崎 蒼真(かんざき そうま)は、講義のあとに掛け持ちした二つのバイトを終え、限界に近い体をベンチへ沈めていた。そのうち一つは急な欠員を埋めるために引き受けたもので、本来なら断っても誰も責めはしなかっただろう。だが彼は、困っている人を見捨てられない性分だった。


 それでも、明日も朝から講義があることを思えば、そろそろ身体に無理がきていた。背もたれに寄りかかり、重たいまぶたを押し上げながら、手の中のスマートフォンをぼんやりと眺める。


 画面に表示されたのは――


 『E.G.O. Corporation/研究開発部門・技術職採用募集』

 “過去に触れ、未来を創る。”


 その社名に、蒼真の目がわずかに揺れた。


 幼い頃、両親が研究員として勤めていた世界的テック企業――E.G.O.社。あの日までは、家族と未来を繋げる光だった。今はただ、手を伸ばしても触れられない、過去の残像。


 それでも――いつか、もう一度“ここ”に辿り着ければ、何かが変えられる気がしていた。


 目を閉じれば、記憶がふと甦る。


 研究棟のガラス張りの廊下。 白衣をまとい、笑顔を交わす両親。 その手を引かれ、「僕もいつかここで働くんだ」と無邪気に語った自分。


 だが、その記憶はある日を境に途切れている。十年前、《レヴリィ・フォール事件》。世界中が、誰も望まぬ“夢”に呑まれた、あの夜から。


 あの日、突然人々が眠りに落ちた――。そして、奇妙な“夢”を見せられた。まるで誰かが意図的に送信したかのような、共有された幻覚。夢の中で人々は最も恐れる記憶や後悔を突きつけられ、現実に戻ると心を壊していた。自我の崩壊、自傷行為、昏睡。あらゆる異常が世界中を襲い、各国政府は「原因不明の精神感染症」として緊急事態宣言を発令した。


 だが、本当の原因は、今も一般には伏せられている。


 「……はぁ」


 深く吐いた息が白く染まり、駅の冷たい空気に溶けていった。


 ――その時だった。


 「……やめろ、やめろ……行かないでくれ……頼む、戻ってきてくれ……!」


 ホーム中央で、スーツ姿の中年男性が突然叫び出した。


 虚空に手を伸ばし、誰かを掴もうとするようにふらつきながら進むその姿に、周囲の視線が集まる。


 「おい、あれ……」

 「何やってんだ……?」


 現実感の薄いその光景に、人々は戸惑い、ざわつき始める。


 次の瞬間、男の周囲に波紋のような“何か”が広がった。空間の端が歪み、照明がノイズを帯びてちらつく。視界の隅に、あり得ない残像が揺らいだ。


 ――俺、疲れすぎて幻覚でも見てるのかな?


 だが、そう思った瞬間、男の視線の先に“光に包まれた女性”の影が現れた。


 その光景に引き寄せられるように、男が手を伸ばす。だが、無数の黒い手が男の身体を絡め取り、足から腕、頭部にまで絡みついていく。


 ――違う。これは、幻覚なんかじゃない。


 蒼真は震える足に力を込めて立ち上がった。


 そのとき、視界の端に少女の姿が映る。


 ホームの柱の陰。小柄な体を縮こまらせるように震えながら立ち尽くしていたのは、肩より少し長い黒髪の少女。十年前に失った妹・紗雪(さゆき)を思い起こさせる面影。


 「っ……!」


 理由なんてなかった。ただ、放っておけなかった。


 気が付けば、蒼真は少女と男の間に割って入るように駆け込んでいた。


 その瞬間――世界が反転する。


 時間が巻き戻るような圧力。耳鳴り。周囲の光が一つずつ途切れ、音を立てて再構築されていく。


 蒼真の内側で、普段は閉ざされた“何か”が開かれた。


 ――(なんだ、これは……)


 蒼真の額から蒼い閃光が弾けた瞬間、男の脳裏にこびりついていた「後悔」と「喪失」が現実に染み出した。


 空間が共鳴し、男の過去が、まるで感染するように周囲の人々に流れ込む。


 ある者は泣き叫び、ある者は膝を抱えて震え、ある者は笑い出す。

 剥き出しの精神が、そこに在った。


 「やめろ、やめてくれ……なんだよ、これっ……!」


 蒼真自身の叫びが、混沌の中心で響いた。


 自分が何をしたのかはわからない。だが確実に、あの瞬間、世界を歪ませた。そして、その“引き金”を引いたのは――自分の中に潜んでいた「何か」だった。


 心臓が脈打つたび、鼓膜を内側から叩くような圧迫感が増していく。視界はまだらに色を変え、知らぬ他人の記憶が押し寄せてくる。中年男性の過去。絶望。喪失。愛した者を取り戻せなかった痛み。


 「やめろ……やめてくれ……っ!」


 他人の記憶に自分の意識が浸食されていく。自我と他者の境界が曖昧になり、足元がぐにゃりと揺らぐ。悲鳴と嗚咽が混ざり合い、ホームは現実とも夢ともつかない混濁の渦へと変貌していた。


 蒼真はただその中心で立ち尽くす。何が起きているのか、どうすればいいのか、全てが霧の中だった。


 だが、それでも確かだった。この悪夢のような現実を引き起こしたのは、自分自身なのだということ。


 そして――


 「眠れ」


 低く、鋭利な声が混沌を断ち切った。


 黒いコートを纏った男がホームの端に現れ、無言のまま、手にした銃のような装置を構える。冷たい機械音とともに、装置がわずかに振動した刹那――発射音。


 次の瞬間、蒼真の視界はまるでインクを垂らした水のように黒く染まり、輪郭も色も、音までもが押し流されていった。


 重力の感覚が喪われ、身体が浮き上がるような錯覚に襲われる。けれど、心は逆に、深い淵へと引きずり込まれるかのようだった。


 胸の奥が軋み、脳裏に浮かぶのは意味をなさない断片――父の背中、母の笑顔、泣きじゃくる妹の声。ひとつひとつが針のように意識に突き刺さり、混濁する現実と夢の境界で蒼真は喘いだ。


 暗闇に落ちていく途中で、確かな“確信”だけが心に残った。


 ――この世界には、俺の知らない“何か”が隠されている。


 消えかけた視界の片隅で、少女の泣き顔が見えた。

 

 その涙を、誰かが救ったと信じたい――。


 蒼真の意識は、静かに闇へと溶けていった。




 冬の静寂が戻ったホームに、静かに響く冷たい声が割り込んだ。


 「救護班、確保対象者を直ちにドクタールームへ。麻酔は効いているようだが、油断はするな」


 黒いコートを羽織った男が、通信端末を握り締めながら指示を出す。彼の鋭い瞳が、暗がりの向こうで揺れる不穏な影を見据えていた。


 「駅および周辺一帯を警戒封鎖。まだ残響が残っているな。状況を確認し、適切に対処しろ」


 男の命令は簡潔だが、その一言一言に確固たる覚悟が込められていた。静かな闇の中、動き始める者たちの足音だけが、冷たく響いている。


 「駅および周辺エリアの監視データはすでに遮断済み。報道対策は第三班に引き継がせろ。……接触反応あり。精神汚染に気をつけろ、警戒を怠るな」


 男の隣に現れた白衣の人物が、小型端末を操作しながら頷く。


 「やはり覚醒の兆候が見られます。発現は一時的だとしても、あの規模の干渉は……素人の範疇じゃない」


 黒コートの男は返答せず、ただホームの奥に視線を送る。


 誰もいないはずの場所。だが、確かに“誰か”の気配があった。


 ――観測されている。


 己の直感がそう告げていた。記録には残らない“歪み”が、世界の裏側で静かに口を開きつつある。


 「J.A.N.U.S.第六特異調整班、対象コードNo.045──神崎蒼真を確保。これより基地へ連行する」


 冷静な報告の声が、誰もいない構内に虚ろに響いた。


 そして再び、静寂が戻る。


 凍える夜の中で、誰にも知られず、ひとつの“物語”が始まりを告げていた。

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