片道
だって、あなたはわたしの唯一だったんです。
唯一。わかりますか。たとえば、ひとつの光源しかない部屋で、それを塞がれたら、もう、暗いじゃないですか。
暗いんですよ。わたしは今、暗いんです。
べつに、比喩じゃありません。真っ黒なんです、本当に。心臓の裏側まで煤けている気がするんです。それは、あなたが光だったから、です。
あれ?笑いました?
今、きっと笑いましたよね。
そうやって、いつもわたしのことを、冗談みたいに扱うくせに、目だけがやさしいから、たちが悪いんです。
あなたのその優しさに、何度だって焦がれていました。わたしは、バカですね。
バカだから、まだあなたの声を覚えている。左耳の奥のほうで、こびりついたように鳴ってる。脳みそで反響する。ごめんって。
違うんです、ごめんじゃないんです。
あなたがわたしを踏んだのだとしても、ごめんはわたしの台詞なんです。
もうめちゃくちゃです。
わたしのくだらない拘りを笑ったくせに、あなたは、それでも、わたしに、ありがとうとも言った。
あれは、何に対してだったんです?
わたしが壊れたことに?
わたしがあなたの罪を共に被ったことに?
思い出す前の日々がほしい。
あなたのいない、透明な日々がほしい。
でも、わたしの部屋は、まだあなたの歯ブラシが笑ってる。薄青の、毛先の広がった、もう使わないはずの歯ブラシが、わたしの正気を嗤うんです。
だからわたし、こうして駈け込んできました。
ぜんぶ、吐き出すために。
あなたのその、やさしい目を、今度こそ潰すために。
でも、本当は。
わたしがいちばん潰したいのは、きっと、わたし自身なんです。
私は、そんなふうにして生きてきた。
うん、えっと、つまり、誰かの靴音に心臓を合わせて、隣に寄り添うふりをして、ほんとうはずっと息を殺して、捨てられる瞬間だけを待っていた。
あなたに出会って、はじめて、それをやめられるかもしれないと思ったんですよ。
ほんとうに、思ったんです。たった一度、陽に照らされた犬のように、しっぽを振るような錯覚を覚えたんです。
でも、だめでした。
錯覚は所詮、錯覚で、現実のそれを支えられるほどの強度はなかった。
わかってるんです、あなたはわたしを愛していない。
そんなことは、最初から、空気のようにわかっていた。
あの、あなたの左の眉がわずかに上がるとき、少し喉を鳴らす癖、口角の片方だけが沈む夜の電話口。
そのぜんぶが、あなたの中にある他人行儀の表れで、それでもわたしは、そういうものを優しさだと捉えるしかなかった。
ねえ、こんなに気づいてるのに、なんでまだあなたを見てるんでしょう。
なんで、朝焼けを見ると、あなたの首筋の曲線を思い出すんでしょう。
あれは光じゃなくて、ただの執着です。
未練の形です。
もうとっくに終わった映画のエンドロールを、何度も巻き戻して、クレジットの中のあなたの名前を指でなぞっているだけです。
知ってます。わかってるんです、そんなことは。
けれど、わたしの身体は、あなたの重さで歪んでしまったから。
もとには戻れない。
あなたに出会ってしまったわたしは、もう、あなたの不在によってしか語れない。
ねえ、これって呪いじゃないですか?
あなたは、何度だって無傷で春を歩けるくせに、わたしはもう、冬の終わり方さえ忘れてしまった。
ずっと前に聞いた雪解けの音が、あなたの笑い声に似ていたことだけを覚えている。
それだけしか、残っていないんです。
こんなに、あなたのことばかり書いて、
こんなに、あなたのことばかり喋って、
こんなに、あなたのことばかり忘れようとして、
どうして、わたしはまだ、あなたに好きと言っていないのだろう。
……もう、いいかい?
……まだ、だめか。
わたしの声が届くのは、もうわたしだけになってしまった。
こんなにも、あなたのことばかり喋っていたのに。
ひとつひとつ、あなたに似た言葉を拾って集めて、
折って、切って、貼り付けて、心臓の形にして、飲み込んで、
それでも足りなかった。
空洞が音を増幅し、返す。
こころ、ころ、ころ……からん。
あなたが好きだった。
爪の丸みも、首の骨も、笑い方も、
わたし、知ってたのに。覚えてたのに。覚えて、いたのに。
いたのに。いたのに。いた、のに。
つめたい、
くちびるのかわがむけて、あついはずのことばがでてこない
うそ。
うそうそうそうそ、
あんなもの、愛じゃなかった。
ねえ、わかってた。最初から、
わたしがひとりでやってたことだった。ひとりごとだった。
ひとり、だった。
なにもかも。
部屋も、光も、あの紅茶のぬるさも、あなたの影も、
ぜんぶ、ぜんぶ、わたしが勝手に貼りつけた色だった。
わたし、色を間違えてた。
あなたの目をやさしいと名づけたのは、わたしだ。
あんなの、ただの無関心だったのに。
無、関、心。
はぁ、
ああ、
あ、
………………
現実が、くる。
引き戻すためのサイレンが鳴る。
部屋に差し込む朝の光は、灰色。
カーテンが半分開いていて、埃が舞っている。
あなたはいない。
あなたはいない。
あなたはいない。
――わたしは、起きている。
もう、夢じゃない。
夢は、
終わった。
のだ。
……
……だから、今日も街に繰り出す。
ポケットに、折れた心臓のかけらを突っ込んで、
駅までの道を、
しずかに、あるく。
ぽつり、ぽつり、
遠くから、本物のサイレンの音、
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