斬ら不【きらず】 -斬れぬ女武人短奇譚-

萌仮 らてーな(モカノ らてーな)

序章・初任務

 この世には人を斬る生業がある。

 賞金稼ぎ、死刑執行人、軍人。

 そして暗殺業――隠密。

 人の為に、人を斬る。そんな矛盾した職業。

 僕も、そうだった。

 そのつもり、だった。


 ◇ ◇ ◇


「ヌシが、わちきのくびね係ってワケかい」

 更待月の見下ろす空夜の庭園。

 爛漫に咲き誇る桜木の上に腰をかけ、妖艶な五指で煙管キセルを揺らす女性がつぶやいた。

 動きやすさを考慮してだろうか、裾を足元で切り落とした花魁おいらん風の着物を纏う女性は月への視線を落とし「出ておいで」ともう一声掛ける。

 小さな太鼓橋を挟んだ糸杉の向こう、闇の中から現れたるは、うら若き少女。

 肩上ほどの短く、珍しい赤毛が桜吹雪と共になびく。揃って揺れる漆黒の羽織は雅で色使い鮮やかな庭園に似つかわしくなかったが、揺れる羽織の内に見えた死に装束を思わせる純白に輝く着物に男勝りな馬乗袴が手伝って、不思議と舞い散る桜花を映えさせるよう。

 左腰にはこれまた漆黒の打刀と脇差が光り、左手を鞘に親指はつばに添え、木の上の女性を猛禽もうきんの如き冷徹な瞳で捉えていた。

 強い殺気の乗った鋭い視線であったが、一方の花魁風の女性は変わらず落ち着いた様子で煙管を咥え煤煙を吐く。

「冥土への手土産に、一つ雑談でもしてくれないかい?」

 キン――と鯉口を鳴らす少女に、彼女は溜息を交え煙管を投げ捨てつつ、桜から飛び降りた。

「わちきは佐々木……あぁ、もう知っていたかな? 見ての通り、女の武芸者さ」

 佐々木と名乗る彼女は桜木に立てかけられた、彼女の足元から鳩尾みぞおちまで匹敵する三尺一メートル弱余りの十文字槍を手に取り左手と脇で保持。更に腰帯から抜きたる右手の得物は鞘に収まった一尺半四〇センチほどの脇差。鞘の鯉口周りを持ち、腰を落とし構えた。

「ヌシの名くらい、教えてくれてもいいだろう? それとも、名乗らないよう教えるような品の無い組織から来たのかい?」

 少女の眉間にしわが寄る。左足を下げ少々の前傾姿勢をとりつつ鞘を前方に突き出し、柄に真白い右手を添えた。

「美雪。美しい、雪。家名を名乗る気は無い」

「美雪……良い名前をもらったねぇ……」

 佐々木と美雪の間に桜吹雪が舞い散る。僅かな声と風以外何の音もせぬ夜だからだろうか、騒々しくもあるそれは月光に照らされ、太鼓橋の上で眩く輝いていた。


 ゆるりと風が止み――花吹雪と風音が消える。


 同時に美雪が飛び出した。

 太鼓かと聞き違えそうなほど強く地を、橋を踏み締め、疾風はやての如く橋を駆けていく。

 橋の中枢を超えたあたりで佐々木が空気を薙ぐ轟音を響かせ、槍を振るった。自らの背丈の半分より大きな十文字槍にも拘らず、振り切るのに四半秒もかからぬ程の勢いに桜吹雪が巻き上げられる。

 が、振り切ってすぐに違和感を感じた。

 美雪が視界から消失している。

 薙ぎ払いの感触からすると、直撃したとも思えなかった。

 頭で判断するよりも先に腕が動き、左脇腹を襲う蹴りを槍の柄で防いでいた。

 同時に感じた強烈な横薙ぎの蹴り。

 だが眼前には橋や景色が見えるのみ。

 考えるより早く右やや前方に脇差の鞘で突くと、地を転がり弧を描くように距離をとる美雪が現れた。

 槍を後方に振りかぶり、脇差を前に添える。

「その身のこなしに足捌き……躰道たいどう、だったかな? 剣技に加えるとは面白い組み合わせをするじゃあないか」

 ムッとうめく美雪。

 正解かしらと笑われると更に顔をしかめるが、十文字槍の切先が届くか届かないかの位置から付かず離れず左右にそろりと足を運び、感情的に斬りかかることはなかった。

 数秒の膠着こうちゃく状態。

 先に佐々木が動き出す。

 一閃の文字に相応しい、構えから技の終わりまで俊速の槍の一突。

 予備動作も少なく音を置き去りにせんばかりの神技だったが、美雪は鞘を裏返し抜きかけの打刀で切先を防いだ。

 流れるように左方に足を運び、舞踊のような身の捻りで槍の間合いの内側に入り込む。

 次に繰り出されたのは、一瞬も見えない程恐ろしい速さの抜刀。更に身の捻りと強烈な振りかぶりで加速し、水平斬りを放った。

 美雪は脇腹を狙ったつもりだったが、金属が打ち合う甲高い音が響く。

 全力の一振りは、なんと脇差の縁と鍔のわずかな隙間で防がれていた。

 美雪が驚愕した刹那の間を突いたか、対応するよりも先に佐々木が脇差のこじり――鞘の末端――を膝で蹴り上げ打刀の刃を上方に払う。

 抜刀に全力を込めたせいか、不安定な姿勢の美雪を襲った体幹の揺らぎを逃さず、鞘を保持した右手を槍の柄に絡めて力を込め、美雪の右脇腹目掛けて強く打ちつけた。

 引き絞ったような苦悶の声を漏らす美雪。

 だがその瞳の闘志は揺らぎはしない。

 咄嗟に左手で槍を掴み、綱を引くように強引に引っ張ると同時に無防備な佐々木の左肩目掛けて袈裟けさ斬りを繰り出す。

 またしても甲高い音。

 空中に咲いた火花は、鞘から抜かれていく脇差の刃を煌めかせ、美しく魅せた。

 佐々木は既に槍から手を離し、美雪がやったように少しだけ抜刀した脇差で美雪の一撃を確実に防いでいたのだ。

 彼女が脇差を抜きつつ右膝を着くと、残った勢いのまま脇差の刃に沿い美雪の刀が虚しく空を斬る。

 月に掲げるよう大きく振りかぶった虎牙の如き短くも鋭い刃は美雪を捉え、今にも襲いかからんとしていた。

 すぐに避けられないと悟る。

 故に、美雪は強く踏み込み、前に突き進んだ。

 佐々木の脇差を振るう腕が首に食い込み、激痛と共に息が喉を通らなくなる。

 意地と根性を絞り出し、驚く佐々木の顔面に頭突いてみせる。打刀に痺れの走る両の手を回し、佐々木めがけて力任せに振り抜いた。

 柔らかいものと、少し固いような何かを斬った感覚が刀越しに伝わる。

 カラン。と脇差を落としたのであろう少し高い音が響いた。

 間も無く、二人が倒れ込む。片方はすぐに咳き込み、片方は息をか細く荒くした。

 美雪が喉を押さえながらも、刀を構えようとして――佐々木に目線を向けた時だった。

 刀が落ち今一度甲高い音が響く。

 言葉にならない、えづきにも近い声を漏らし、美雪の視線が泳ぐ。様子のおかしい美雪に気がついたのか、佐々木は声をかける。

「なんだい……変な声出して。珍しいものでも見たのかい?」

 美雪はうまく息が出来ないのか、掠れた声しか出なかったが、佐々木には充分に伝わったらしい。

「それ呼ばわりするんじゃないよ。この子を」

 失礼な子だねと溜息を吐き、座り込む佐々木の手元にあるそれ。

 人形より小さく、真っ赤に濡れ、脇には鞠ほどの大きく丸い何かが添えられている。

 腹から大量に血や別の液体を垂れ流す佐々木は、悲しみや絶望の入り混じった複雑な表情を浮かべつつも、それを愛おしく抱いていた。

「名は……既に決めてあるんだよ。るい……」

 そう呼びかける佐々木は、揺籠の如く左右に揺れていた。

 落ち着いた彼女とは正反対に、美雪は過呼吸を始め後ずさる。表情からは闘志や強さが消え失せ、耐え難い恐怖と溺れるような後悔が溢れていた。

 身の丈に似合わぬ少女の姿を見かねたのか、佐々木は声をかける。

 その言葉を聞いた美雪は背を見せ足をもたつかせながら、その場から逃げ出した。

「あんな人くさい子がいるんだね」

 彼女らを看取れる者は、もう誰も居なかった。


 ◇ ◇ ◇


 美雪は走った。

 当てや、明確な目的地があったわけでもない。

 気がつけば目の前は崖、見上げれば変わらず更待月が見下ろしていた。

 膝から崩れ落ち、呆然と月を見つめる。

 真白く塗り潰される思考の外から、左手に冷たい何かが触れた。

 視線を落とした先には、脇差の柄。

 同時に美雪は、一つの発想に囚われる。

 脇差を抜く。

 そして腹に突き立てようとした。

 しかし、切先は腹に届かなかった。

 障害物があったわけではない。

 力が入らなかったわけではない。

 それでもどうしてか切先が刺さりはしなかった。

 美雪は――僕はただ、責任を取りたかった。

 いや、逃げたかっただけなのかもしれない。

 それなのに、切先は腹に触れはしなかった。

 苦しいのか。

 悔しいのか。

 漏れ出る声にならない掠れた声や呻き声は、やがて悲痛な嗚咽おえつに変わる。

「うっ……っぅ……ぐ……ぅぁっ……あぁあっ……はっ……うあ……あああああああああ………」

 何度も腹を突き刺そうとした。

 それでも出来なかった。

 その場でうずくまり、乗るように突き刺そうとした。

 それでも出来なかった。

 弱々しい、静かな絶叫が空夜に響く。

 泣き崩れ、はなを啜り、よだれを垂らし、脇差を持ち上げる力さえ薄れ、地にうずくまって脇差の柄に額を擦り付ける姿には、かつて夢見た冷徹な隠密の面影など微塵も無いのだろう。

 世の為に、人の為に人を斬る、その覚悟をしていた筈だった。

 最早そんな高尚な事を考えられるほど、冷静には戻れなかった。

「僕は……なんで……僕はぁあ……なんで腹も切れないんですかぁあ……あ……っが……うぅ……」

 誰に言ったつもりか、そう嘆いた。

 自分を育てた師匠か。

 先程斬った二人か。

 それとも昔の自分か。

 無論、答えが返ってくる筈もなかった。

「僕は……僕は……死ねないのか……死にたくないのか……」

 その言葉を最後に、気を失った。

 気を失って尚、嘆き続けた。

 そばに誰かが現れ、背負われて尚も。

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