第一部:空を刻む石 第三章:記憶を刻む手

 ワリの都を離れ、南へ三日の道程。アマルは、神殿からの正式な命を携えて、小さな村にたどり着いた。

 そこはワリ帝国の南境、山と谷の境界にある《ピラ・クスカ》と呼ばれる石工の集落だった。岩盤を削り、神殿建築の基礎を彫る男たちの村。その技は都でも「石に風を吹き込む者たち」と称されるほどだった。

 アマルの任務は明確だった。都で観測した新しい星図――プレアデスと金星の異常接近記録を、精密な石板に刻むこと。これは記録の正史として、神殿に納められる最も神聖な“記憶の礎”となる。

 だが、彼の胸には、儀式で見た夢の残像が未だ残っていた。

 あの「二つの太陽」の空は、いまも鮮明だった。

 村の工房で彼を迎えたのは、背の低い老人だった。肌は岩のようにひび割れ、手はまるで石そのもののように堅かった。

 「マイカと申す。神殿からの若き星官殿か」

 アマルはうなずき、儀礼的に答えた。

 「記録するための星図を刻みに来ました。神殿指定の図を、この石板に」

 マイカは黙って石板を撫でた。黒曜石に近い滑らかな輝きの岩だった。

 「石は記録に従うが、時には語る。気をつけなされ。石には声がある」

 その言葉は、アマルの胸に何かを引っかけた。

 夜更け、彫り始めようと筆を取った彼は、ふと、手が止まった。

 図面では、プレアデスは金星からやや離れ、三日後には後退するはずだった。

 だが、あの夢の空では、二つの太陽が、並んで昇っていた。

 彼は思わず、夢で見たあの光の配置を、石板に描き出していた。

 「……これは、記録ではない。だが、真実だ」

 マイカが近づき、静かに言った。

 「お主が刻んだそれは、命じられたものではないな」

 「はい。でも、これは……この目で見た空です。夢であれ、星が語った言葉です」

 「ならば、それは記録ではなく、祈りかもしれぬな」

 翌日、完成した石板が都に送られる直前、ワルナ・イリが現れた。

 そして彫られた星図を見るなり、激しい口調で言った。

 「アマル……記録者が、己の記憶を刻んでどうする! お前は未来の者に、誤った空を見せるつもりか!」

 アマルは震えたが、筆を手放さなかった。

 「……未来の者が見るのは、真偽ではありません。声です。語りです。

 たとえ記録が違っていても、その“語ろうとする意志”が伝われば……記憶は死なない」

 沈黙。

 ワルナはしばらくして、深く吐息をついた。

 「語る者に、記録を与えるのは難しい。だが、黙る者に記録を渡すよりは、まだ良いのかもしれぬな」

 そして、アマルが彫った石板は、二枚とも神殿に納められることとなった。

 一枚は「観測の真」として。

 一枚は「語りの夢」として。

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