第7話 決意と反響(Decision & Echo)

都市に走ったのは、無音の通達だった。


《警報:E-R0996(如月 響)に対し、即時排除命令を発令》


《理由:市域内における未承認感情誘発、および共鳴影響拡大の危険性》


誰もその音を“聞いて”はいない。

けれど、その命令は都市中に張り巡らされたネットワークを通じて、人々の“内側”にまで染み渡っていく。


感情を管理された都市において、

「共鳴」は最も忌避される“感染源”だった。


セントラル管理局。

冷たく無機質な空間で、天野零士は、ただ一枚のモニターを凝視していた。


そこには、響が奏でた“非許可音波”のデータが表示されていた。


通常なら即時処分されるはずの信号。


だが――


「……この感情は、ノイズじゃない」


零士は口を開いた。


背後の同僚が振り返る。


「零士。君はこの任務に個人的な感情を混ぜるな。君はハーモナイザーだ。システムの秩序を維持するのが役目だろう?」


その言葉に、零士は静かに目を伏せた。


「わかってる。でも、だからこそ、確かめたい」


零士の中で、何かが決壊していた。


それは、響の音に触れて以来、ずっと疼いていた“なにか”だ。


最初は違和感だった。


だが今は――


はっきりとわかる。


(あれは、俺の中にある“ロスト・エモーション”を揺さぶったんだ)


システムによって切り捨てられ、忘れられた“哀しみ”“孤独”“愛しさ”


すべてを、思い出させる音だった。


彼は決意した。


「如月響の確保命令、取り下げを申請します。彼は排除されるべき存在ではない。これは……システムの誤作動です」


周囲が騒然とする。


だが零士は、振り返らなかった。


(今度は、俺が君を守る)


心の中で、そう呟いた。


そのころ、響は自宅の一室で静かにキーボードを調整していた。


外の空気が少しだけざわついているのを、肌で感じていた。


窓の外――都市の光は変わらず整然としていたが、その“静けさ”が、逆に異常を物語っていた。


「……来るな」


彼は呟く。


「システムが、俺を“切り離し”に動く」


だが、その声に混じっていたのは、怯えではなかった。


諦めでも、怒りでもなかった。


それは、“覚悟”だった。


彼の演奏は止まらない。


誰かに聞かれるためではない。

ただ、自分の“中”からあふれてくるものを、音にする。


それが、都市という名の巨大な静寂に亀裂を入れることを、響は知っていた。


そしてそれが、誰かの胸の奥に――


“本来、存在していたはずの何か”を目覚めさせると、信じていた。


同時刻、都市の一部で、微かな異変が起こっていた。


通勤中の青年がふと足を止める。


イヤホンから漏れるメロディが、涙腺を刺激する。


理由はわからない。


ただ、どうしようもなく――懐かしかった。


「あれ……なんで、泣いてるんだ、俺」


彼は、戸惑いながら目をぬぐった。


別の路地裏で、老人が古いラジオを聴いていた。


響の音が、電波を介して広がっている。


それは、機械的な整音処理をされていない、生の音。


「こいつは……人間の音だ」


老人は目を細める。


その頬に、一筋のしわが震えた。


都市の至る場所で、“感情”の芽吹きが始まっていた。


響の音が、ただ“聴かれる”のではなく、“共鳴”し始めていたのだ。

都市の中枢AI“CORE-00”は、共鳴波形の拡散速度を異常と判断した。


《警戒レベル:オレンジからレッドへ移行》

《排除対象:E-R0996(如月 響)に加え、関連人物 R-A0712(天野 零士)を追加》


管理端末のひとつが、音を立てて再起動する。


その瞬間、都市全域の感情制御フィールドに“強制感情調整信号”が流れた。


《目的:不安・憤怒・歓喜等の過剰感情を即時抑制せよ》


だが、その命令は、もはや完全には届かない。


響の演奏に触れた人々の中に、明確な“拒絶反応”が現れていた。


「なんだか……また、息が詰まる」


「せっかく思い出しかけたのに、また“戻れ”って言うのかよ」


「もう、戻りたくない……!」


感情は、ただ制御されるものではなかった。

一度動き出した心は、かつての“沈黙”を拒む。


その波紋は、静かに、しかし確実に都市を包み始めた。


システムは、都市全体のフィールド強度を最大に上げる。


《全域エリアにおいて、ロスト・エモーション検出者を対象に隔離信号を送出》


響に共鳴した人々の端末が、次々と“故障”と認定されてログアウトしていく。

通信が切られ、メッセージが遮断され、都市の中で孤立するように。


「これが……“弾圧”」


響は歯を食いしばった。


かつて、自分があの街角で感じていた“空気の壁”が、今は明確な“力”として牙を剥いている。


(だけど、俺はもう、黙らない)


響は手にしたコードの束を握りしめ、再び演奏を始めた。


制御フィールドなど、届かないほど“深い場所”から音を響かせる。


たとえ排除されても、この都市のどこかで、誰かがまた思い出すように――

都市の空気が変わった。


あらゆる端末が、一斉に“危険報告”を表示し始めた。


《警報:排除対象が市内に存在。視認した場合、即時通報を》


《対象者:E-R0996(如月 響)》


《情報提供者には報奨ポイントを付与》


それは、かつての「匿名性と秩序」を尊重した都市が、明確に“追放”を意味する指令を下した瞬間だった。


響の拠点にも、無人の捜査ドローンが接近していた。


ビルの屋上に立つ彼の背後で、センサーが警告音を鳴らす。


「追ってきた、か……」


彼は深く息を吸い、改造された古いスピーカーにコードを繋いだ。


「こっちだよ。俺の“ノイズ”を聴きに来たんだろ?」


音が、空に放たれる。


電子音でもない。指令音でもない。

ただの、“感情”の音。


それは、ドローンの動作を一瞬止めた。

まるで迷ったように、空中で揺れる。


(届いてる。たとえ、機械相手でも)


だが、ドローンは即座に再起動し、強制捕縛プロトコルを発動する。


ワイヤーが発射され、響の足元へと伸びた。


「っ……!」


響はすんでのところで避けるが、腕にかすり、火花が散る。


彼は後退し、屋上から階段へと逃げ込む。


「まずい……ここまで来たか」


息を切らしながら、通信端末を起動する。


「零士くん、聞こえる? 俺、ちょっとヤバいかも……!」


その通信は、すぐに応答された。


《位置は?》


「第十七区、旧発電所ビルの上」


《わかった。迎えに行く》


セントラルでは、零士がすでに動き出していた。


特殊端末を起動し、“中枢アクセス用バックドア”を強引に展開。


内部セキュリティが次々と反応するが、零士は止まらない。


「待ってろ、響。今度こそ、守るって決めたんだ」


彼の目に、迷いはなかった。


追いつめられる音楽家。

システムに反旗を翻す調律者。


それぞれの“戦場”が、今、重なり始めていた。

響が階段を駆け下りると、廃ビルの非常扉が開いた。


そこに立っていたのは――零士だった。


「遅くなった」


「……ほんと、ギリギリ。助かった」


目が合う。

それだけで、胸の奥が熱くなる。


互いの瞳に、あの夜の記憶が蘇った。

廃駅で重なった音と温度。

心の奥に届いた、たったひとつの“共鳴”。


「もう、逃げない」


「俺もだ。……行こう、“あそこ”へ」


零士は懐からデバイスを取り出し、響に渡した。


「中枢へのルートを開くバックドア。お前の音なら、きっと届く」


「わかった」


ふたりは頷き合うと、廃ビルを後にした。


移動用の自動車を乗り継ぎ、セントラルへ。


厳重な監視網を避け、都市の旧地下回路を通って、中枢ブロックへと侵入する。


深夜0時、都市は眠っているようで、すべてが目を光らせていた。


「アクセス開始」


零士の声とともに、巨大なデジタル扉が軋みを上げて開く。


その先にあるのは、“ヒューマンシステム”の心臓部だった。


中央ホールには誰もいなかった。

だが、無数のライトと端末が、まるで“監視者”のように二人を見ていた。


《不正アクセスを確認。即時退去せよ》


低い、無機質な警告音が響く。


「行こう、響」


「うん」


響はスピーカーの前に立ち、コードを繋いだ。


指先が震える。

けれど、その震えごと音にする。


最初はかすかだった。


けれど、響の声が響くたびに、壁のライトが微かに揺れる。


感情の波が、機械の中枢に届いていく。


「これは――命令じゃない。お願いでもない。ただ、“本当の声”だ」


零士は隣で、システムに語りかけた。


「お前が排除した“ロスト・エモーション”は、滅びじゃない。可能性だ」


「それを認めることは、終わりじゃない。“始まり”なんだよ」


響の音と、零士の声が重なる。


その瞬間、中枢の警告灯がふっと消えた。


静寂の中、ただ一つの“共鳴”が――生まれた。


遠く、都市の空に、音が立ちのぼる。


それは、風のように。波のように。

けれど確かに、誰かの“心”を揺らすものだった。

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