おかえる…なさい?

esquina

1話完結

 梅雨空が続く六月、行きつけの焼き鳥屋の戸口に、一匹のガマガエルが居座るようになった。季節柄か偶然か、常連のトモ子がぱたりと姿を見せなくなった晩からである。


瀬川はその醜い生き物を見るたびに、なぜか後ろめたい気持ちになった。不気味で、超自然的な符合に思えた。トモ子がいないことが快適なほど、そのちっぽけな存在が気になった。それは良心の呵責かもしれなかった。彼女には何度も金を借りた上に、酔いに任せて男女の仲になったこともあったからだ。


ふいに、隣りに座った常連客の山田が耳打ちした。


「トモちゃんだっけ…?大きい目した女の子さ、事故で亡くなったらしいよ。バイク事故だってさ」


瀬川は、黙ってゴクリとビールを飲み込んだ。悲しむべきニュースなのに、どう受け止めていいか分からなかった。彼がトモ子に借りた金は、簡単には返せない額になっていた。「へぇ…本当かな。本当なら、気の毒にな。まだ若いのに」言いながら、ゆるんでくる口元を両手で覆った。しかし所詮は飲み屋で交わされる伝聞、それがどこまで真実かは、定かじゃない。


「なぁ。瀬川ちゃん、あれ、見た?」山田が肩越しに、入り口のガマガエルを指差した。

「なんかさ、偶然かもだけど、トモちゃんが消えた日から、ここにいるような気がするんだ。瀬川ちゃん、トモちゃんと最後に会ったのいつ?」

瀬川は言い訳でもするように、うわずった声で両手を振って答えた。

「な、なんだよそれ。最後に会った日なんて、覚えてないよ」

それを聞くと、山田は身を乗り出して続けた。

「いや、ちょっと思い出してさ。なぁ…"センポクカンポク"って知ってる?俺の田舎の、妖怪だかなんだかの名前なんだけどさ」

瀬川が黙ったまま首を振ると、山田はおもしろそうな顔で先を続けた。

「うちのばあちゃんがよく言ってたんだけどさ、死人が出ると “センポクカンポク” が来るって…体は大きいヒキガエルで、顔は人間なんだって。家に死人が出ると、戸口にやって来るんだ…」そう言いながら、瀬川に覆い被さるように立ち上がった。

「カエルは、あの世から魂を乗せてカエルんだってさ、ケロケロ!」

カエルの鳴き声を真似た後、山田は驚いて尋ねた。

「あれぇ、大丈夫か?瀬川ちゃん、汗、びっしょりだよ?まさか怖いの?」


実際、瀬川の額には脂汗が滲んでいた。

——山田のクソめ。死人を冒涜するような冗談なんか言いやがって、最低な野郎だな。アイツ、俺とトモ子のこと、気がついてたんだな。それにしても、本当に死んだのか?あの女は、そんなあっけなく逝くタマじゃないだろ。いやでも、もし仮にそれが本当なら?俺は金を返さないで済むってことだ…!


そんな事を思いながらふと振り返ると、ガマガエルがぬらぬらした背に怪しく街灯を照り返し、一部始終をじっと見つめていた。瞬きすることもなく注がれる視線は、冷たくもなく、温かみもない。しかし、執拗で無機質な黒い目が、なぜか瀬川の神経を逆なでした。


——あの黒い目玉が、気になって仕方ない。


瀬川は、グラスを煽った。すると、ふいに彼の脳裏に、黒いカラコンを入れた大きな瞳が浮かんだ。


——似てる…あの目…トモ子に似ているんだ…!


彼は思わず振り返り、まじまじとガマガエルを見つめた。真っ黒いガラス玉のような目が、あまりにも彼女に似ていることに気づき、ゾッとした。情事の後でツナマヨにぎりを食べながら、諦めたように金を貸してくれたトモ子。


「いいよ。貸したげる。でも、必ず利息つけて返してよね」


彼をジッと覗き込んだ、闇のように黒い目。


トモ子との約束は、未だ果たされていない——。


瀬川は突然立ち上がって叫んだ。「クソッ…ちきしょう!おやっさん、店で一番上等の酒をくれ」グラスを受け取ると、ツカツカと戸口へ向かい、石のように動かないガマガエルの背に酒を浴びせた。


——金はきっと返す、頼む。成仏してくれ、トモちゃん。


驚いたことに、ガマガエルはピクリともせず、無情に瀬川を見つめている。「許してくれ、トモちゃん」そう言うと彼は、動かぬ視線の前にがっくりと膝を折り、聞き齧りの念仏を神妙な面持ちで唱え始めた。


「ナンマンだ〜ナンマンだ〜なむあみだ〜ブツ!」


両手を高く上げ、上半身を折り曲げ、大声で叫びながらアスファルトに何度も頭を打ちつけた。


「おい、店先でなにやらかしてんだ、やめてくれ」


店主が慌てて止めにきたが、瀬川は益々声を張り上げる。


「ちょっと、なにやってんの、瀬川ちゃん」


聞き覚えのある声に振り向くと、そこには緑色の傘を手にしたトモ子が立っていた。彼女は大きな黒い目を、驚いたようにまだたきさせている。


瀬川は、ガマガエルとトモ子を交互に見ると、ふらふらと立ち上がった。


「やぁ…!?トモちゃん、おカエル、なさい…??」


「…てかさ、何やってんの?まぁいいや、タイミング最高」

「兄貴が事故っちゃって。いろいろ入り用なの、貸した金、今すぐ返してくんない?」


それからトモ子は、店の奥に向かって叫んだ。

「山ちゃん、あんたもよ!二人とも利息込みだからね」

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