腐敗臭

私が貴方を好きだったのは季節が変わる直前の夕暮れのせいだった。

誰にも気付かれず黙って沈んでいくものがこの世界には必要でたまたまその時それが私だったというだけの話。それでも私は貴方の声を光だと思った。耳を伝って体温が上がる錯覚。ただそれだけで生き延びられた日が確かにあった。


貴方は少し喉を鳴らして笑う。その音に似た喪失を私は幾つも知っている。それなのに抗えなかった。

目が合うたび何度も恋に落ちた。同じ場所に同じ深さで。

だから私は傷つくことさえ愛なのだと錯覚していたのだろう。

貴方の指が私の心を開くふりをした時でさえ私は何も言えなかった。貴方が私を望んでいないことなどとうの昔から知っていたから。それでも構わなかった。

貴方が立つ場所に影としてでも存在できるならそれだけでいいと思っていた。思っていたのに時間は私を日常へと引きずり戻す。それは惨めなことだった。

毎朝同じ場所に立ち同じ時間にドアを開ける。

冷蔵庫の光が目に刺さるたび貴方の不在を再確認する。何度も何度も何度でも。まるでそれを私だけの義務にでもされてしまったかのように。

そして私は気付いた。

私は貴方を愛していたのではない。貴方に愛されるはずだった自分を延々と演じ続けていたのだと。

貴方が微笑む度に私の中にある理想の他人がその仕草を焼きつけていた。実際の貴方はそんなに優しくない。口数も少ないし朝に弱いしスマホばかり見ている。

それでも私はそんな貴方を愛していたことにした。世界でいちばん愛していることにした。

そうしなければ何も救えなかったから。

例えば貴方の目が海に沈みゆく夕焼けに似ていたこと。

例えば貴方のくしゃみが窓の外から聞こえてくる子どもの笑い声みたいだったこと。

例えば貴方のバイバイがいつもはじめましての声だったこと。

全部私だけが知っていて全部私だけが覚えている。

それはひとりぼっちな優しさだった。


やがて私の語る貴方が本当の貴方を追い越していった。

そしてある朝私はもう貴方を正しく思い出せなくなった。

声の高さもまつげの長さもどこかぼやけていてまるで夢の登場人物のようだった。

あぁ、これはもう終わりなのだと思った。

わたしが好きだったのはあなたの幻影だった。その時部屋のなかで音が消えた。

時計の針の音だけが酷くゆっくりと響く世界に残されていた。私は自分の心臓がまだ動いていることに驚いた。

まだ終わっていなかった。いや終わらせられていなかっただけだろう。


私はここにいるのだ。

かつて貴方の影に棲んでいたこの私が誰にも抱きしめられず愛されずそれでも生きて腐って貴方のいない部屋で貴方を語るのだ。

そうして今日もまたあなたに愛されていた私を夢に見る。

そうして目覚めてはそれを指で握りつぶす。くしゃくしゃにしてもう見えないふりをする。


でもまだ少しだけ香りがする。夢の残り香が。

それだけで私はまだ大丈夫だと錯覚している。まだ腐りきっていない。まだ優しく腐っている最中なのだと。

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