第2話:影の機関との邂逅

 意識が、波に揺られるように浮き沈みしていた。 重く、鈍く、どこまでも深い闇に沈んでいく感覚――深海の底か、それとも胎内へ還る夢か。名状しがたい沈黙の中で、確かに存在だけが浮いている。


 ――生きて、る……? 俺は……。


 瞼は鉛のように重く、光も音も届かない。けれど、遠くのどこかで、電子音のようなノイズが断続的に聞こえてくる。


 「脳波、安定。能力の暴走は沈静化しました」


 「精神干渉領域、回復傾向。記憶混濁は……やや残っています」


 「仕方ない。初めて“サブレイヤー”に触れたんだ。これなら上出来だ」


 ……誰の声だ? 何の話を……。


 そんな思考の隙間に、乾いた靴音が割って入る。コツ、コツと、床を踏む革靴の音が、まるで水面へ投げられた小石のように意識を波立たせた。


 「おはよう。そろそろ目を覚ましてくれるかい、神崎 蒼真くん」


 その声音に引かれるように、蒼真はゆっくりと瞼を開いた。


 視界に広がったのは、無機質な天井と白い壁。


 自身の腕には点滴が繋がれ、脇にはモニターが規則的に電子音を鳴らしている。空気には微かに消毒液の匂いが混じっていた。


 「……病院?」


 かすれた声が喉を裂くように響いた。


 「いいや。ここは“表”の医療施設じゃない。君のような《能力者》を扱う、“影”の収容機関だよ」


 声の主は、黒のスーツに身を包んだ男だった。


 椅子に深く腰掛け、整った姿勢のままこちらを見据えている。


 その眼差しには冷徹さと同時に、測り知れない深みがあった。


 「君のあの暴走――あれは“常識”の範囲を超えていた。一般的な認識操作では処理しきれなかった。だから、我々が“介入”した」


 「……あなたは、誰ですか……?」


 蒼真の問いに、男はゆっくりと立ち上がった。そして、内ポケットから黒いIDカードを取り出す。


 「伏見 零士(ふしみ れいじ)。政府直属の特異管理機関――J.A.N.U.S(ヤヌス)、第六特異調整班 班長だ」


 「ヤヌス……?」


 聞いたことのない名称。しかし、なぜか耳に馴染む響きだった。公安でも、自衛隊でもない。だが、それ以上に危険で、現実離れした匂いがする。


 伏見は壁際の端末を操作し、モニターに映像を投影した。だが、そこに映っていたのは、蒼真が“現実”として記憶していたものとは、あまりにも異なる光景だった。


 空間がゆがみ、ノイズのような黒い手が周囲を這い、黒い靄で埋め尽くされた画面の端で、あの少女が泣いていた――あの瞬間が、明確に記録されている。


 「なんなんですか、これ……俺、あんなの……見た覚え、ない……」


(俺が見たのは……あの女性は……?)


 あの男が、縋るように手を伸ばしていた”光に包まれた女性”の姿はどこにも映っていない。


 「それが、“サブレイヤー”だよ」


 伏見は、言葉を区切りながら静かに続けた。


 「我々の無意識領域に存在する、もうひとつの世界――人間の深層心理、潜在意識が形を取る空間。君はそこに、干渉した。そして、“過去”を引き出した」


 「……っ、そんな……」


 蒼真の身体が震えた。


 指先から冷えが這い上がり、胸の奥がざわつく。世界が遠のき、音も色も薄れていく。自分だけが現実から置き去りにされているような感覚。


 やはり、“引き金”を引いたのは自分だった。


 あの場を、あの恐怖を、無自覚に生み出したのは他でもない――その事実が、静かに、だが確実に心を侵していく。


 理解が追いつかない。けれど、それでも、恐怖と罪悪感だけは確かにそこにあった。


 息が詰まり、膝がかすかに震えた。


 おかしくなりそうだった。けれど、その瞬間――伏見の声が、深い水面の底から響くように届いた。


 「落ち着け。今すぐに全てを理解する必要はない」


 再び、静かに椅子へと腰掛け、足を組み、腕を組む伏見。斜め上の虚空を見つめながら、静かに、だがとても耳の奥に響く声でつぶやく。


 「ただし、これだけは覚えておけ。君はもう、“戻れない”」


 その言葉が胸の奥に突き刺さり、蒼真の心に冷たいひびが走った。


 「……どういう、意味ですか……?」


 その声に反応するかのように、そっと視線を戻した伏見の表情には、安堵と懺悔の入り混じった複雑な表情があった。


 「おかえり、神崎 蒼真くん。君は”選ばれた”わけじゃない――踏み込んでしまったんだ。世界の“深層”に、触れてはいけない領域に」


 その瞬間、病室の扉が開いた。




 入ってきたのは、四人の人物だった。


 最初に、黒一色の衣装に身を包み、長い髪を後ろで束ねた、長身で中性的な雰囲気の男が、眼鏡越しに穏やかな眼差しを向ける。


 続いて白いパーカーのフードを目深にかぶった、淡い銀髪の少年が、前を行く男の背中に隠れるようにこちらを覗っている。


 その後ろで、白衣を纏った赤髪の女性が、無言で入口の壁に背を預け、冷ややかな視線だけを蒼真に向けていた。


 そして最後に入ってきたのは、薄い茶色のコートに身を包み、缶コーヒーを手にした男。無骨な風貌の奥に宿る鋭い眼差しで蒼真をじっと見つめ、まるで何かを見透かすように目を細めた。


 病室内に一瞬の沈黙が流れた。


 「……この子も、あの日の“子ども”なの?」


 赤髪の女――九条 紅音(くじょう あかね)が呟く。


 「違う」伏見が即座に応える。「”彼だけ”は、深部に触れていた」


 空気が変わった。


 蒼真の運命も、世界の在り方も――静かに音を立てて、回り始めていた。

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