小山内さんの憂鬱

立入禁止

無意識に出そうな言葉は前もって選ぶべし

 私は、一体全体なにを聞いたのだろうか……。

 思いがけない言葉に出た一言は。

「は?」

 斜め前で作業している同僚を見ると、何もなかったかのように涼しげな表情で画面を見ながらキーボードを打ち込んでいた。

 一体、今のはなんだったのか。

 残業で疲れた脳が錯覚させた幻聴なのかとも思ったが、私の精神は今のところ異常はないはずだ。

 仕事以外あまり談笑はしない。ゲラゲラ笑わない。あまり親しい人といるところを見たことがない。どちらかと言えばクールなイメージがついている同じ部署の小幡さん。

 私が、じーっと見ているのに気がついてくれた。

「なにかありました?」

 いや、あったもなにも……。

 あったから見てるんですけど。

「あの、小幡さん。急にこんなこと聞くのもなんですけど……さっきおっぱいって言いました?」

 残業中のオフィスには二人しか残っておらず。終わらすためにひたすら資料を見て、画面を見て、手元を動かす作業をしていたら急に聞こえたのだ、「おっぱい」と。

 思わずビックリしてしまい手を止めてしまった。

 誰だっておっぱいって急に言われたら、手を止めてしまうはずだ。

 私は手を止めた。

 そして、おっぱいってなにとなった。

 おっぱいといえばおっぱいのことで、いっぱいじゃなくておっぱいは、あのおっぱいのことしか私には心当たりがない。

 そして今に至るわけだが。

 質問して小幡さんの様子を伺う。

「あぁ……聞こえてたんですね」

「聞こえてましたね……」

 やっぱり言っていたらしい。

 思わず気になりすぎて、おっぱいって言いましたよねなんて聞いてしまったが、聞き間違いでもなんでもなくてよかった。

 下手したら、私がおっぱいって言ってくる変な奴だと思われていたところだった。

 しかし、その後小幡さんは無言になってしまった。

 さすがに、急におっぱいを指摘されれば恥ずかしいはずだし、無言になっちゃうのもわかる。

 だからといって、そこから話題を膨らますには他の人は出来たとしても私には難しすぎる。言った方からしたら聞かないでほしいことだと思うし。私ならその場で穴を掘って埋めてほしい勢いだ。

「なんか、無意識に口から出ちゃうんですよね」

 この話は流そうと、脳内で切り替えようとしたら小幡さんが話してきた。

「小山内さんは、無意識に出ちゃうことはありませんか?」

 おいおいおい。まさかのまさかで話をふくらませてきたよ。

 どうする。どうする私!

「あ、そうですね。帰りたいな、疲れたなと無意識に出ちゃいますけど……。その、おっぱいって言葉が無意識に出るのは無いですかね」

 だっておっぱいってさ、おっぱいだよ。下ネタ案件なうえにセクハラ案件になるんだよ。街中で言ったもんなら白い目で見られるよ。いや、職場でも白い目で見られるわ。

「無意識だとしても、思わずその言葉が出ちゃうのは危なくないですかね……」

 わからないこともないけど危険しかない気がする。

「人がいないと思っていたので思わず出てしまったんですよね。すみません」

「いや、いいんですけど……。あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

 本当はよくない。よくないよ。けど、こうして言っておけば角が立たないとかあるじゃん。あるんだよ。大人の世界にはあるんだよ。致し方ないんだよ。

 それよりもなによりも気になることがあるんだよ。よくない。それもよくないけど好奇心に勝てなかった。

「えぇ、どうぞ」

「なんで、おっぱいなんですか?」

 おっぱいって無意識に出したくなる言葉になるには、なにかあるのかもしれない。というよりあってくれ。

 普段、口から出る言葉じゃない。だからなにかしらの理由があってくれ。と思ってしまったのだ。

 周りからクールな小幡さんと言われてる人から出る、おっぱいという言葉に興味が出てしまったのだ。

 この時の私は、この質問をしたことを後に後悔することになるなんてまだ知らなかった。

「そうですね……。おっぱいって神秘的じゃないですか。脂肪の塊とか言われてますけど、あれは乳腺を守る大切な役目があるんですよね。そこから生まれる人それぞれに異なった大きさと形と柔らかさ。そのフォルムが愛おしくありませんか?」


 ん?


「フォルムですか?」

 小幡さんは、眼鏡をくいっとあげて画面から私に視線を移した。

「はい、フォルムです。はっきり言って神が授けしものだと思うんですよ。その造形美は人様のを見るだけで癒される効果があると私は思っているんですよね」

 ちょっ……。

 眼鏡をあげてキリッと話す小幡さんに、外見と中身が合わなさすぎて頭がこんがらがる。

「小幡さんにもついてるじゃないですか」

 小幡さんは、はぁと小さく溜め息をついた。

「自分のじゃなくて人のがいいんです」

 小幡さんは堂々と言いきった。言い切りやがった。清々しく言い切りやがった。

「小山内さんは、自分のを揉んだことありますか? 私はあります。けれど、人のを揉んだときの衝撃ってわかりますか?」

 すみません。私にはわかりません。揉むってなんでしょうか。揉む、揉まれるタイミングなんてあるのでしょうか。それよりもなによりも今が衝撃的なんですけど。そんな私の内心をよそに小幡さんは続けていく。

「私は学生の時、友人のを揉んだ時の衝撃が忘れられなくて。その衝撃といったら、もう……。本当に自分のと違うんですよ。それからです。おっぱいの魅力に取り付かれたのは。おっぱいって一言では語れないほど奥が深いんですよ」

「はぁ……そうなんですね」

 そう相槌するしかなかった。私にはそれしか出来ない。誰か。どうか、誰でもいいので、私にたくさんの語彙力を提供してください。

 それよりなんなんだ、奥が深いって。分からない。小幡さん、ごめんなさい。どういう奥深さなのか私にはさっぱりわからんのです。

「こういうのって、言葉で伝えるより実践の方がわかりやすいと思うんですよ」

 人が少しの間、ほんの少しの間だけ意識がよそに向いているうちに話がほほいのほいで進んでいた。

「小山内さん、私のを揉んでみてください」

 は?

 はい。は?パートツーでました。今出ましたよー。

 この人、なに言ってんの。いや、本当なに言ってんの。

「あの、それはちょっと……」

「遠慮しなくていいですから。人のを触ったことがないなら触ってみた方がわかりやすいですし」

 いや、そういうことじゃないのよ。小幡さん、自分の発言をわかってんのかな。ここ連日の残業続きで頭バグっちゃったかな。

「おっぱいにはですね。揉む、擦る、鷲掴み、添える、寄せる等、色々な触りかたがありまして。オススメは擦るからの寄せて軽く揉むですね」

 は?

 はい。は?パートスリーの登場です。

 いやいやいや。なに言ってんの。またまた言うけどこの人なに言ってんの……。

 オススメはってなに。どれだけ触ってきてるの。そんなにおっぱい熟知してるの。それより、触り方ありすぎでしょ。

「いや、触りませんから」

「じゃあ、触らせてください」

 間髪入れずに小幡さんが言葉を紡いだ。

 いやいやいやいやいやいや。じゃあの意味がわからんのよ。

「いや、意味わからんし」

 あっ、やばっ。つい思ったことが出てしまった。だが小幡さんは気にすることもなく作業を進めていた。

 あ、うん。器用だね。

「そうですか。小山内さんのおっぱい……一度でいいから体感してみたかったんですけど。本当に駄目ですか?」

 ちょいちょいちょい。まってまって。挑戦してくる勇気。その勇気は認める。褒めて遣わそう。……じゃなくて。

 これ、間違いなくセクハラだよね。誰がなんと言おうがセクハラ案件だね。今のご時世、即アウトだね。

「ぜったいに駄目ですね」

「そう、ですか……」

 小幡さんは残念そうに呟いた。

「無理を言ってすみません」

「いえ。わかってもらえたならいいです」

「そうですよね。ここまできたら小山内さんにも知ってもらいたいので、おっぱいについて語らせていただきますね」

 ちょいまって。どこまで来たの。何一つ共に歩いた形跡はないのですが。それなのに、これから共に歩く旅路があるんですか。歩く前にお腹いっぱいで、私は歩けないのですが。置いていってくれると助かるのですが。

 私の願いは虚しく。小幡さんは饒舌すぎるほどおっぱいについて語ってくれていた。

 そんな中でもお互いに作業は終わっている。私、偉い。けれど、それでも小幡さんの話は止まることがなさそうな勢いだ。

 もしかして……これ、終電まで続くのか。普段クールな小幡さんが楽しそうに話しているのを止められない自分の弱さが憎い。


 あー……なんかもういいや。


「あの。その話、続くようなら飲みに行きませんか?」

 覚悟を決めた私は提案する。小幡さんは「行きましょう」と二つ返事に了承してくれた。

 二人で会社を後にし、繁華街へと紛れ込んでいく。

 居酒屋で話したのはもちろん『おっぱい』についてだ。小幡さんは熱弁に語っていた。それはもう仕事にはない熱量で。

 小幡さんとは何年か同じ部署にいた。が、クールと言われている小幡さんのイキイキとした表情は初めて見た気がする。

 ギャップと言えば聞こえはいいが……。自分のため息が後を絶たない。

 今日一日で一生分の『おっぱい』を聞いた気がする。

 終電も逃し二件目、三件目とお店をハシゴして小幡さんとは始発と共に別れた。

 長い一日だった。日付を跨いでしまって今日は土曜日だ。

 もう、何も考えずに寝よう。


 私が出してしまったあの時の好奇心は、しまっておくべきものだった。

 後悔先に立たずとはこのことなのか……肝に銘じておこうと心の底から思いつつ眠りについた。



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