第37話 「行っておいで」の声

 朝の陽が斜めに差し込むころ、今日もいつものようにパン屋の暖簾を掲げた。

 まだ空気にはひんやりとした気配が残っていたが、オーブンから立ちのぼる焼きたての香りが通りすがりの人たちの足を緩めていくのがわかる。


「おじちゃん、パンちょうだーい!」


 開店早々、元気な声が飛び込んできた。

 顔を上げると近所の子どもたちが頬を赤くして並んでいる。


「ああ、みんないらっしゃい」


 俺がそう言うと、嬉しそうな笑顔が一斉に花開いた。


 奥ではリナがテキパキと袋詰めを手伝ってくれていた。

 エプロン姿もすっかり板について、もうこうしていっしょに店を切り盛りしてくれるのが当たり前の光景になっている。


 マルガレータさんもいつものように裏の果樹園で忙しく動いていた。

 果物入りのパンの新作も今朝は数個だけ並べてみた。棚に置かれたパンたちはまるで並んで朝の光を浴びているかのようだった。


「今日は天気もいいし、いい売れ行きになりそうだね」


 リナの声に俺は小さく頷いた。

 春祭りから月日が経ち、今ではこの朝の風景がすっかり“自分の店”になったと感じられるようになった。


 だけど今日は少し違う。


 心の奥にふわりと小さな風が吹いていた。

 何かが動き出す前の静かな予感。



 昼前になって常連の顔ぶれがひととおり店先にそろってきたころ。

 俺はふと思い立ってカウンター越しに声をかけた。


「えっと、みんなにちょっと相談っていうか……話があって」


 パンを紙袋に詰めていた手が止まり、数人の視線がこちらに向いた。

 グラッツさんが「なんだね?」と優しく笑ってくれる。


「じつは……この前の春祭りのときに、別の村の人から手紙が届いて。あのときのパンがすごく気に入ったって言ってくれて、“うちの村でも売ってもらえないか”って、そんなお願いだったんだ」


 思った以上に静かな空気が広がった。

 子どもたちまでもがきょとんとして、俺を見上げている。


「だから、少しの間だけ――向こうの村に行って、出張でパンを焼いてこようと思ってるんだ」


 言葉にした途端、どこか現実味が増して胸の内がざわつく。


 本当に俺にできるのか。

 ちゃんと焼けるのか……村の外で。


 けれど、そんな空気を最初に破ってくれたのはグラッツさんだった。


「ほう、それはすごいことじゃないか。村の外でもあんたのパンが求められるなんて、なかなかできることじゃない」


 そう言ってにっと笑ってくれた。

 続いて老婦人のマーラさんが「ほんとに、あのパンは心がほぐれるものねぇ。遠くの人にも食べてもらえるなんて素敵なことよ」と優しく手を合わせた。


 ただ、その一方で「でも……」とためらうような声があったのも事実だ。


「パンのおじちゃん、どっか行っちゃうの?」


 一人の子どもが目をうるませて尋ねてきた。

 しかし、その横でリナが明るく笑う。


「いなくなるわけじゃないよ。パンを旅に連れてくだけ。すぐ戻ってくるって、ね?」


 リナの視線に押されて俺は小さく頷いた。

 俺も慌ててかがみ込み目線を合わせた。


「うん、ちゃんと戻ってくる。旅に出るって言ってもそんなに遠くじゃないし、しばらくしたらまたいつも通りだよ」


 そう言うと、子どもはほんの少し口をとがらせてからふっと笑った。


「そうなんだ。じゃあ、おみやげにおいしいパン持ってきてね」


 その様子を見ていたボルクさんも、腕組みしながら「運搬用のカゴ、余ってるのがある。丈夫なのを貸してやるから取りにこい」と無骨に背中を押してくれた。


 もちろん心配もある。

 でも、それ以上に背中を支えてくれる人たちがここにはいた。


 俺のパンが育ったのはこの村の温かさに包まれていたからだ。

 そう思うと俺自身の不安も少しだけやわらいでいった。


「……ふぅ」


 その後、俺は店の一角にあるベンチに腰を下ろした。

 賑やかさが落ち着いた休憩時間にひと息つく。


 手にはまだ温もりの残るコーヒーのカップ。

 口に運ぶと香ばしさとともに静けさが胸に広がる。


 リナは子どもたちと何か話していて、ボルクさんは自分の店の裏に戻ったようだった。

 他のお客さんたちも買ったパンを手にそれぞれの家に戻って行った。


 静かな店先から少し離れた井戸の方で笑い声が聞こえてくる。


 ……いつの間にか、こんなふうに「村の音」が当たり前になっていた。


 最初はただの通りすがり、いや、迷い込んだような存在だったはずの俺。

 それが今、こうして“パン屋の悠介”として皆に受け入れられている。

 ……この村に来たばかりの頃は誰かの役に立ちたいと思う余裕すらなかったのに。


「パンがうまい」って言ってくれる声も、「また明日来るね」っていう子どもたちの言葉も全部が少しずつ俺をこの村に繋ぎとめてくれた。


 元の世界でボロボロになるまで働いていた過去とは違う。

 今は誰かの笑顔を思い浮かべながら生地をこねる日々だ。


 出張販売が始まったら、たしかにこの店を留守にすることになる。

 けどここが帰ってくる場所であることにはなんの揺らぎもない。


 俺のパンは、この村で育ててもらったものだ。

 それを胸にもう一歩踏み出してみてもいいのかもしれない。



 その夜、パン屋の明かりを落として空を見上げた。


 星がひとつ、またひとつと瞬いている。

 村の静けさが肌に心地よく、炭の匂いがどこかの家の夕餉から微かに漂ってくる。


 扉に手をかけて振り返ると、木製の看板がわずかな風に揺れていた。


 ――ここが俺の居場所。


 そんな実感が胸の奥からふつふつと湧き上がる。


「行ってこよう」と、誰に言うでもなく呟いた。

 それはきっと自分自身への確認であり、少しだけ震える心をなだめるためでもあった。


 明日からの準備は山積みだ。

 道のりも決して楽ではない。


 それでも「また食べたい」と言ってくれた誰かがいる。

 そして「行っておいで」と笑って送り出してくれる仲間がいる。


 村を離れてもここが俺の帰る場所だということに変わりはない。

 パンを通してつながる想いを今度は俺が運ぶ番だ。


 この手で焼いたパンを――その温かさをまだ見ぬ誰かへと届けに。


 ゆっくりと扉を閉めるとかすかな音が夜に溶けた。

 その音が、これから始まる新しい一歩の静かな合図のように思えた。


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