3-8 問答
結局、一睡も出来ぬまま朝を迎える事となってしまった。
昨夜見たエドガーの憎悪とも言える闇に濁った瞳と、耳に入るだけで鳥肌が立つこちらを叱りつける獰猛でいて冷淡な声。
それらが脳裏から離れなくて意識が深い闇に落ちるのを許してくれなかった。
ベットの上で、ふと、これは罰なのだろうか、なんて考えた。
これまでおよそ人間社会に生息していてはいけない類の性癖を持ちながら、それを隠しながら本物の人間のように振舞ってきた事、そしてそれを時に外界に解き放ってしまった事、そして、意味不明な思考回路の母を殺し、その罪からみすみす逃れて、次は新たな獲物を得ようと、人を騙し、利用しようと試みた事。
思い出すだけでもこれ程までに浮かび上がる、私の数多の罪。これ程の負債を抱えておいて、上手くいくと本気で思っていた自分が、今では馬鹿に滑稽で仕方がなかった。
窓の外で鳥の囀りが響き、暖かな陽気が射し込む。この光景は、今の私の状況とはまるで真反対だ、なんて微かに残った思考で思うのと同時、部屋の扉がコンコン、と叩かれた。次いで、「失礼、もう起きてるかい?」と、死神の声が耳に届いた。
死神の声に応答せずに、ぼんやりと扉の方を見やる。私は、ベッドから身を起こす事もできずに、事の成り行きを見守る事だけをした。死神は、こちらの応答が無かったにも関わらず――あるいは無かったからか――扉を少し開けて、室内に僅かに顔を覗かせた。
私と目が合うなり、死神は、私を安堵させる為に造られた丸い瞳を大きく見開き、一瞬だけ硬直したように見えた。今ではその素振り全てが造られたモノに見えてならなかった。
「なんだ、起きてたんだ」
死神は、伏し目がちに目線を下の方に逸らし、やや気まづそうにそう言った。
どこまでも狡猾な死神。そんな演技で、またも私を騙せるとでも本気で思っているのだろうか。
なんて、このように内心で馬鹿にしてみても、実際のところ追い詰められているのは私の方である事に違いはなかった。
「少し話がしたいんだ」
死神はそう口にすると、後ろめたそうに僅かに顔を扉の向こうに隠し、再度こちらへ目をやった。
どうやらこちらの反応を待っているようだ。
ならば、こちらとしては最低限の応答はしておかなければならない。「勝手に、どうぞ」それだけ私は答えた。
すると、優しそうな青年の姿をした死神は、恐る恐るといった風に、足音立てずに慎重に部屋の中へと入ってきた。そして、私の横たわるベッドの向かいの壁際に静かに腰を下ろし、やや緊張の入り交じった固い意思のこもった瞳で見つめてきた。
「昨日は悪かった」
青年は、目を合わせたままそれだけ口にした。こちらから信用を得ようという姿勢は私たちの立場が対等である事を示しているようで、訳が分からない。
私は、向こうの謝罪の言葉に応答すること無く、次の相手の出方をうかがう事にした。先程までと同じように沈黙したまま彼の両目を眺める。
それでも向こうはたじろぐことなく、再度口を開いた。
「君は自分の身を安売りする事でこれまでしのいできたのか?」
私の応答の有無関係無しに、青年は昨日聞いたものと同じ内容の問いを投げかけてきた。その声はいつになく真摯な気迫を孕んでいた。それと同時に、非難がましい色もうかがえた。
どうやら私もここまでのようだった。彼の忍耐力には折れざるを得なかった。そういえば、これまでろくに彼に勝てた覚えがないのは気のせいだろうか。そんなくだらない事を心の隅で思いながら、私は不本意ながらも口を開いた。
「そんなことは、ない。ある訳が無い」
彼への対抗心からだろうか、私の口から発せられた声はどこか強がる幼子のような不格好さを持っていた。
「じゃあ、何故昨日あのような態度をとったんだ?」
間髪入れずにエドガーは反撃してきた。
あのような、というのはおそらく、私が彼のベッドに横になり誘うような仕草をした事だろう。
今にしてみて思えば、なんて馬鹿馬鹿しい。あのような行為、気色悪くて大嫌いな筈なのに。それなのに私は自分の野望は叶うとばかり信じ込みその事しか目に見えておらず、そこに辿り着くまでの道のりを深く考えていなかった。
それは短い時間かもしれないが、自分から拷問を受けようとしていた事に変わりはない。どうせ、野望が叶うどころか拷問に耐えられずに精神崩壊をしていただろう。
何故あのような事をしたのか。それは、身勝手ながらも私本人だってわからない。故に、私はエドガーからの詰問に対し誤魔化す事にした。それがどれだけ滑稽でも、こうする他なかった。
「……あのようなって、何? いきなり抱きついたこと?」
エドガーは、私の苦し紛れの応答に、ただ不愉快そうに両目を細めただけだった。どうやら次はあちらがこちらの出方をうかがっているらしい。ならば、私はできる限りこの滑稽な悪あがきを続けねばなるまい。
「あんただって喜んでたくせに……」
その非難は自然と漏出したものだったが、うまく相手の痛いところを突いてやったという手応えがあった。
だが、エドガーはその言葉に狼狽える事なく反撃してきた。
「その事を言っているんじゃない。僕が責めているのは、君がまるで僕をふしだらな行為に誘うような仕草をした事だ! ……実際のところどうなんだ。これは僕の派手な思い込みなのか? もしもそうなら、そんな勘違いをした僕を軽蔑するがいいさ」
エドガーは、先程の冷徹な様子とは打って変わり、まるで何かに取り憑かれたかのように息を切らしながらまくしたてた。その冷静さを失った哀れな姿は怒りというよりもとてつもない悲しみに毒されているように見えた。
それ故、彼が先程よりもいくらか弱い生き物に思えてきて、僅かに解けた緊張感からおよそ彼にとって最悪な言葉で言い返してやった。
「……何それ、あんたそんなふうに私の事見てたって事? 気持ちわる」
その私の言葉により、エドガーはとうとう言葉に詰まり、表情を凍らせた。その硬直した表情は親しい人間の死体でも前にしたかのように、静かな絶望に浸されていた。まさかここまで彼を追い詰める事に成功するとは思ってはいなかった。
「……そうか。僕が、馬鹿だったよ」
エドガー青年は、憑き物と共に彼の内部に宿っていた魂までもが消失していくような伽藍堂な瞳でそうこぼした。それは私に向けた言葉というよりも、彼が自分自身に言い聞かせている独り言にも聞こえた。
そして彼は問答の末、自身の敗北を痛感したのか、「ここにいるのが嫌なら出ていってくれて構わない。もしまだ利用したいと思うなら好きに使うと良い」とだけ言い残し、部屋を後にした。
こちらの勝利で終わったものの、どこか釈然としない。
それはおそらく、彼ともう少しきちんとした話をするかと思っていたのにも関わらず、ろくな会話をしないまま半ば逃げるように立ち去られたからだろう。
私の境遇としてはそれで良いのだろうが、胸の奥で霧のように彷徨う不安めいたものが、私を平生でいさせなかった。
そこで、せめてこれからの事を告げるくらいは良いだろうと考え、未だ完全に消え去らない彼への警戒に足を固く感じながらも、居間へと向かった。
どっちにしろ朝食をとるために居間へ足を運ぶ必要があった為、私の行動に不自然な点はないだろう。そうだ、ないはずなのだ。なのに、どうして私はこんなにも緊張している?
この一種の後ろめたさのようなものは、いったい何なのだろう、どうしてこんなにも、奴を意識してしまうのか――屈辱のような感情に襲われながらも、どうにか私は居間まで足を運んだ。
「せっかくだから、まだこの家とあんたは利用させてもらうよ」
居間のソファで寝転がっていた彼に、私はそう告げた。彼は沈鬱な面持ちを僅かに綻ばせると、小さく「ああ」とだけ答えた。
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