第一章・出逢い

 僕が目覚めた時、そこは小さな和室の布団の中であった。

 カポン、と遠くから聞こえる。その軽快な音色は心を落ち着け、同時に目を覚ましてくれるよう。

 起きあがろうとすると、右の脇腹が激しく痛む。寝ぼけたままでは故が思い出せず、そのまま周囲を見渡した。

 八畳ほどの、ありふれた数奇屋造りの一室。穴一つない障子を透かして届く日の明かりが暖かく、清潔な布団や簞笥たんす、床間や掛け軸からは生活感と人柄が感じられる。家具は少ないが、床間には狐皮の装飾が施された美麗な打刀と脇差。無論、僕のものではない。

 武家の邸宅だろうかと考えた時、ふすまの向こうから足跡が聞こえた。

 音は軽く、歩幅は小さい。

 武士ではないだろう。

 布を引きずる音が無いことから、振袖や花魁等の着飾った連中とも考えられない。

 少々肩の力を抜くと、襖の向こうから僕と同じくらいの少女が現れた。

 背丈は同じくらいだが、山吹色の柄の無い小袖、鉄紺色の帯、ほんのり丸まったおかっぱの黒髪、奥二重が見え隠れする垂れ目。市松人形のような幼さを感じさせる彼女は漆器の膳を携え、目が合うなり笑顔で挨拶を始めた。

「おはようです! 気分は、どうですか?」

 敬語の使い方に違和感を感じるが、ひとまず畏まり一礼、大丈夫と返す。

 すると少女は向日葵ひまわりのような明るい笑顔を浮かべ、座り込み続けた。

「それはよかったです! 運び込まれた時は怪我をしてて少し冷えていたみたいですから。何があったかは分からないですが、おじ様……ここの主人が見つけてくれたんですよ」

 理由は分からないが、ここの主人に助けられたらしい。続けて彼女のことも尋ねてみる。

「私ですか? 私は巴です! ここの……家事当番……って感じですね」

 言い淀む様子に違和感を感じるものの、美雪は現状を把握するために話を続けようとした――が、巴が持ってきた膳の上のそれに気を取られた。

 すぐに気がついた巴は膳を美雪に寄せ、食べるように勧める。少々申し訳なかったが、巴の善意を無碍にするわけにもいかない。

「いただきます」

 そう告げ、遠慮なくはしを取った。

 白米に味噌汁、大根の漬物はよく見る一般的なものだが、目新しい料理が一つ。

「卵焼きです! 甘くてふんわりして、おじ様も大好きなんですよ」

 卵焼き。聞いた噂では、鶏卵をかき混ぜ焼いた料理だったはず。最近は洋食や肉食が広まる世の中のため聞いたことはあったが、初めてお目にかかる。

 色合いはたくあんにも似ているようだが、言うなれば黄金の豆腐のようで、横を覗くと簀巻すまきをそのまま巻いたような形にも見えた。

 試しに箸を入れてみると、ふわりとした感触と共に簡単に裂け、あたたかな蒸気が飛び出した。

 早速口の中へと運ぶ。

 するとそれは口の中で溶けるように崩れ、白米や甘味とも違う不思議な甘さが広がった。これが鶏卵の味かと噛み締めると、白だしのような旨味が隠れていた。

 続けて頬張った白米とも合う。自然と箸は進み、あっという間に半分食べてしまう。

 初めての卵焼きに、美雪は心を躍らせていた。

「おいしい……」

 不意に呟くと、巴は嬉しそうに微笑み、両の頬に手を当て体を揺らしていた。


 ◇ ◇ ◇


 美雪が食べ終わると、巴は膳を横にずらし、改めて挨拶を始めた。

「私、前原 巴っていいます。ここの鍛冶屋の家事を任せて貰って、住まわして貰ってるんです」

 やはりどこか違和感のある敬語だ。

 耳を澄ましても外から人の声や生活音が聞こえないことからこの家は人里から離れている場所に建っているようだが、上下関係とは縁遠い生活を送っているのだろうか?

「あ。言っておきますけど、この鍛冶屋の家主のおじ様は私の叔父だから、決して親に勘当されたとかじゃあないですよ? 私が親に許可を……とれなかったけど。ちゃ、ちゃんと! おじ様に許可をとったんですからっ!」

 何も返していないのに滅裂な言い訳を始める巴。

 色々おかしい所もあるが、気にしないことにした。家庭の事情というのは部外者がとやかく言うものではない。ましてや助けてもらった身、余計な事を言っては失礼だ。

 それより、こちらも自己紹介を返すべきだろう。

「僕は、霧沢きりさわ 美雪です。えっと……女武芸者、です」

「あぁっ! やっぱりそうなんだ!」

 突然声を張る巴に、少し身を引いて続きを聞く。

「あの漆黒の鞘と脇差! 脇差は一介の武士が買えるようなものではないものだと、おじ様が言ってました!」

 僕は「そうなのですか」と呟き、続けた。

「あれは、もらったものなんです。剣の師に」

「そうなんですか! じゃあ、打刀もどこかに?」

 鸚鵡おうむ返しをする僕に、巴は答えた。

「刀は脇差を併せて二本ありましたが、打刀の方は鞘のみだったんですよ」

 首を傾げ、故を考える。

 発想と同時に、背筋が凍りついた。

 そうだ。僕は、を、を斬って、耐え切れなくなって、刀さえ置いてそのまま――

 佐々木 一重いちえ。そしてその赤子、累。

 切り裂く感触と血の匂いが頭いっぱいに溢れる。加えて身体が震え、肩が鉄器の如く重く感じるほどの悪寒が走った。

 目線が泳ぐ僕に巴が声をかけようとした時、コンコンと、急くように襖を叩く音が響く。

 二人で音源に目をやると、低い男の声が続いた。

「女侍、起きたか?」

 返事を聞くと、男は姿も見せないまま言葉のみ残し去っていった。

「用意が出来たら、仕上げ部屋に来い」


 ◇ ◇ ◇


 少しして、巴の小袖を借り着替えた僕は巴に言われた部屋に向かい縁側を歩いていた。

 右手に目をやると、いくつかの種類が揃う花木の花吹雪が舞い散る庭。その元は白い丸石で埋められ、人工の小川がせせらぐ。

 その中でも秀でて目立つ桜の木の本には、懐かしい、竹を並べる型の稽古台が見える。

 昔、多くの兄弟子と共に行った試し切りを思い出した。「一振りで竹何本まで斬れるか」と、皆で幾度も競い合ったものだ。

 雪の止まない高山での、長い、辛くも楽しかった毎日。

 もう、昔のことだけれど。

 視線を逆方向に向けると、例の家の主人の部屋であろう襖に着く。中を覗き込むと、刀が大量に飾られた一室に座り込む一人の老人。

 刀の手入れだろうか、ずっと俯いている。

「大事なところだ、悪いが静かにしていてくれ」

 いつから気が付いていたのか、そう告げる彼はまた黙りこくる。

 美雪は和室に入りすぐ座り込んだが、やはり一面に並ぶ刀、こしらえ――柄や鞘、下緒を含めた刀飾り――に目をやらずにはいられない。

 黒く単純な装飾に車輪風の鍔、赤い差し色が目立つもの。

 同じく黒い鞘に、白い柄と金の金具の打刀。

 白い鞘に赤い布が巻き付けられ、金の鬼のような柄尻が特徴的な太刀。

 一見綺麗な木刀も混じっているのかと思いきや、白鞘――漆を塗っていない木の肌が見える拵――に納められたものもあるようだ。

 全てがうっとりするほどの美術品だが、一つ、抜き身で刀掛けに添えられ、別の意味で美雪の心が強く惹かれた一振りがあった。

 鮮やかな花緑青はなりょくしょうの掛巻の柄に、柄の中央には黒い亀の金具が覗く。

 青銅で作られた鍔は杜若かきつばた風の装飾で隙間はくり抜かれ、茎や葉の脈に職人の強いこだわりを感じた。

 そして、特筆すべき刃。いや、正確には刃というべきではない。

 何故なら、この刀の上身かみ、刃に当たる部分には――

「何をしておる」

 あまりに吃驚びっくりし、刀を手に取ろうと近付けた手を刀掛けにぶつけ落としてしまった。

 慌てて直そうとするが、先に男が持ち上げる。

「こんなものに目をとられるとは、物好きな子だな」

 肩まで伸びる白髪を結い、細く鋭い目つきを刀のように煌めかせ浴衣の右上半分をはだけさせた姿には、男性との交際経験が一切ない僕でさえ、老いた男性独特であろう色気を感じられた。

 触られ、汚れていないかを気にしているのか、男性はしきりに刀を見回していた。かなり入念に見ていたが、何か思い入れがあるのだろうか?

 ぜひ聴いてみたかったが、すぐに話題が変わる。

「それよりも本題だ。お前には刀の試し切りをしてもらう。命拾いの礼だとでも思え」

 そっと刀を掛けると、彼は先程まで手入れしていたであろう納められた打刀を肩にかけ、縁側に出て行く。

 下駄を履く男に美雪も付いていこうとしたが、自分の下駄が無いことを思い出し立ち止まる。困り果てキョロキョロと周囲を見回していると、見かねた彼がため息を吐きつつも縁側に戻った。

「仕方ない、差し支えなければ俺のを使え」

 嫌なら巴に貰ってきてやると続けられたが、「そんなことは」と慌てて遠慮する。

 下駄を拝借し縁側を降りると、すぐに男が刀を差し出した。

「雑に扱えばお前を鋼材に刀を打つからな」

 とても冗談とは思えない鋭い眼差しに尻込みしつつも、柄と鞘に手を伸ばし拝借する。

 受け取った刀は生成きなり色の柄布や鞘に水墨画を思わせる水滴のような模様が走り、鍔にも河川と葉を思わせる細工がされていた。

 僕や兄弟子達が使っていた飾り気の無い刀とは根本的に違う逸品に見惚れてしまいそうだったが、先程の眼差しを思い出す。座布団を探して部屋に戻る鍛治師殿の背に気を取られながら、足早に稽古台に向かった。

 鞘を腰帯に挿し、すぐ柄に手をかける。

「少し待て、女侍」

 目を丸くして鍛治師殿に視線を送る。手の平をこちらに向ける彼に「いかがなさいました」と返してみるも、明後日の方向を見るばかりで返答はない。

 首を傾げ、鯉口を回したり、突如思い出して下緒を巻いて暇を潰していく。

「よし、いいぞ」

 先と同じく突然声がかかる。一体何を待っていたのか気になるが、期待を隠さぬ目線に不思議と琴線が揺さぶられ口答えをやめた。

 さて。雑念を払うために、まずは深呼吸をして眼前の稽古台を見据える。師匠はよく集中を高める際に「相手を如何いかに素早く、鮮やかに斬るかのみを考えよ」と繰り返していた。

 今ならその理由が分かる。人を斬る感覚、あれは、ひどく心をざわつかせる。今も鯉口に添える指が震えてやまず、今から刃を振り下ろす稽古台がに見えるようだった。

 恐らく師匠の教えは己の心や感覚を殺し、真の隠密として自身の精神と役割を分け苦しみを逸らすもの、だったのかもしれない。

 しかし僕は違う。周囲の自然、風景を五感で、全身で感じ、自然と一つになるような感覚を楽しみ、必要な情報を一つずつ読み進めていく。

 気まぐれに吹く風。僅かに乗った釜戸の匂い。巻き上げられる桜の落葉に花弁。

 それらがひらひらと舞う先の稽古台には、八本の竹が隙間なく並んでいた。長さは不揃いだが、若々しい色でそびえ立つそれらは不思議と気高さを覚えさせ、自然と一礼を挟み――抜刀。

「おさむらいさま? どちらに」

「シッ、巴も見ていけ」

 ゆっくりと刀身を、真っ直ぐ立ち上げる。切先になびく風が、初めて握る打刀の確かな間合いと振り抜く瞬間に起こり得る僅かなブレをささやくよう。

 横並びの竹を袈裟斬りにするため右肩で担ぐように構え、同時に左脚を下げ打刀に体重を移すような感覚で体幹を保つ。

 両の小指と薬指を中心に柄を握り、適度に脱力を加え――振り下ろした。

 それは堅く、しなやかで、力強い竹八本だった。

 地に落ちては等しくカランと鳴き、断面に一つの粗もなく滑らかに切り離された。

 竹の最後を見届け、今一度素早く腕を振るって刀身の塵を払らい、刃元のみねを肘で挟み抜刀するように素早く拭う。

 鯉口に添えた指に峰を沿わせて切先を鞘の中に迎え、拝むように、納刀。

 刹那、風が強まり、地に落ちた竹が僅かに転がる。それがまるで成仏していくように思え、一礼を残すのは、僕にとっては当然の流れだった。

「きれい……」

 不意に響いた言葉で我に帰り、縁側のある右方を振り返る。いつの間にか巴が見物に混じっていたらしく、鍛治師殿と二人揃って目を見開いていてまるで親子のようだ。

 すぐに下緒を解き、鞘に巻き直して帯から抜き鍛治師殿に手渡す。

「素晴らしい打刀でした。このような名刀の試し切りに出会え、幸福で言葉もありません」

 考え事をしていたのか、鍛治師殿は遅れて返事をした。

「……なぁ女侍。お前はすぐ帰るのか?」

 突然の話題に声を詰まらせてしまう。

 確かに、僕は救ってもらった恩を返したらすぐに退散しなくてはならない。そのつもりだった。

 けれど――よくよく考えてみれば、僕は任務から逃げた身なのだ。あの二人を斬った挙句、その重責に耐えきれず……情けない話だ。

 僕にはもう、帰っていい場所なんて無いのかもしれない。

「……最近は物騒だからな。ふもとの町にも賊が出たと言うし、用心棒の一人くらい居た方がいいのかもしれんな」

 予想もしていなかった言葉に僕が目を丸くさせる一方、巴殿は今にも飛び跳ねそうな様子で目を輝かせた。

「じゃあ、じゃあ! 美雪さんとまだ一緒にいられるんですねっ!」

「向こうが良ければな」

 鍛治師殿は、こちらに目線をやり「どうなんだ」と続けた。

 僕は助けてもらった身だ。あまり善意に甘えて恩を着るばかりでは申し訳が立たない。

 でも僕には、帰れるような場所が一つも思いつかなかった。

「お二人の……ご迷惑では、ないでしょうか」

「年寄りに子供、用心棒一人雇おうと考えるのは自然だろう?」

「わたし、美雪さんがいてくれるならとっても嬉しいですよ!」

 なんだか、口答えさえ許されなさそうな雰囲気のようだ。

「では……そうですね。この命を拾っていただいた恩返しをさせていただけないでしょうか」

 呆れたように鼻で笑う鍛治師殿は、どこか頭の硬い私を笑ってのことだろうか。

「じゃあ美雪さんっ、一緒にご飯の支度を致しましょう!」

 一歩引いた私の態度など見えていないのか、巴は私の腕に抱きついた上に手を引いて駆け出した。

「美雪さんはお料理するんですか? 得意料理とかはっ? いっぱい教えてくださいね!」

 その後、釜戸の前に引き摺り込まれた私は質問攻めに遭いながら、晩飯の支度をすることになるのだった。

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