3-9 奇妙な夢

 あのような諍いがあったというのに、エドガーは以前通り、食事は共にする事を提案してきた。断ってやろうかと思ったが、瞬時に、彼をとことんまで利用する計画を思い出し、関係修復も兼ねてその誘いに乗ってやる事にした。

 あの問答から初めての食事の時こそ、彼は明らかにドギマギしていたが、私が自然を装いながら話題を出してやると、それまでの重苦しい雰囲気を和らげ、今では以前通り、あるいは以前以上の軽い関係になっていた。

 この軽い関係というのはもちろん悪い意味ではなく、互いに何の遠慮もなく物を言えるような関係という事である。

 とは言っても、私が内側に秘めている野望は決して悟られぬよう、思春期真っ盛りの少し反抗的な少女を演じた。


「――って言っても、よくその子はあんたの事信じられるね。私だったら知らないヤツにお願いなんて絶対しない」


 それは、いつも通りエドガーと夕食をとっている時の事だった。彼はなんとなしに、今日の昼間の出来事を私に共有した。

 どうやら話を聞く限り、エドガーは小学生くらいの女の子に本の読み方を教えているそうなのだ。読書の方法など人から教わる物なのか、と率直な疑問を投げかけたところ、彼の推測によるとその子は字の読み書きができるほどの学がないそうだった。


 だからと言って、見ず知らずの相手にいきなり頼まれてそれを受け入れるなど、あまりにもお人好しすぎるのではないか。そうは思っても口にはしなかった。何せ、過度なお人好しはいづれ本人を潰してしまう。

 そうなった時、いくら普段は冷静そうに見えるエドガーでも、身近な人間に依存せざるを得なくなるだろう。

 それは私にとって非常に都合が良かった。彼を思い通りに操る事ができる状況を作る手助けをしてくれているその女の子に、心の中で感謝した。その本心を隠すために、当たり障りのないセリフを発して今に至る。


「うん、最初は僕だって驚いたよ。でも、そのまま無視する事もできなかった」

「なら、無視するんじゃなくて、穏やかに断れば良かっただけじゃないの」


 自分で言って、ハッとした。もしも私の言葉がアドバイスとなり、今後エドガーがそういった態度で例の女の子を断りでもすれば、彼を壊す要因が一つ減ってしまう。そのため私は続けて彼に念を押した。


「でも、一度受け入れた以上、途中で投げ出すなんてそんな酷い事、許されないからね?」

「もちろん、そんな事はしない」


 即答だった。

 これまで彼を観察してきて確信した事がある。彼は馬鹿だと思う程責任感が強い。未だにこうして私を面倒見ている上に、そこに卑猥な類の下心が一切ない事が既にその証明になっている。

 下心に関しては、あの日、彼の部屋のベッドの上で卑猥な行為に誘う私の仕草に激怒した事から、彼がそういった類の下心を持ち合わせていない事が判明した。

 むしろ、私のようにそういった行為に嫌悪感を覚えている節さえある。何しろあの剣幕だ……彼が少なくとも潔癖な精神を持っている事は確かだろう。

 そこで、彼が煩悩の化身ではないとなると、私の悲願の成就の為に他に利用できそうな事といえば、そんなエドガーの精神の破滅である。芯の強そうな人間程ちょっとした事で壊れやすい者はいない。だが、やはり破滅にはそれなりの時間と原因が必要だ。

 改めて例の女の子――エドガーに責任感を植え付けてくれた――に期待すると共に感謝した。



 そこは疑う余地もなく、私の平生の世界だった。

 春の陽射しのように明るい暖かな光がさしていた。安心を与えてくれる慈悲深い緑色を緩やかな風にさざめかせる樹木の下に、一人の人物が座っている。

 あれは誰だろうと考える暇もなく、私には自然とそれが誰であるかわかった。ぼやけていて姿こそはっきり見えないが、それは確かにあの銀の鳥だった。

 いつかの私がカーヤと呼んでいた幻覚に非常にそっくりだった。それでも不信感や嫌悪感は覚えず、むしろ私の魂は安寧に包まれていた。その人物の片手の上には一枚の木の葉がちょこんと寂しそうに乗っており、彼女/彼はそれを慈しむようにもう片方の手で優しく撫でた。


 その木の葉は私だった。それを認識すると同時、その人物はカーヤと似た人物ではなくなっていた。彼女から彼に変わった。それは自然な変化だった。

 ここで傍観している私も、その人物の片手の上の私も、それに違和感を覚えずに容易に受け入れた。

 普段私が心の中で見下している対象の特徴の一つである鳶色の髪が妙にこの世界に馴染んでいた。変わらず彼は手のひらに乗せた私を優しい瞳で観察してはなだめるように撫でていた。

 それはまるで。そう、その彼の香りは、所作は、温もりは、この世界の五感を緩やかに刺激する正体は。


 ひとりの▒▒のようだった。


 彼は片手に乗せていた私を愛娘にキスをするように優しく口に含み、決して傷つけないように舌で柔らかくしてから、口の中でくるりとまるめて喉奥に流した。

 するとたちまち彼の中に入った私の視点に切り替わり、暗闇を流れるのではなく、このまま溶けても良いとさえ思わせてくれる淡い白の空間に漂っていた。

 その白はどうやら全て彼の細胞でできているようで、大量の彼の温度を感じた。そしてその温度は私の望み通り、私をじんわりとした温もりで溶かしてくれた。

 木の葉の私が消えた事で、傍観している私に視点が戻った。

 なんとそこにいるのは彼ではなく、最初に目にした彼女に戻っていた。そしていつかの幻影はこちらを見据え口を開いた。


「言ったでしょ。あんなとわたしは、おんなじなんだって」


 唐突に意識が覚醒し、それまで居座っていた世界が夢である事を自覚した。

 身体中汗で濡れていて、なんだか嫌な気分に襲われた。

 先程までの安寧がまるで嘘のようだった。いや、嘘だと信じたかった。何せ彼が夢に出てきたのだ。しかも夢の中で私は彼を歓迎し、彼に歓迎されていた。

 そんな事はたとえ夢であろうと気色が悪い。嫌な事はさっさと忘れてしまおうと思い、その日の朝はいつもより早めに朝の習慣に移った。

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