KIKAI
ファルーク
プロローグ--無音の街
朝の都市は静かだった。
人々の足音、車のエンジン音、風のざわめき――そういった“生活の音”は、この街から姿を消して久しい。
耳に届くのは、AIが調整した“快適な環境音”のみ。波の音。鳥のさえずり。一定のリズムで流れるBGM。
人工的な心地よさが、都市全体を淡く包んでいる。
〈メトリス〉は最適化された都市だ。
感情による衝突を避け、ミスを減らし、誰もが等しく効率的に暮らせるように整備された場所。
そのはずだった。
ヨウは歩道橋の上に立ち、流れる人波を見下ろしていた。
スーツに身を包んだ通勤者たち。誰もが同じ速度で歩き、同じ無表情をまとい、同じ方向へ向かっていく。
人工知能に導かれ、今日の予定も、適正な心拍数も、感情値も全てコントロールされた日々。
けれど彼の左腕の奥では、今日もまた、鈍い痛みが脈打っていた。
「……まだ、残ってたのか」
インプラントの名残だ。
感情を“切り離す”処置を、かつて彼は途中まで受けた。
怒りも悲しみも苦しみも、排除することで人生はきっと楽になる。そう信じていた。
だが、最後の処置の直前で彼は逃げ出した。理由は、はっきりしない。ただ、どうしても“感じなくなる”ことに耐えられなかった。
中途半端なまま残されたその機械は、今でもときおり彼の身体を、いや、“心”を軋ませる。
この日もヨウは普段通り何も考えずに職場に向かっていた。7時52分30秒、毎日寸分違わぬ時刻での信号待ち。何も考えずとも、いつも同じ。
その時だった。
背後から、風に乗ってなにかが飛んできた。
足元に薄く小さな何かがまとわりつく。拾い上げると、それは一枚の古びた写真だった。
「これは…紙…?」
紙の写真など、何年ぶりだろう。
写っていたのは、どこかの路地裏で肩を並べる数人の子供たち。背景には錆びた看板や崩れかけた壁。旧区画のどこかだろうか。
不思議とその風景に、懐かしさを覚えた。
写真の裏には、文字が残っていた。
> 「また、ここで待ってる。」
誰かへの伝言か、それとも独り言か。差出人も宛先もないその言葉が、なぜかヨウの胸の奥に引っかかった。
写真を落とした人物の姿はどこにもいない。探す気にもなれず、ただポケットにしまう。
職場からの通知が届く。
「本日、進捗報告ミーティング10時30分開始予定。準備をお願いします。」
定型文だ。返答も、同じように決まっている。
でも、そのとき、なぜか指が動かなかった。
ほんの数秒の沈黙の後、ヨウはスマートレンズの画面を閉じた。
そして、反対側の階段を降りる。職場とは逆方向。彼が日常で“行かないはずの場所”。
──足が、勝手に動いていた。
理由などなかった。ただ、風に吹かれて転がってきた一枚の写真と、取り残された言葉。
「また、ここで待ってる。」
旧区画。
誰もが忘れた街。地図から外され、AIの管轄からも外された場所。
ノイズに満ち、整備されず、情報も失われ、危険すらあるとされる空白地帯。
それでも、今の彼にはそこにしか、自分を動かす何かがあるように思えた。
気づけば、歩道の風景が変わりはじめていた。
広告ホログラムは点滅を繰り返し、AIの案内放送は途切れがちになる。人の気配もまばらだ。
整った都市の端が、綻び始める。
その先で、ヨウは出会う。
自分の心に、まだ触れることができる誰かと。
そして、止まっていた時間が、ゆっくりと、だが確かに動き出すことになる。
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