第6話 感情の交錯(Intertwined Emotions)
都市の夜が明けるまでには、まだ数時間あった。
響と零士は、地下鉄の廃線跡を歩いていた。
ヒューマンシステムの主導制御が保留された今でも、補助AIによる監視は残っている。
セントラルにいた二人の存在は、当然記録されているだろう。
「追跡はあるかもしれない。でも、今ならまだ……」
響は静かに言い、歩を緩めることはなかった。
零士も黙ってついてくる。
足音が、コンクリートの壁に反響するたび、二人の沈黙が少しずつ溶けていく。
やがて、誰も来ないホーム跡に辿り着いた。
古いベンチに腰を下ろし、響はそっと水筒を差し出す。
「飲む?」
「ありがとう」
零士は受け取り、一口だけ口に含む。
水の味がした。それだけなのに、不思議と胸が温かくなった。
「……君は、怖くなかったのか?」
不意に零士が問う。
「こんなふうに、都市全体を揺るがすことをして。……君が失うかもしれないものも、あったはずだ」
響は一瞬だけ視線を落としたが、すぐに零士を見て微笑んだ。
「怖くないわけないよ。でも――何も感じないままの世界で、生きるほうがもっと怖かった」
零士は言葉を失った。
かつての自分は、その“感じない”世界を当然と受け入れていた。
それどころか、それが“正義”であり、“秩序”であり、“最善”だと信じていた。
それが崩れてしまった今、自分が立っている場所さえも確信が持てない。
だが、隣にいるこの青年は、そんな不安定な世界を受け入れて、なお笑っている。
「……君の音楽に、最初は苛立ちを感じていた」
零士は呟いた。
「不快だった。意味がわからなかった。なのに……何度も、思い出すんだ。
君が奏でた“音”が、まるで俺の中の何かを――名前のない感情を、揺さぶるようで」
響は、ゆっくりと頷いた。
「嬉しいよ。零士くんが、それを感じてくれたことが」
しばしの沈黙のあと、響は問いかける。
「……ねえ、零士くん。君は、本当は、どうしたい?」
その問いは、命令でも誘導でもなかった。
ただの、ひとつの“問い”だった。
零士は目を伏せたまま、小さく息を吐く。
「――まだ、わからない。けれど……君の隣で、考えたいとは思ってる」
その言葉に、響の目が少し潤んだ。
「うん、それでいい。考えてくれるなら、俺は嬉しい」
廃駅に、わずかな微笑と、息の音が響いた。
しばらくの沈黙のあと、零士がぽつりと呟いた。
「俺の母は……いつも泣いていた」
響は黙って耳を傾けた。
その声は、今までのどんな報告書よりも、彼の“真実”に近かった。
「父はβで、母はΩだった。けれど、父は何も感じない男で、母を“従順な存在”としてしか見ていなかった。
酒を飲んでは、母に暴力を振るった。俺が庇えば、今度は俺が殴られた」
淡々と語られるそれは、血で染まった記憶だった。
「……でも、俺は“感じるな”って言われて育った。怒るな、悲しむな、騒ぐな、と。
母も言った。『耐えるのが一番、目をつけられないから』って。
だから俺は、黙って感情を捨てた。気づいたら、“何も感じられない人間”になってた」
響は息を呑んだ。
「零士くん……」
「大丈夫。今さら辛くもない。感じなくなってから、痛みも消えたんだ。……でも――」
零士は手のひらを見つめる。
「君の音が、その“空洞”に触れてきた。
最初は拒絶反応だった。でも、怖くて仕方なかったんだ。……“また感じてしまったら”、自分が壊れるんじゃないかって」
今度は響が口を開いた。
「……俺もね、小さいころから“感情を持ちすぎる子”って言われてた」
「え?」
「保育園でも、小学校でも、ちょっとしたことで泣いたり、喜んだりしてた。
“落ち着きがない”、“空気を読めない”って言われて、親からも“感情を出しすぎるな”って怒鳴られてさ」
「……」
「だから、俺も一度は自分の感情を殺そうとした。何も感じないようにしようって思った。
でもね、ある日、古いラジオから流れてきた音楽が、俺の“奥の奥”に触れたんだ。
それは……“自分の感情を肯定された”ような気がして」
「……音が、君を救ったんだな」
「うん。だから今度は、俺が音で誰かを救いたいと思った。
零士くんが感じてくれたなら、それだけで、俺はもう“報われた”気がする」
零士は、初めて表情を崩した。
それは、笑顔と泣き顔が混ざった、幼い子どものような表情だった。
「……どうして君は、そんなに優しいんだ」
「優しくなんてないよ。ただ、君が孤独だったことが、わかるから」
廃線跡の冷たい空気の中で、響の声はあたたかく響いた。
そのとき、廃駅に設置されていた旧端末のスクリーンが、ひとりでに点滅した。
《都市情報更新:第八管理区、感情補正フィールド一時停止》
《一部市民に感情暴走反応あり。だが、衝突・暴力行動は報告されていない》
「……フィールドが止まった?」
響が声を漏らす。
「制御が追いついてないんだ。いや……」
零士が画面を睨む。
「これは、都市そのものが“自らの意思で揺らぎを受け入れ始めた”兆候かもしれない」
「人間の感情を排除するのではなく、認め始めた……ってこと?」
「あるいは、システムが“共鳴波形”をエラーと認識できなくなってきたのかもしれない。
君の演奏によって、都市の根幹に揺らぎが入り始めたんだ」
その言葉に、響は小さく頷く。
「……じゃあ、俺たちがしたこと、無駄じゃなかったんだね」
「いや。むしろ、今ようやく“始まった”んだ」
零士の瞳が、かすかに光を宿す。
「君は音で扉を開けた。今度は俺が、閉じかけた扉の中へ、ちゃんと入っていかなきゃいけない」
「……君が?」
「かつて、俺は人の感情を否定する側にいた。
でも今なら、その理由も、限界も、ようやく理解できる。
“共鳴”とは、他者の心の余白に、自分の音をそっと響かせること――君が教えてくれた」
響は、ぽつりと呟いた。
「でも、怖いよ。これからも、きっと孤独と背中合わせになる。
感情に抗う人もいるだろうし、俺たちを危険視する者もいる」
「……なら、俺が隣にいる」
零士は静かに言った。
「孤独が君を蝕むなら、俺はその“沈黙”を分け合いたい。
君の“ノイズ”は、俺にとって“救いの旋律”だった」
その言葉に、響は目を伏せ、少しだけ震えた。
「ありがとう、零士くん……」
外では、夜明けが近づいていた。
だがまだ、都市の空は深い藍のまま。
その色の中に、ほんのわずかに混じる“音の気配”――それは、確かに共鳴だった。
その夜、廃駅の奥にある旧管理室で、二人は身を寄せ合っていた。
外の世界は沈黙していた。都市の喧騒は遠く、ただ二人だけが存在しているようだった。
響は、静かに零士の手に触れた。
その指先は、少しだけ冷たくて、でも確かに“生きている”ぬくもりがあった。
「……怖くない?」
「うん。今は、もう」
零士は、響の手を握り返す。
「君といると、初めて“孤独”じゃないと思える」
その言葉に、響の喉が震えた。
「俺も、ずっとひとりだったよ。感情を持ちすぎる俺を、誰も理解してくれなかった。
でも君が、“感じたい”って言ってくれたとき、心が――救われたんだ」
距離が、自然と近づいていた。
言葉では伝えきれない想いが、肌と肌を通して流れていく。
響がそっと、零士の頬を撫でる。
零士は目を閉じた。何も言わず、ただその手を受け入れる。
その仕草が、どこまでも静かで、美しかった。
やがて二人の唇が触れ合い、ゆっくりと重なる。
それは欲望ではなく、確かめ合いだった。
ここにいる。君がいる。俺は、感じてもいい。
響は、そっと零士のシャツのボタンを外す。
零士もまた、ためらいなく応じた。
音もなく服が脱がされていく中、二人の呼吸だけがゆっくりと重なる。
心臓の音が、互いの耳に直接響くほどの距離。
「……響」
「ん?」
「君に、触れてもいい?」
「うん。俺も、君に触れたい」
その許しの言葉が、すべてだった。
肌と肌が触れ合い、互いの輪郭を確かめるように、丁寧に指が動いていく。
響は零士の首筋に唇を落とし、零士は響の背中を強く抱きしめた。
その夜、ふたりは幾度となく“心”で触れ合った。
感情は溢れ、涙すら零れた。
でも、それは決して悲しみではなかった。
むしろ、ようやく“ひとりじゃなかった”と証明されたような――
生の実感そのものだった。
都市の空が、ゆっくりと白んでいく。
一日の始まりが、また訪れようとしていた。
都市の東側に、柔らかな光が差し始めた。
セントラルから見えない場所で、ひとつの夜が終わり、また新たな一日が始まる。
響は古い窓越しに、藍から白に変わる空を眺めていた。
その背後から、零士が静かに歩み寄る。
「寒くないか?」
「うん、平気。……この時間、好きなんだ。
夜が終わる直前の、まだすべてが眠ってるみたいな空気」
零士はその隣に並び、しばらく黙って外を見つめた。
「こんなふうに、ただ誰かと空を見ていられるなんて。昔は考えられなかった」
「俺も。……でも、今ここにいる」
響の言葉は、微かな震えとともに、確かな実感を伴っていた。
都市のあちこちで、小さな変化が起こっていた。
あるカフェでは、バリスタが新しいメニューに“甘さ”を加えた。
「なんだか今日は、少し甘いのが欲しくなってね」と、常連客が微笑む。
ある病院では、看護師が患者の涙に戸惑いながらも、そっとその背をさすった。
「感情調整装置が切れたのかもしれません」と医師は言ったが、
その患者は、かすかに笑っていた。
ある学校では、生徒が教師に向かってこう言った。
「先生、俺、昨日悲しくなって……泣いたんだ」
クラス中が静まり返ったその瞬間、教師はただ一言返した。
「……泣けてよかったな」
その言葉に、教室の空気が、少しだけ温かくなった。
都市は完全に変わったわけではない。
だが、確実に何かが“ほどけて”いた。
かつて制御の対象だった“感情”が、今は少しだけ――許され始めている。
響と零士は、廃駅を後にした。
手をつないで歩く彼らの足取りは、ゆっくりと、しかし確かなものだった。
「これから、どうする?」
響が尋ねる。
「わからない。けれど、もう“指示”では動かない。
自分の意志で、選んで、生きる」
その答えに、響は大きく頷いた。
「なら、俺も隣で、音を奏で続けるよ」
ふたりは歩き出す。都市の中へ、未来の中へ。
その背中には、もう“孤独”はなかった。
その後、彼らがどこへ向かったのかを知る者は少ない。
だが、ときおり都市の片隅で、誰かがこう言うのだ。
「……不思議と、心が震えるような音が聴こえた気がする」
それが風の音だったのか、記憶の残響だったのか、
それとも誰かが奏でた“本物の感情”だったのか――
誰にも、正確にはわからない。
けれど、その音を聴いた人は、皆そっと空を見上げて、こう思う。
「……今、自分は“生きてる”気がする」
そしてまた、新しい朝が来る。
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