3-6 飼い慣らし計画、困難な予感
どうせなら今晩から食事は一緒に摂ろう、と言い出したのはもちろんエドガーからだった。私は、彼の煩悩がさらに昂っていることに安堵を覚えながら彼の提案に従った。
もしかしたら彼の中では私はもう恋人のうちの一人なのかもしれない、なんていう可能性さえ芽生えるのはなんらおかしくなどないだろう。
居間のダイニングテーブルでの食事が確たるその証だ。それがというと、私が黙々と彼お手製らしき質素な料理を口に運ぶ傍ら、正面に座るエドガーの手はろくに料理を運ばず、代わりに彼の瞳が彼の強烈な意志により働かされていたのだった。
要するに、彼は食事の時間のほとんどをエネルギー補給に使うことなく、私の観察に費やしていたのだ。その彼の視線はまるで這う蛇のごとく私の全貌を舐めますように徘徊し、肌を焦がすような熱は最後まで冷めることはなかった。
昼間のレストランではエドガーを気味悪く思った私も、この時だけは、この後待ち構えているであろう展開に興奮を覚えていた。
おそらく彼は私をそういったことに自然と誘うだろう、そして私も自身の野望のために自然とそれに乗り掛かるだろう。初回では流石に、長年と鬱積していた欲望を発散するには様々な危険が身にまとうため、私は彼の慰安婦になるしかない。
何せ、彼の方はどうだか知らないし知りたくもないが、私の方はというとそういった煩悩のぶつけ合いは初めてのことなのだ。
一瞬、故郷の森小屋で不良どもに襲われかけた記憶が浮上したが、不快な気分に襲われるだけなので――その上、悪寒と共に頭痛がしそうになった――すぐに頭の奥底に追いやった。
私の胸を躍らせているのは、私の本性も思惑も何も知らない彼が、独りよがりな快楽に浸っている愚かな姿をもうじき拝見することができるという部分にある。
自分専用の慰安婦という認識対象である無害そうな少女に、本能のままに昂った心身をぶつける青年。その姿を想像すると、今後彼に待ち受ける境遇や、まんまと騙されてしまう彼の愚かさに対して、腹のどこともしれない奥が疼くのだった。
彼が私の本性を初めて知った時、彼はいったいどのような反応をするのだろうか――そう思うと瞬時に脳内たくさんに、これまで自分は利用する側だと思っていたが実際のところはされている側だったという事実に困惑、恐怖、屈辱、絶望、様々な感情が複雑に絡み合う、柔らかそうな鳶色の髪をした青年の様子がまざまざと浮かび上がった。
そんな彼に対して私はこう言い放つのだ、うつつを抜かしていたお前の落ち度に他ならない、と!
そんなふうに、自分の計画がさも本当に実現すると信じきっていた私の方が愚かだったのかもしれない。何とエドガーは、私の予想とは異なる行動をしたのだった。
いや、この場合は、何もしていないと表現した方が適切か。
夕食の後片付けが終わった後、エドガーは「せっかくだし話さないか」と言い、居間のソファに腰掛けるよう促してきた。
私は、街に出ていた時のエドガーの底知れない印象はただの思い過ごしだったことに安堵しつつ、まんざらでもないふうを装って彼の隣に腰掛けた。
まず先に口を開いたのは私からだった。いわゆる先制攻撃というやつだ。
「あのね、私が今日買った本の作者、あなたと同じ名前だったの。これ、偶然にしては少しできすぎじゃない?」
おそらく熱でのぼせあがった男女にとってはこういったただの偶然も運命かのような錯覚に陥るのだろう。
私は、照れているように声は小さく、それでも表情は柔らかく、を意識して、上目遣いで隣にいるエドガーを見やった。すると、エドガーは案の定花が咲いたような笑顔を見せた。
「ああ、そのことならもちろん知ってるよ。っていうか、僕が知らない訳がないだろう。うん、確かにこんなこと偶然にしてはあまりにもできすぎている」
エドガーは、私が思った通りの反応を示してくれた。彼は、心底大切なものに向けるような、それこそとろけたという表現がお似合いの普段より垂れ下がった瞳で私を見つめた。
そのでれっとした表情に心底気味の悪さを覚えるも、その本心を悟られないように私も精一杯微笑んで見せた。そして彼の体に軽く身を預けた。
この時、私の心の中は本来であれば嫌悪感に包まれる筈だった。だが、なぜかはわからないが、苦しみや安心が混ざったようなどこか懐かしい感覚が胸の奥で生きていた。
「あんなに楽しかったの、私初めて。ありがとう、エドガー」
私は、おそらくこの奇妙な感覚は芝居している役にのめり込めている証だと思うことにしながら、そう彼に囁いていた――自分でも無自覚で。その事実に気圧されないために、もしかしたら自分は役者の才能があるのかもしれないなんて思うことで、形容しがたい胸の苦痛から逃れようとした。
そんなふうに密かに葛藤を覚えているところで、それに応えるようにエドガーが口を開いた。
「僕もだよ。本当に久しぶりだった、あんなに幸福だったのは……」
それから数秒間、彼の言葉が続くことはなかった。初めは先程と変わらない泥酔したような口ぶりで、日中の出来事を回顧しているのかと私は解釈したが、それはどうやら違うようだった。
「……違う、ダメだ、いけないんだよ。僕なんかがこんな幸せを感じるのは……。そうだ、僕は今日いったい何をしていたんだ? ――信じられない……」
唐突に頭上から自責のように発せられた鬱蒼とした声は、つい今しがた耳にした甘っちょろいものとはかけ離れていた。加えて精神病患者めいた癖の強い言葉の羅列に私の思考は氷のように固まった。
あの展開から、いったいどうしたらこのような発言が出てくるであろう。
「……その、大丈夫?」
予想だにしていなかったエドガーの変容ぶりに困惑するも、何とか声を発することができた。すぐにでもこちらから声をかけなければ、こちらの存在などお構いなしに、彼は自分の世界へと深く潜り込んでしまいそうだったからだ。
するとそれまでどこか遠い思考の海に浮遊していたエドガーは、私の声にハッとしたのか、すぐに気を取り直した。
「ごめん。ちょっと疲れてたみたいだ。今日はもうここら辺でお開きにしよう」
「え?」
まさか、私の声かけが逆効果だったのだろうか。彼は、平生の冷静さを取り戻してしまい、私にそう告げた。
「おやすみ。そしてまた明日」
あまりの唐突な展開に追いつけず硬直しているうちに、エドガーは居間を後にした。
私は、抜け殻状態で呆けたまま、居間に取り残されることとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます