背番号18の男

うみべひろた

背番号18の男

 今日の練習試合でもそうだ。

 背番号18の男はベンチの一番奥にずっと座っていた。9回が終わるまで、光がじゅうぶんに当らないその席から動かず、ただ声を上げて味方の応援を続けていた。声だけは大きい。応援団が座る席を間違えたんじゃないの? 私はじっと睨む。

 今日の試合は、背番号1の大エースである白石君が最初から最後まで完璧なピッチングで、背番号10の長田君さえブルペンで座り込んで戦況を見ていたくらいだ。背番号18の男に出番などあるわけなんて無かった。

 白石君は身長185センチ、ただでさえ大きいのに、マウンドに立つと一層大きく見えるのだ。その筋肉質の長身は、柱というより、もはや壁みたい。その姿を見るだけで安心できる。


 監督は白石君に全幅の信頼を寄せていて、どうでも良い練習試合の終盤、次回に備えて休ませるために長田君に投げさせるくらいだった。背番号18の男に至っては、試合でマウンドに立っている姿を見たことさえない。たまに代打で出ては三振をしているくらいだった。

 なんでそんな奴が18番とは言え背番号をもらい、補欠とは言え公式戦のメンバーとして登録されているのかといえば話は単純。うちの野球部には部員がほとんどいないのだ。

 だからどんな奴でもとりあえず3年であれば登録してもらえる。いろんな試合に連れて行ってもらえる。ベンチで観戦できる。

 遠足かよ。


 背番号18の男は食い意地も張っている。

 今日の試合に私が作っていったはちみつレモンを、開封したそばから三つも取って口へ放り投げるのだ。1時間も2時間も走り回っているスタメンのために、そして誰よりも最前線で戦っている白石君のために作って来たのに。

 そりゃあなただって野球部なんだから、最初から1個くらいはあげるつもりだった、だけど物事には優先順位ってものがある。だから私は最大限の皮肉を込めて言ってあげるのだ。

「そんなに食べて大丈夫? 動かないと太っちゃうよ」


 すると背番号18の男は悪びれもせずに言う。「そんなわけないでしょう酒井さん、俺は誰よりも動くよ」

「ただ座ってるだけにしか見えないけど」

「そのうち分かるよ」


 そしてまた応援。

 攻撃のときだけじゃなくて守備のときまで大声を張り上げるから、うるさくて仕方ない。

「そのノート貸しなさい」

 スコアラーは背番号18番の男の役目だ。なんでかは知らない。気付いたらそうなっていた。私はそのノートを奪い取る。

「あなたの字、汚すぎて読めないんだよ。後で私が困るから」


 そして、その真っ黒に日焼けした手を見て付け加える。

「せめて手くらい拭いてよ、はちみつレモンでノートがべたべたになってるじゃん」


 唯一の仕事が無くなった奴の、応援の声はさらに大きくなる。

 なんでこんなことやってるんだろう、私はそう思いながらスコアを埋めていく。

 手がべたべたする。


 そして練習試合も終わり、今日も部活の終わりは背番号18の男と二人だ。スコアシートの清書が終わった私は、校庭じゅうに散らばった球を拾い集める姿を遠目に眺める。私のはちみつレモンは球拾いのカロリーになってしまう。


 その視線の先で、

「見ててよ酒井さん、俺の三年間の練習の成果を」

 なんて言う。何をしだすのかと思っていたら、校庭の真ん中に籠を置いて、そこらじゅうに散らばった球の場所まで走って行っては投げ入れるという遊びをし始めたのだ。

 低い弾道を描いて籠に叩き込まれるボール。

 3年間の成果と名付けられた遊びを横目で眺めながら、白石君が試合で打つ大きなホームランを思う。飛び過ぎて空を割っちゃうんじゃないかと錯覚するくらいに凄いのだ。それと比較すると悲しくなってしまう。低くて小さい弧を描くだけのボール。


「このやり方を導入して、玉拾いの時間が半分に減ったんだよ」

 得意げに言う背番号18の男に、意識して最大限に冷ややかな視線を向けてやる。

 ボールは目の前でぽんぽんと籠へ吸い込まれていく。

「小学生がゴミ箱にティッシュ投げ入れるのと同じだよね、それ」

 あなた、小学生の頃から全然成長してないでしょう。

「そう、それ。それを入れるのは小学生の夢だよ。見た目以上に難しいんだ、あれ。酒井さんもやらなかった?」

「やったけど、そんな遊びは小学校で卒業しました」


「同じ遊びでも、技を磨けばこんなになるんだよ。ほとんど百発百中で入る」

 真っ黒な顔に笑顔を浮かべたままに背番号18の男は言った。だから私は言ってやる。

「それって何かの役に立つの?」


 背番号18の男はそれには答えない。


「ミキ、俺がお前を甲子園に連れて行ってやるよ」

 刻々と色を濃くしていく陽の光の下、私はめまいのような感覚を覚える。


「あなたって、本当に馬鹿ね」

 何故だか自信満々な背番号18の男に向かって私はまくし立てる。

「例えば白石君みたいな人が言うんだったら、ありがとう宜しくお願いしますって背中を預けられるよ。ぴったりと。でもあなたが、どうやって、私を甲子園に連れて行ってくれるの」


「だって、俺は背番号18の男だから」

 いつもみたいに自信満々に笑う。「桑田、松坂、山本由伸。プロ野球を見てみなよ、背番号18の選手はいつだってエースピッチャーなんだ。チームを背負う力のある奴だけが背番号18になれる」


 確かにプロ野球ではそうかもしれない。けれどもちろん高校野球の背番号って、いい選手なら好きな番号を選べるような決め方をしない。実力順だ。1番から9番をレギュラーが取り、10番以降は公式戦で使われる可能性が高い順に取る。ベンチ入りメンバーが18人の甲子園では、背番号18は最も下手な奴。

 あなたは知らないだろうけど、と前置きして、

「平成の頃までは、甲子園のベンチ入りは16人しか許されてなかった。その時期ならあなたはスタンドで応援だよ」


 歴史を紐解かなくても、この野球部がもう少し人気だったらスタンド行きだ。なんと言っても、この野球部には今、18人しか選手がいない。一年も二年も含めてだ。上下関係の厳しい運動部で、後輩を差し置いて球拾いをやってる3年生ってのもなかなかいないだろう。

 がこん、と大きな音を立てて、また目の前の籠にボールが吸い込まれる。埃っぽい匂いを立てて土煙が散らばる。

「ミキは実にバカだな」

 背番号18の男が放ったボールは空へと高いアーチを描いて、息が止まるような時間をかけて籠に吸い込まれていく。派手な音を立てて、いくつかのボールを弾き飛ばす。

「俺の実力を知らないから言えるんだよ、そんなことが」さらにもう一個。またも籠の中のボールは弾き出される。「俺は背番号18の男だ」


 ちょっと、せっかく入ったんだから散らかさないでよ。私は言う。

「そりゃ知らないよ。あなた、練習前のキャッチボールくらいしかまともに野球してないんだから」

 ころころと転がってきたボールを一つ拾う。手が汚れてしまうけど、後で洗えばいい。

「打撃練習さえしない奴が試合で打てるわけない。投球練習さえしない奴が試合で使えるわけない。マネージャーはそんなところまで面倒見切れないけど、キャッチボールくらいなら私でも付き合える。はちみつレモン分くらいは練習しなさいよ」

 あなたはいつも球拾いばかり。分かるでしょうあなたも。日が当たらないところには何も芽吹かないのだ。


 ちょうどピッチャーとキャッチャーの間くらいの距離。右手の中のボールを投げる。出来るだけ高く、山なりに。それはあくびが出るくらいに勿体をつけて背番号18の男の左手の中へ収まっていく。

 それを見届けて、籠の近くに置きっぱなしになって泥だらけのピッチャーグラブを手にはめる。私だって中学校の頃はソフトボールをやっていたのだ。あの頃に着けていたファーストミットとは使い勝手が違うし、サイズだって全然合わない。けれど、取れれば良いんだ。


「ミキは実にバカだな」奴は右手のボールを一睨みする。

 本当にバカだ、なんで私はこんなこと。心の底からそう思う。

「ストライクど真ん中に投げてやるから」背番号18の男は右手のボールをくるくると弄る。「しっかり取ってくれよ」

 振りかぶる背番号18の男に、私は慌ててグラブを構える。本気で投げる気なのか。


 ゆっくりと動き出したその腕をにらんだ次の瞬間、それは突然爆発したみたいで。


 そして胸の真ん中を貫かれたような痛み。

 遅れて左手が痛みに疼く。

 左手にはめていたはずのグラブがゆっくり空を舞う。

 西日を覆い隠す。

 

 空は高くて眩しくて。いつも砂ぼこりの匂いがした。私のソフトボールはずっとそれしかなかった。

 またこの景色。もう見たくなかったからマネージャーになったのに。この3年間、ずっと忘れていたのに。


 分からないでしょう、あなたには。

 私だって上手くなりたかった。

 

 グラブはくるくると回転しながら大げさな砂埃を立てて地面に落ちる。白球がグラブからこぼれる。

 その様子をぼーっと眺めながら、確かに奴のコントロールはストライクだったのだとどうでも良いことを考えていた。

 一度はグラブの中へと吸い込まれたボールを、私は受けることができなかった。ボールはグラブごと私の左手を弾き、私の胸を強く叩いた。

 地面に落ちたグラブの裏側には18という番号が刻まれていた。赤い糸だ。懐かしいな。それを縫い付けてあげたのは確か1年の夏だった。

 でも今は汚れてほとんど見えない。ささやかな刺繍なんて隠れてしまうほどに擦り切れてどろどろになったグラブ。


「ミキは実にバカだな」

 ゆっくりと歩いてきた背番号18の男。

 私なんかには目もくれず、随分遠くまで飛んで行ったピッチャーグラブを拾い上げる。ぱたぱたと土を払うけれど、そんなのでは落ち切らない3年分の汚れ。


「ミキだけじゃない、チームの奴らもバカだし、あの監督のじーさんは救いようのないバカだ」

 西日に煽られたその影があまりにも長く伸びて、私に掛かる。

「でも一番バカなのはあなたでしょ」

 私は影の向こう側を睨む、そして言葉を投げる。


 返事はなかった。背番号18の男はこちらをじっと見ていたけれど、西日が眩しくてその顔は全然見えない。


「あなたも」

「は?」その声音で、私のことなんて全然見てないって分かるけれどさ。

「あなたも、私のことをそうやって」


 ノックが取れるまで練習をつづけて、取れなくて倒れたって誰も助けてくれない。早く帰らせてよって視線で私を見下ろすのだ。

「ボールの取り方がおかしいんだよお前は。適当に手を伸ばしてピッチャーの球を取れるわけないだろ」

 眩しくて嫌になる。

「身体の中心で、全身で取りに行くんだよ」


 今さらそんなこと。

 グラブで打ちつけられた胸が痛い。

 やっぱりどう考えたってバカみたいだ。校庭中に響くように大きくため息をついて、私は立ち上がる。

「なぁ、ミキ」

「何よ」

「俺がお前を甲子園に連れて行ってやるよ」


 1年の頃にもあなたはそんなことを言ってた。

 だけど、結局連れていってくれなかったじゃないか。しかも未だにあなたはこんなこと。

 ――嘘つき。

 って言おうとした声は上手く出てくれなかった。


「あなたって、本当に馬鹿ね。絶対に無理だよ」汚れてしまった制服の土を払う。すぐには落ちてくれそうもない。「今のあなたには、絶対に」


 グラウンドの外に出てしばらくすると、球が籠に吸い込まれていく音がようやく止まった。と思ったら今度は別の音に変わった。ボールが壁に当たる音だ。

 ばん、ばん、ばん、一定のペースで続くその音は、たぶん夜中まで止まらない。壁あてなんて遊びだ。野球部がやる練習じゃない。


 あなたが何故こんなことやってるのかなんて私には分からない。

 私との約束よりも大切な何かがあったんでしょう。そんな奴のことなんて別に私は。


 背番号18の男はまだしばらく帰らない。待つのもめんどくさいから、いつもみたいに鍵やら何やらを押し付けて帰るのだ。

 息を吐く。まだ胸が痛い。私は壁にさえなることが出来なかった。


 バカみたいだ。

 遊んでる奴が甲子園に連れて行くなんて、本当にバカじゃないのか。

 もうあなたの嘘に振り回されるのはたくさんだ。もう遊ばせてなんてやるもんか。球拾いも、スコアブックも、全部奪い取ってやる。誰にも手出しはさせない。


 あなたが連れていってくれないなら、私があなたを甲子園に連れていってやる。

 それでいいんでしょう。

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