鬼勘解由

DDD

第1話

 首を一つ、落とした。

 地面に転がって物言わぬただの物となった顔を一瞥する。

 そして直守は血濡れた刃を懐紙で拭っていくのだ。

 どんな名刀でも人の首を落とせば切れ味が鈍る。二、三人程で満足のいく物では無くなり、その度に直守は新しい刀を控えている小姓に用意させていた。


「次」


 すぐに新しい刀が渡される。

 転がっている首は四つに増えていた。それらは血溜まり穴と呼ばれる穴へと、死体共々落とされていくのだ。

 直守は眉一つ動かさず、淡々と首を刎ねていく。

 そこにはこれから斬首される者たちへの憐憫は一切無く、ただ怒りと侮蔑が混ざりあった、冷たい殺気を放っているのみだ。

 斬られているのは罪人だった。

 それも窃盗・強盗・放火といった罪状が殆どである。

 そのような者たちに情けをかける価値は無い。

 直守は口では言わないものの、その態度がありありと所作に滲みだしていた。


「次」


 次から次へと罪人は連行されてくる。

 彼らは全て直守か彼の部下が捕らえてきた者達だった。

 昨晩、江戸の郊外で出火があり、家屋がいくつも焼けた。

 当時の日本の町家は木と紙で造られており、瓦の使用は幕命で禁じられていた。

 なので一度、火が上がるとたちまち周りに飛び移り、あっという間に町中が燃え広がるのだ。

 町人たちは逃げる際、持っていけない家財を地中に埋めた。

 そうしなければ焼き払われてしまうからである。

 それらを掘り返し、盗む者たちが後を絶たなかった。

 中には窃盗のためわざと放火し、火事を引き起こす者たちまで現れる始末であった。

 そのような悪党どもを捕らえ、処刑する。

 それが『火付盗賊改方』・直守の役目である。

 天和3年(1683年)、彼はその任に就いた。

 江戸時代、将軍は徳川綱吉の頃である。

 彼は部下を引き連れて火事場に赴き、怪しげな連中を片っ端から捕らえて回ったのだ。

 そして捕まった者たちは弁明の機会も与えられないまま、ここで斬首されていく。

 現行犯としてその場で斬られた者も多く、その数は昨日今日だけで数十人にも及ぶ有様であった。


「次」


捕らえた罪人の首を斬る事は、本来直守の仕事では無かった。

火事場において現行犯を斬り捨てる事もあったが、直守の役目はあくまでも罪人を捕らえることである。

彼が任命された『火付盗賊改方』という役職の本業は放火・強盗・賭博といった重罪の取り締まりであり、その咎人の処刑までやる必要はない。

だが直守は一人でも多く、捕らえた者を斬ることに拘った。以来、直守の屋敷は血の香りがこべりついている。


「……今日はこれまで」

 

 直守はそれだけ言うと、刀の血を拭い鞘に納めた。周りで控えていた部下達が後始末のために動いていく。

 その中で一人、直守に向かって歩み寄る者がいた。


「父上」


「直房か」


 子息の直房であった。

 既に元服も果たし、幕府によって火付方の役目を賜っている。

 尤も、名前こそ違うがその内情は直守と殆ど変わらないモノであった。


「……些か、奉公が過ぎるのではないでしょうか。何も父上自らが解釈する必要はありますまい」


 あくまで直守の仕事は罪人を捕らえる事だ。

 捕らえた者たちを切り捨てる事など、部下に任せても良いはずだった。

 

「儂自らでなければならないのだ。悪人を捕らえ、斬る。火付盗賊改方の頭になってから、そう決めている」


「我々の務めはあくまで江戸の治安を守るべく、罪人を捕らえる事。殺すことが目的では無いでしょう」


「違う。儂らの務めは江戸の町から、悪を一掃することだ」


 眉一つ動かさず、直守は言った。


「そのために必要なのだ。自分の手で悪人を捕らえ、自分の手で斬る」


「そのような事は部下に任せれば」


「儂が斬らねばならぬのだ。そうすることで火付盗賊改方の名が江戸に伝わる。恐怖の対象として、悪人の元にも届く」


「悪名が、ですか」


「そうだ。そうすれば、奴らも理解する。悪行を為せば、必ず報いを受けるとな」


「そうなれば悪人は減ると思っておられるのですか」


「減る。恐怖が抑止力となり、悪事に手を染める者もいなくなる」


 直守の目に一切の迷いは無かった。

 

「父上、今貴方の事を町の者が何と呼んでいるか、知っているのでしょうか」


「鬼勘解由、だろう」


 息子の問いに直守は口角を少しだけ上げた。


「面白いでは無いか。戦国の世に生きた我らの祖先の異名が、儂に付けられている。旨く行っているのだ」


 勘解由、というのは直守にとって曽祖父に当たる中山家範に付けられた異名である。

 家範は後北条氏へ仕えたが小田原攻めの際に討ち死にし、その時の戦いぶりを以て鬼の異名をとったのだ。


「父上は人々が言う、鬼になるというのですか」


「なる。そして悪人を根絶やしにする。そして江戸の町に平和を取り戻す。儂の代でこの火付盗賊改方が必要の無い世の中を作る。それが儂の役目だ」


 それ以上、直房は何も言えなかった。

 父の覚悟は相当なものである。

 悪人を斬る鬼に自らがなり、万人に恐怖を与え、犯罪を抑止する。

 確かに理には適っているのだろう。

 直守は頑固一徹の男だった。

 一度決めたことは、簡単に曲げぬ強い父だった。

 そのような父を直房は敬愛している。

 しかしその父と同じ道を歩めるほど、直房は強くなかった。


「お前も形式上は儂と同格。その事を忘れるな」


 父はそう言うとそのまま実子の横を通り過ぎた。

 すれ違う瞬間、むせ返るような血の匂いが直房の鼻孔をくすぐっていく。

 まるで獣だ。

 その言葉を直房はぐっと喉元で押し止めたのだった。


 

 憂鬱な気分になると、いつも直房は長屋へと向かった。

 着物も刀も、その時は安い粗雑な元へと取り換える。

 自身の身分を隠すためだ。

 貧乏旗本の一子息、そう名乗っていた。

 やがて直房の足が自然と速くなる。

 視界の先に、目的の人物を見つけたからだ。

 

「あら」


 長屋の前で水撒きをしていた女性が顔を上げ、直房の姿に気が付いたようだった。

 彼女の表情が少しだけ和らいでいく。それを見た直房も、目尻を上げるのだ。


「久しぶり」


「ふふ、そう言ったって、三日前にきたばかりじゃない」


「違いねぇ」


 お互いクスクスと笑ってから、そのまま直房は彼女に袖を引かれて長屋の一部屋に入っていく。

 その小さな部屋に彼女は一人で住んでいた。

 直房がそこへ通うようになったのは、ほんの数か月前である。

 彼の様な武家の子息が、平民の格好をして街に繰り出すのはよくある事だった。

 粗雑な着物を身に纏い、江戸訛りで語り、酒を飲む事は彼らにとって、一種のガス抜きのようなものであったのだ。

 そんな時にふらりと立ち寄った安居酒屋で、直房は彼女と出会ったのである。

 値段が安直で、大衆的な店なので、直房は気に入って一人でもお忍びで来るようになった。

 二、三度程、一人で飲みに行ってから、彼女の方から声をかけてきた。

 佐江という名も、その時に聞いた。

 彼女は直房より一回り年上で、三十五になったばかりだといった。

 女性でその年齢とくれば普通なら結婚して子供がいるのも当たり前であるが、佐江はまだ独身だと言う。

 随分と遊んできたのだろう。

 口調や佇まい、酒の注ぎ方から男の袖を引く仕草まで、どこか煽情的であった。

 少し太った年上の彼女に、直房は不思議と惹かれたのだ。

 そして佐江もまた、直房に惹かれていたのだろう。

 別の店で二人は吞んだ後、そのまま佐江の住んでいる長屋に向かい、一夜を明けた。

 以来、直房は度々彼女の部屋を訪れてる。


「浮かない顔をしてどうしたんだい」


「なんでもない。それよりも一杯、酒をくれないか」


 直房がそう言うと、佐江は呆れたように笑って酒の準備をし始めた。

 彼女の前では、直房もまだ若輩の一男性に過ぎなかったのだ。

 

 お互い、自身の事は語らない代わりに相手の身の上も詮索しなかった。

 だからこそ二人の関係は続いたのだろう。

 暫く直房は酒を呷ると、佐江の胸元へ無言で手を伸ばしていく。

 佐江は何も言わず、為すがままとなった。

 この場所、この時だけ直房は中山家の嫡男では無く、一人の男になれる。

 直房は今日も彼女の、少し肉のついた躰の感触を朝まで愉しむつもりだった。

 だがそのたるんだ胸や腹を触っていると、どうしても脳裏に父と火付盗賊改方の事が浮かんでいくのである。

 何故、将軍は我々御手先組にこの役目を命じたのか。

 父も子もずっとその事を考えていた。

 御手先組とは本来、戦において将軍家出陣の際、その先鋒を勤めるのが役目である。

 そんな自分達に何故、火付盗賊改方の鉢が回ってきたのか。

 父は自分なりに考え抜き、答えを出している。

 その答えが自身の中で出せていないからこそ、自分は荒れているのだろう。

 直房は心の奥でそう悟っていた。

 やがて佐江が切なげな声で鳴いた。

 その声色に直房は昂ると、強引に彼女を抱き寄せていく。

 愛はあった。しかし誠実さは無かった。

 直房は名門武家の子息だ。いずれ親の決めた相手と結ばれる事は決まっている。

 佐江との関係はいわば遊びであった。

 愛と肉体関係を直房は小狡く使い分けていたし、佐江もどこかその事を理解していた。

 だからこそ居心地がいいのだと、直房は思っていた。


 屋敷に朝帰りしても直房が咎められる事は無かった。

 火付方である彼は独自に捜査権を持ち、自由に動くことを許されている。

 そのおかげで、ある程度自由に動き回る事が出来たのだ。

 

「若、父君がお呼びで」


 部下にそう言われ、直房は父のいる個室に向かった。

 女の元へ通っているのが知れたか、と少し考えたが直守の口から聞かされたのは全く別の要件であった。


「故買ですか」


「そうだ。連日の火災の中で盗まれた品々は数え切れぬ。だがそれらの物が綺麗さっぱり消えてしまう事など、あり得ぬと思っていた」


 故買とは、盗品であることを知りながら、その品物を買い取って転売する行為である。

 当然犯罪であり、火付盗賊改方の管轄内だ。

 火事場で手に入れた盗品をタダ同然で買い叩き、高値で売るという行為も罷り通っているという噂もあった。


「目明しの者が報告してきおった。質屋の柳屋が火付け盗賊から盗品を買い漁っておるとな」


 目明しとは火付盗賊改方の使う密偵で、元々は盗みを働いていた犯罪者たちである。

 彼らの罪を免じる代わりに、同業者の情報を密告するのが目明しの役目であった。

 

「ならば柳屋を調べれば、芋づる式に盗賊を捕らえることが出来るかもしれませぬな」


「ああ、既に柳屋へ刀を一本、売りに行かせておる。本日の昼に踏み込むつもりだ」


 手の早い事だ。父の手腕に直房は舌を巻いた。

 目明しの者をやって盗品を売らせ、それを証拠として踏み込もうというのである。

 こういう強引な捜査は、火付盗賊改方にしか出来ない事だった。


「ああ、それにもう一つ」


 父は眉を顰めて言った。


「報告では江戸郊外より浪人共が続々と入ってきているらしい」


「……すると、彼らが何かやると?」


「常に警戒しておけ、食い詰めた賊共が畜生働きをせんとも限らん」


 取り潰された大名の御家人が浪人となり、辻斬りや強盗などを働くことも多い。

 浪人たちが放火し、そのどさくさに紛れて盗みや強盗を行う事も少なくなかった。

 そしてそれらを斬るのも、火付盗賊改方の仕事であった。


「何事もなければよいのですが……」


 直房はそう言ったが、こういった悪い予感はそのまま現実に形となって現れるのだ。

 

 その日の内に柳屋は直守によってしょっ引かれた。

 柳屋の庭にある蔵の中には、巧妙に偽装された盗品が幾つも隠されていたらしい。

 故買をしているのは明らかだったが、柳屋は当初それを否定した。

 拷問が始まった。

 柳屋の蔵にあった品の目録を作り張り出した所、それが盗品だという訴えが幾つも寄せられたのだ。

 言い逃れはもはや出来なかった。

 後はこれらの盗品を売りに来た者を聞き出すだけである。

 これだけの盗品を扱うには、単独では不可能だった。

 徒党を組んで盗みを働く者たちがいるはずであった。


 容赦ない拷問が始まった。

 一度でも疑えば吐くまで苛烈に責め抜く。それが父のやり方であった。

 二日も経たずに柳谷は火付盗賊の名前を口にした。その日のうちに火付盗賊改方は町中に散り、名の上がった者たちの元へ向かったのである。

 直房も部下を二人引き連れて、とある浪人の住まう長屋へと向かっていた。

 幕府の大名取り潰し政策によって、奉公先を失った浪人たちは食い詰めて、続々と江戸に入ってきている。

 彼らは昼間から酒を喰らい、くだまいているのならまだ良い方で、辻斬り強盗やそれこそ火付盗賊になる者も少なくなかったのだ。

 そんな彼らを摘発し、斬るのが直房たち火付盗賊改方である。

 裏口に部下を一人回し、直房はもう一人の部下と共に正面へ向かった。

 直房は間髪入れず戸を一気に開いた。


「泉八兵衛はいるか!」


 そう叫んで中へ踏み込むと、室内には薄汚れた一張羅を着た男が一人いた。


「火付盗賊改方である! 火付盗賊として引っ立てる」


 直後、男は刀を手に取ると、そのまま裏口の方へと疾駆した。

 が、直房がその瞬間に刀を抜くとそのまま一気に斬りかかっていく。

 断末魔を叫ぶ暇も無く、泉八兵衛の首と胴が離れた。

 直房も御手先組の産まれである。

 人を斬る事には慣れていた。


「やましい事がある。だからこそ逃げようとする。なので斬った」


 己に言い聞かせるように直房は言った。

 そのまま直房は刀を鞘に納めると、次の目的地へと向かおうとした瞬間。耳をつんざくような絶叫が聞こえてきた。

 見れば女が一人、八兵衛の死体に追いすがって泣いている。


「……行くぞ」


 直房はそれだけいうと踵を返した。

 自分は火付盗賊を。悪を誅したのだと己に言い聞かせながら、直房は足を速めた。

 戦で敵を斬る覚悟はある。

 だが悪人とはいえ、一方的に人を斬る事には良心の呵責を感じてしまう。

 別の隊と合流した。皆、袖には血が飛び散っている。

 あと何人。

 直房の脳裏にそんな言葉が浮かんだが、すぐに頭を振って打ち消した。

 父は既に江戸の各所に間者を放ち、人相書きを頼りに残りの者を探している。

 火付盗賊改方の包囲網は凄まじく、一人また一人と捕らえられ、あるいは斬殺されていた。

 

「残りは」


「まだ首領格の中村佐兵衛が見つかっておりませぬ」


「江戸から外に出る道は全て監視せよ。草の根をわけても探し出す」


 そう命じて直房は一旦、屋敷へと戻った。

 父が待っていて、現状を報告しあう。

 そこで直房が驚いたのが、既に父は中村佐兵衛の居所を掴んでいたということだった。


「部下が交代で張っておる。中村佐兵衛め、外から来た浪人どもを集めているようだ」


「では彼らを使って」


「火付け盗賊をするつもりだろう。既に奴も柳屋が吐いたのを知っているはずだ。ここで大規模な火付けを行い、江戸から逃れるつもりであろう」


 考えられる話であった

 元々、外から浪人を集めていたのも大規模な火付けを行うのが目的だろう。 

 それが柳屋の露見で早まっただけなのかもしれない。

 日が落ち始める頃、直房は父や部下達と共に屋敷から出発した。

 常に部下達からの報告は上がっている。

 中村佐兵衛は賭場や酒屋を転々としながら、浪人たちと合流しているようだ。

 途中から部下たちが散っていく。

 集団で動けば目立ち、標的に気づかれる可能性があるからだ。

 直房も父と分かれ、部下一人を伴って中村佐兵衛の潜んでいる場所へと向かっていた。

 あたりが暗くなり始めた頃に、直房は賊共の姿を目に捕らえた。

 それから付かず離れず、直房たちは周囲から各自でじりじりと、相手方に迫っていったのである。

 やがて完全に日が落ち、闇が江戸の町を覆い始めた。

 中村佐兵衛は周囲を警戒しながらも、浪人たちを引き連れて人気の無い街角へと進んでいく。

 人数は七、八人といったところか。

 やがて彼らは中村左衛門をぐるりと囲んで、立ち止まった。

 直房も陰に潜み、息を殺して彼らの動向を探っていく。

 ふと、人の塊の奥に赤い光が見えた。

 仄かに香ってくる煙管の香り。

 それを見た時、直房は静かに鯉口を切った。

同時に反対側から人影が迫ってくるのが見える。

直守であった。

 彼の出現に火盗たちは総毛立つ。

 見れば中央の中村左衛門懐から出した古紙に煙管の火を落としていた。

 それが火種となり、古紙からゆっくりと燃え始めている。


「なにをしている」


 恐ろしく低い声で直守が尋ねた。

 直後、前にいた二人が腰の刀を抜き、一気に距離を詰めてくる。

 直房はそのまま刀を抜き、すれ違いざまに二人を斬った。

 傷は浅いようで彼らは苦しげな声を上げながらも、フラフラと立っている。が、すぐに直房の後へ続いていた部下が、一気に斬り捨ててしまう。


「火付けか、ならば容赦せん」


 直守はそう吐き捨てると、残った火盗へ斬り掛かっていく。彼らはそれから逃れようと四散したが、向かう先には既に直守と直房の部下が待ち構えていた。

 続けざまに斬られた。直房も近くにいた一人を斬っている。

 火付けの現行犯だ。その場で処断しても許される。火種も踏み消し、最悪の事態は何とか防げたようであった。


「片付いたか」


 そう言って直守は周囲を見渡していく。既に辺りは血の海と化し、物言わぬ死体が無残にも転がっていた。


「中村左衛門はこれに」


 部下の一人が差した先には煙管を握りしめた男がうつ伏せに倒れておる。

 その腹からは血が流れ、小さな池のように溜まっていた。

 何とか火付けは防いだようである。

 しかし。


「組長、一人足りませぬ」


「何と」


「賊は八人おりました。しかしここに転がる仏は七つしかありませぬ」


 部下の言葉に直房は地に伏せる死体を見た。

 確かに転がっている男は六つ。あと一人、どさくさに紛れて逃げたようであった。


「浪人の一人が逃げたか。見つけだせ」


 直守の言葉に頷いた部下たちが合図の笛を吹くと、そのまま散り散りになっていく。

 直房もその場から離れ、暗い街中へと駆けだした。

 手には人を斬った感触がまだ残っている。

 だが相手は罪人だ。

 今まさに火を付けようとしていたではないか。

 そう自身に言い聞かせながら、直房はひたすら足を進めていくのだった。

 

 夜が明けた。

 火付盗賊改方の捜索空しく、最後の一人の足取りは一向に掴めずにいた。

 直房も一晩中、江戸の町を駆けずったが手掛かり一つ見つからなかったのである。

 そもそも、残った一人は名前も顔も分かっていない。

 恐らく外から入ってきた浪人だろうと、直房は踏んでいたのである。

 しかし顔も名も分からぬ相手を探すのは、まさに雲を掴むような話であった。

 火付盗賊改方達は草の根を分けても探し出さんとするも、捜査は難航するばかりなのが現状である。

 直房の顔にも疲れが浮かび、足取りも徐々に重くなっていた。


 着物の裾を血で汚した見慣れぬ男を見たという垂れ込みがあったのは、そんな時であった。

 直房は二人ほど部下を連れ、その情報の出処へと急ぐ。

 そこへ向かう中で、直房はふと自分が見知った道を歩いていることに気がついた。

 勿論、彼にとって江戸の町はよく知る場所なのだが、今自身が疾駆する道はあまりにも身近な風景だった。

 あししげなく通った、その道。

 直房は息が激しく上がっているのを感じた。そしてそれは走っているからでは無かった。言いようのない不安。それに押し潰されそうだった。


「あの長屋へ入っていったのを目撃した者がいます」


 部下の一人が指差した先を見て、直房の不安が確信へと変わった。

 見間違えるはずも無い。

 部下の指す先にはあるのは佐江の部屋である。

 背中に冷たい感覚を覚えた。

 討ち漏らした最後の浪人。それが今、彼女の部屋にいる。

 そこまで思考を巡らせた時、直房の足は自然に前へと進んでいた。

 耳を澄ます。辺りは静寂に包まれており、向かう先からは異様な雰囲気を感じてしまう。

 木戸を勢いよく開けた。

 視界に飛び込んできたのはがらんとした、室内だった。

 不意に左から何かが飛び込んでくる。

 下から突き上げるような撃ちこみであった。

 直房は鍔元で咄嗟にその一撃を防いだ。

 刃が鳴ったのと同時に、直房は一気に相手へ踏み込んでいく。

 そのまま爪先で蹴り上げる。

 相手は体勢を崩し、前のめりに倒れそうになって膝を着いた。

 その肩に直房は刀を深く斬り込んだ。

 肉が裂け、骨が潰れる感触が掌に広がっていく。

 一気に手前に引き抜いた。

 ぐらり、と目の前の男は崩れ落ち、そのまま地面に突っ伏すと動かなくなっていく。

 ほとんど衝動的に斬殺した。火付盗賊改方なら日常茶飯事の事である。

 直房は一息ついて刀を降ろしていく。

 佐江の事を思い出したのはその時であった。

 部屋を見渡すと、部屋の隅で震えながらこちらを凝視する彼女を見つけた。

 酷く怯えているようだ。

 目の前で血生臭いやり取りがあったのだ。当然だろう。

 そして何より、自分の本当の姿を見られてしまった。

 もう以前のように彼女と接する事は出来ないだろう。

 そんな思考を直房が巡らせていた時であった。

 不意に佐江が動いた。

 彼女の手元が一瞬、光を帯びる。

 直後、佐江の小さな身体が直房の懐に飛び込んできた。

 それを直房は直感で躱した。同時に佐江の手元に手刀を叩きこむ。

 何かが畳へと転がった。

 見れば女の懐にも隠せるような小さな匕首が、鈍い光を放っている。


「人殺し!」


 憎しみの籠った双眸で直房を睨みながら、佐江は叫んだ。

 今まで見たことも無い表情であった。


「この女」


 両脇から部下達が佐江を取り押さえていく。

 彼女は四肢をぶん回して喚き散らしていた。

 怒声と泣き声が交じり合った声で何を言っているのか判別しかねたが、時折『仇』という言葉が混ざっているのは、直房にもはっきりと理解出来た。

 

 この男……と直房は今しがた誅殺したばかりの死体を見下ろしていく。

 佐江とこの男は知り合いだったのか。

 でなければ自分に斬りかかったりしないであろう。

 ではいつからか。

 彼は浪人で江戸の外から入ってきたと思われる者だった。

 過去の男か。

 そういえば直房は佐江の身の上を知らなかった。

 語ろうとはしないし、聞こうともしなかった。

 都合の良い関係が、それで潰えるのを恐れていたからだ。


「……連れていけ」


 一度も佐江の顔を見れないまま、直房は部下にそう指示した。

 これが今生の別れになるだろう。その事がハッキリと分かった。


「鬼か……」


 佐江の罵る言葉が耳にこべりついていく。

 彼女にとってはもう直房は意中の男では無く、憎い仇なので。

 そして佐江は直房を憎んだまま死んでいくだろう。

 佐江だけでは無い。

 これまで自分達が斬り殺してきた者達。連行した者達。彼らとその身内。

 大勢の憎しみを一身に背中で受ける。

 そして無辜の民からは恐れられる。

 それが火付盗賊改方だった。

 正に鬼と言われるに相応しい存在だろう。

 しかし。

 この男とその一派を野放しにしていたら忽ち火付けは起こったであろう。

 罪の無い者たちが家を財を、そして命を失うかもしれなかったのだ。

 

「儂の代でこの火付盗賊改方が必要の無い世の中を作る」


 かつて父が言った言葉が、直房の脳裏を過った。


「そのために鬼となるか。しかし……自分にはまだ……その覚悟が出来ておらぬ」


 これから先も同じような事が起きるのだろうか。

 その時、自分はその重さに耐えきれるのだろうか。

 そしてそれらの事に動じなくなった時、本当の鬼になるのではないだろうか。


 直房は直感で自分の人生の命題を理解したような気になった。


 父は自身の信じる正義のために鬼となった。

 自分は己の正義とは何かを、まず見つけなければならぬ。

 ひょっとしたら今回の出来事は、その苦難な道のりの始まりに過ぎないのかもしれぬ。

 気づけば直房は刀の鞘を強く握りしめたまま、立ち尽くしていた。

 若き火付盗賊改方は、その旅の入り口に足を踏み入れたばかりであった。

 

 その後直房は正式に父の役職を受け継ぎ、名実ともに火付盗賊改方の二代目となった。

 彼は悪人を厳しく取り締まり、宝永元年には先手組鉄砲頭へと出世している。

 その辛辣な手腕から『鬼』と呼ばれ、一説には鬼勘解由の名は直房を指すものであるという者もいる。

 宝永三年、直房は50歳で没した。

 直守・直房親子の死後も、火付盗賊改方は江戸中で恐怖の代名詞としてその名を轟かせ続けた。

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