第38話 夜の中の決意
夜、俺はマルガレータさん宅の客間でひとりぼんやりと月を見上げていた。
夜の空気はひんやりとしていて、開けた窓から入る風が薄いカーテンをゆらゆらと揺らしていた。
部屋の明かりは消してある。月明かりだけが静かに床や壁を照らしている。
昼間はあんなに人の声が飛び交っていた村も今はすっかり静まり返っていた。
パン屋の看板もきっと今ごろは眠っているだろう。
俺の手で焼いたパンをいくつもの笑顔が囲んでくれたこと。
その温もりはまだ心にほんのり残っている。
けれど同時に不安もあった。
リナや村のみんなが応援してくれた。背中を押してくれた。
それは本当に心からありがたかったし、勇気づけられた。
だけど……本当に俺にできるのか?
こことは違う町でパンを売る。見知らぬ土地、知らない人たちの前で。
この村のように受け入れてもらえる保証なんてどこにもない。
月を見つめながらそんな思いが胸の奥で静かに渦を巻いていた。
怖いわけじゃない。だけど自信があるとも言えない。
もしかしたら、この決断がこの場所でようやく少しずつ築いてきた“自分”をまた揺るがすような気がして……。
風が髪をそっとなでていく。
「……はぁ」
俺は深く息を吸い込んで吐き出した。
静けさは優しいようでいて、ときに心の奥の声を残酷なまでにはっきりと聞かせてくる。
明かりの落ちた部屋の中、俺はまだその声と向き合っていた。
月明かりの中、俺はぼんやりと天井を見つめながら思い出していた。
日本での暮らし。会社勤めの日々。
朝から晩までパソコンに向かい、いつ終わるとも知れない業務に追われていた頃のこと。
同じ毎日、同じ顔ぶれ、同じような会話。
もちろん部長にはうんざりしていたが、全体的に見れば嫌な人ばかりだったわけじゃない。
けど、彼らのうち誰かと深く関わっていた人間がいたかと言えばそんなこともない。
気づけば俺の存在なんて空気みたいなもんだった。
「……俺なんて、いてもいなくても変わらない」
ふとした瞬間、よくそんな考えが頭をよぎっていた。
でもそれを誰にも言えず、ただ渇いた笑いでごまかしてまた仕事に戻ってた。
――今の俺が、もしあの頃の俺に会ったらどう声をかけるだろう。
「ここを出よう」なんて言えるだろうか?
それとも「無理するな」って逃げ道を残すだろうか?
きっと、あの頃の俺なら今回の話もどこかで断っていたと思う。
そもそもいつ逃げ出しても問題ないあんなブラックな環境に俺がいつまでもしがみついていたのは、新しいことを始めるのが怖かったからというのもある。
知らない環境に出てまた一から始めるくらいなら、どんなにツラくても現状維持の方が楽なのではないか。
そんな考えが自分の中にあったのは否定できない。
でも今、目の前には「行ってこい」と笑ってくれる人がいる。
「また食べたい」と、俺のパンを覚えてくれてる人もいる。
そして、その期待に応えたいという自分も。
「……何が違うんだろう」
そんな問いが小さく響いた。
答えはまだ見つからない。
でも今の俺はもう、少なくともあの頃とは少しだけ違うところに立っている気がしていた。
小さな机の上、油染みのある祖父のレシピメモが一枚、月光を浴びていた。
ふと手に取り、そっと指でなぞる。
あの日の言葉がまた胸によみがえってくる。
――パンは誰かを笑顔にするもの。技術よりも想いが大事なんだ。
あの言葉を俺はここで何度も噛みしめてきた。
この村でパンを焼き始めてから俺のパンは“自分のため”じゃなくなった。
誰かがうまいって言ってくれる顔。
朝、焼きたての匂いに目を輝かせる子どもたち。
そっとパンを手に取って、ありがとうって言ってくれる老婦人。
それがいつの間にか自分の“原動力”になっていた。
思い返せばあのリエラ祭もそうだった。
村の皆が集まって、笑って、パンを囲んで――あの輪の中心に自分の焼いたパンがあったことが何よりも誇らしかった。
「また食べたい」
その一言のために俺は焼いてるんだって思う。
技術に自信があるわけでもない。何か特別なものを持ってるわけでもない。
でも「このパンが好き」と言ってくれる誰かがいるなら、俺はその人のためにまたこねて、焼いて、届けたくなる。
誰かのために焼くパン。
そのためなら不安の一つや二つ、抱えたって構わない。
むしろその想いが、きっとパンに味をつけてくれる。
俺はゆっくり息を吐きながらレシピメモを机に戻した。
胸の中に、ほんの少しだけ灯りがともった気がした。
窓の外では夜の帳が少しずつ薄れてきていた。
空の端がほんのりと明るみを帯び、朝の気配が忍び寄ってくる。
俺は深く息を吸って静かに立ち上がった。
机の上のレシピメモをもう一度見つめる。
祖父の文字、にじんだインク――そのすべてが今の自分を形づくっている気がして胸の奥がじんわりと温かくなる。
まだ怖さはある。
求められて行くからといって、この村を出て知らない土地でパンを焼くなんてたぶんそう簡単なことじゃない。
それでも、俺はこの村でパン屋として生きてきた。
リナやマルガレータさん、ボルクさん、子どもたち、そして村人たち。
みんなが俺のパンを食べて笑ってくれた。
その一つひとつが今の自分の根っこになってる。
だから――。
「……行くか」
「また食べたい」と言ってくれたあの手紙の人のもとへ、俺のパンを届けに。
この村から始まった想いを、次の誰かに繋ぐために。
ゆっくりと窓を開けるとひんやりとした朝の風が頬をなでた。
空にはまだ星が残っているけど東の空は確かに光を宿している。
新しい一日が始まる。
そして俺にとっての“新しい旅”も。
「よし――やるぞ」
その一言を静かに、けれどしっかりと胸の中で繰り返した。
迷いはもう置いていく。
焼く理由は、ちゃんとあるから。
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