3-5 街へ
自分の中に強烈に燃えたぎる魂を覚えながら新たなターゲットの待つ住居へと帰還した。玄関の戸を開けると、早速ターゲットの姿が見えた。
入ってすぐ横にある靴置き場の掃除をしているようだった。棚を磨いていたターゲットがこちらに視線をよこすなり、私の体は強張った。
しまった、という焦燥が募る。外に出ていく前の私はショルダーバッグなど持ち出していなかった。中身が中身である故、その点を詮索されるのは非常に厄介である。
「おかえり。……あっ、もしかして落し物、見つかった?」
「え?」
エドガーの発言から一瞬間が空いてからその意味を理解できた。彼はこのショルダーバッグを、先日口にしていた探し物と解釈したらしい。
それは何よりもの好都合だ、と大きな安堵と共にその間違いを肯定した。
「うん。想定通りの場所にあったおかげですぐに戻ってくることができた」
嘘をつくときは真実と嘘を混ぜると良い、というよく聞く言葉をこの時痛く実感した。まさか彼は、この中にある物が何であるかなど想像だにしていないだろう。
ピストル自体は案外簡単に手に入るが、実際に持ち歩いている人間はそう多くない。
それからだいたい二十分くらいしてから私とエドガーは共に家を出て、街へ向かった。予定では本を買いに行くことになっていたが、あちらで昼食も済ませることとなった。
時間帯もちょうど良いことから、まずはイタリアンのレストランで腹を満たした。
私がポルチーニというキノコのソテーを注文すると、エドガーは食い気味に「キノコ、好きなのか!?」と詰問にも感じる問いを投げかけてきた。
私は、意表をつかれるエドガーの驚き様に若干引きながらも、「まあ、うん」とだけ答えた。キノコの食感や味が好きというよりも、キノコの主な生息地である森が好きなので、その忘形見であるキノコを食べると森と一体化したような晴れやかな気分になるのだった。
私がエドガーの大袈裟すぎる反応に居心地の悪さを感じる一方、エドガーは普段な冷静な印象とは打って変わって、嬉しそうに自分の分の料理を注文していた。店員が去ると、ますます私はどうすれば良いかわからなくなった。
なにしろエドガーは、私に話しかけるでもなく、喜びをたたえた笑顔でこちらを見つめるだけなのだ。気味が悪いにも程がある。
これまでの生涯において、間近でこれほどの好意めいた謎の感情を向けられたのは初めてのような気もしたので余計私を狼狽させた。
ただ、その輝く瞳は、眼前の私に向けられているものではないようにも見えた。まるで白昼夢に魅入る世捨て人めいていたのである。
しばらくして料理が運ばれてきた。エドガーの料理に目線を配るなり拍子抜けさせられた。なんと、あれだけ私のキノコチョイスに驚きと喜びを覚えていたくせに、当の本人の料理にはキノコらしき食材が見当たらなかったのである。
「キノコ……好きじゃないの?」
私は残念な気持ちからそう尋ねた。哀れにも、お互いの立場が先程と逆転していることにまではこの時気が付かなかった。オーバーリアクションの末の壮絶な裏切りに対する煮えたぎる感情が存在していたからだ。
私は前後の言動に一貫性のない人間が大嫌いな性分故に余計エドガーに対する怒りが生じてしまったのだろう。そのためエドガーの返答もほとんど耳に入ってこなかった。
「キノコという存在は好きだけど、食べるとなると少し違うんだよ。知ってるかい? キノコって、絵として描く場合は破格の描きやすさを誇るんだ。なにしろ、輪郭がはっきりしていて陰影がつけやすいからね。結構脳のトレーニングにもなるんだよ。もしあんまりキノコを描いたことがないなら是非ともおすすめするよ。何なら家に帰ったら僕が簡単に教えてあげよう! ……と、ごめん、話が脱線してしまったね。要するに、僕が好きなキノコは食べるためのキノコではなく、その形状なんだ」
「ふーん」
これまで以上に饒舌になる目の前のキノコマニアに、より一層軽蔑の念が募った。
まさかキノコでここまで興奮できる人間がこの世に存在するとは思いもよらなかったのだ。
それからも度々向こうから何かしらの話題を振ってきたので、適当に相槌を打って場を凌いだ。あれから一方通行なキノコ語りが一度も発生しなかったことは不幸中の幸いと言えるだろう。
レストランを後にした私とキノコマニアは、石畳の連なる大通りを歩き、キノコマニアの提案通り旧市街へと向かった。
予想通り旧市街は人で賑わっていた。大量の人、人、人……そう認識しただけで吐き気が込み上げてくる。なるべく周囲を見ないよう私は俯きがちに歩いた。
それがいけなかったのだろう、誰かと肩が衝突してしまった。私は何気なく相手の方を見やった。
向こうも直感に駆られたように、こちらにちらと視線をやった。その碧眼は私の全身に電流を流すには事足りる力を持っていた。
「待って、あんた……」
交差した視線の先にある形の良い唇が動いた。彼女も私もその場に立ち止まり、お互いを見つめる。本来なら三秒にも満たないであろうにも関わらず、それくらいかそれ以上に感じる長い時間が経った後、その睨み合いを妨害する野蛮な声が響いた。
「おいおまえ、前にホルテに喧嘩売ってきた女じゃねぇか! ここでもまたやりやがるのか!」
「……喧嘩を売ってきてるのは、あんたでしょ」
私は、ホルテと呼ばれる少女から視線を移し、以前青年を脅迫していた取り巻き男の一人であろう人物を見て言った。
いい加減、主人は責任を持って犬を再教育すべきだ。犬のでしゃばりのおかげで全身を縛っていた緊張が僅かに解けた。
が、その瞬間、少女たちがいるのとは反対側の方、つまりはエドガーのいる方の腕がぐいと引っ張られた。
「……何よ、この期に及んで逃げるつもり?」
少女の言葉が終わるより先に、エドガーが私を連中とは反対方向に引っ張っていった。意外にも少女は追いかけてくる素振りはなく、むしろ追尾しようとする身勝手な犬どもを牽制した。
私はエドガーの方を振り向くことなく、少女から目線を離せないでいた。それは畏怖のせいなのか、それともこのまま背を向けるのは彼女に申し訳が立たないと感じているからなのか、自分でもよく分からなかった。
犬どもの追尾を止めさせることから、彼女は私との問題に他者の干渉を許したくないのだろうか、なんて一瞬思ったが、それならば私を助けるエドガーのことも放ってはおけないはずだ。
すると案の定、彼女は海のように美しい碧眼を侮蔑の念で滲ませ、私の腕を掴む人物に向かい嘲笑した。
「悪いけど、これは私たちの問題だから男は無遠慮に入ってこないでくれる?」
それは、お前みたいな男には何もできない、とでも言いたげな空気を纏った言葉だった。エドガーは、それを無視して私をさらに引っ張っていく。「ふん、図々しい男ったらありゃしないわね」その台詞を最後に少女は人混みに紛れて見えなくなった。
しばらくエドガーは無言で私を連れて行っていたが、ちらと背後を窺い後をつけられていないことを確認すると、重々しく口を開いた。
「ああいう連中とは関わらない方がいい。どういう目にあうか知ったものじゃないぞ」
歩道の脇で立ち止まり、エドガーは昼食の時とは打って変わった真剣な表情で、私を見下ろした。
「君たちの間に何があったのかは知らないし、ズケズケと割って入ろうとも考えてはいない……けど、危険そうな状況から守るのはさすがに許してくれ」
私は、俯いて何も言い返すことができなかった。それは、私の背中を未だに撫でるエドガーの手が何かを求めてやまない私の魂までをも触れて、そのぞくりとした感触に本能めいたものが反応したからだった。
この瞬間、ある意味で私は恐ろしかった。この恐怖はエドガーに対してではない。私でさえ知りえない自分の奥底に眠る神秘を感知してしまったかのような背徳感で心身を浸されたのである。
「アンナ……?」
エドガーの呼び声により再度現実へ引き戻される。私は虚空へやっていた視線を恐る恐る彼の顔に向けた。そこには、先ほどよりも深刻そうに表情を曇らせる彼があった。
そんな彼に対して怯える要素など微塵もありはしない。それなのに、心のどこかで私は彼には勝つことのできないような恐怖を覚えている。
つい先程までは見下していた相手が、今では、籠に囚われた貧弱な小鳥を見張る監守のようなプレッシャーを放っているような気がしてならなかった。
「ごめん、考え事してた。あんまり深刻に捉えなくていい」
私は、虚勢を張ってそう答える。
すると、エドガーは、私の心中を僅かにでも察したのか――それはこちらにとっては非常に厄介なのだが――気分を切り替えようと提案してきた。
それは当たり障りのないもので、本来の目的である書店へ赴こうというものだった。
エドガーは、好きなものを眺めているだけでも気分は晴れるだろう、と慰めのような言葉を口にした。実際、それは慰めだったのだろう。
けれどもその彼の誘導するような力は、傷心している目の前の少女を想ってのことというよりも、自分の野心のために働いているようにも見えた。
どうやら、エドガーの案内先である書店はここから歩いてすぐの商店街に並んでいるそうだった。
目的値に到着するなり、エドガーは、たどたどしい調子で「どんなのが欲しいかっていうのはもう決まっているんだっけ?」と問いを投げかけてきた。
私は、「うん。結構有名な作者だし、ここに置いてあると思う。探してくるね」と返答した後、それっぽいコーナーを探す。
すると、ほんのわずか歩を進めた矢先後ろからエドガーに右肩を掴まれたかと思うと、彼はそのまま私の前にやってきた。
「僕以前ここに来たことあるから、案内するよ。っていっても随分と前のことだから、うろ覚えだけどね」
確かに、目当ての場所に覚えのある人物に案内してもらった方が早い。だがなるべくこの男と一緒にいたくはなかった。それでも私は最善と取れる選択に自分を納得させ、エドガーに案内をお願いした。
聞くところによると、なんでも男というのは頼りにされることにより自尊心が高まるというではないか。ならば、そうさせた相手に対する好感度も向上するに違いない。これでまた一歩、計画が進んだ。
案内といっても、店内はさして広くなく、こぢんまりとした空間にひたすら本が並べられているといった、古き良き書店といったところか。
先程の発言通り、エドガーはちらちら店内を見渡しながら時にはコーナーを間違えながら(あるいは配置が変更されていたのかもしれないが)、なんとか目当てらしきコーナーへと到着した。
幸い私の目当ての本はすぐに見つかった。だが生憎にも、書棚の最上列に並べられていたため私の決して高いとは言えない身長では届かなかった。
それを見かねたエドガーは、背伸びすることもなくヒョイとその本を手に取ってみせ、ごく自然に私に手渡した。
若干屈辱を覚えながらも、私は礼を口にする。
「なんてことはないよ。それにしても、最近鳥、流行ってるね」
エドガーは妙なことを口にした。とは言い、世間から遠ざかっている私が近頃の流行に対して点で思い当たらないのはおかしなことではないだろう。
「そうなの? ていうかそもそも鳥に流行りも何もあるの?」
娯楽やファッションならともかく、まさか特定の種族が流行対象になるなど珍しいような気がして、私はそう言った。
「え? っていうことは、君は純粋に鳥が好きでその本を?」
エドガーが言っているのはつい先程彼の手によって私の手に渡されたこの本のことだろう。確かに私が選んだこの文庫本の表紙には一羽の鳥が描かれている。
夕焼けを連想させる緋色の背景に、折れた白い翼を悲しむように空を見上げる小鳥のイラスト。その悲壮感漂う絵から、この短編集には私が幼い頃大好きだったあの童話が含まれていることがわかる。これではむしろあのエピソードが主役だと言わんばかりである。
あの暗い童話が意外にも人気だった事実に少々驚かされた。ちなみに私がこの本を選んだ理由は、例の童話の作者の他の作品をまだあまり読んだことが無かったからである。
「鳥が好きっていうのはあるけど、この作者目当てで選んだ。流行とかそういうのには元から興味ない」
「あぁ、流行って言っても最近の僕の周囲だけのごく小さな世界の話だから。……そうなんだ。やっぱり君はその人が好きなんだな」
やけにエドガーが感慨深げにそう言うものだから、私は少しカチンときた。
たった最近初めて出会ったばかりの他人に、わかったような口をきかれたくなかった。私が芝居することを放棄した棒読みの声で「まあね」とだけ口にしてレジへ向かおうと足の向きを変えたら、彼は、平然と「アンジェらしいな」と口にした。
格好つけているつもりなのだろうが、名前の言い間違いをしている時点で失格である。しかも本人ときたら、それに気づきもせずに「僕が奢るから」なんて言うものだから、その厚かましさがなんとも腹立たしい。
私は、自分の好きなものほど自分のお金で手に入れたい性分なのだが、ここはこれからの計画のためにも彼のご機嫌をとることにした。
会計を済ませ、チラと表紙を見やった時に、衝撃的な事実を思い出した。そういえば、この作品の著者の名前は、何食わぬ顔して隣に並んで歩いている彼と同じだったんだった。
著者目当てで購入し、かつ、エドガーという青年を飼い慣らそうと企んでいるにも関わらず、この瞬間までこの事を完全に忘れ去っていた。
この事実を知った当時は思い至らなかったものの、この要素は彼を良い気にさせる大きな要素になり得るだろう。その幸運にほくそ笑む自分がいた。私の悲願のためにも、利用できるものはなんでも利用しなければならない。
エドガーにこの奇跡的な一致を報告しようと顔を上げるも、口を先に開いたのは向こうだった。
「少し休憩していこう。ちょうど街の中央にベンチがあるんだ」
まだこの男はデートごっこに付き合わせる気なのか、と怒りを通り越して呆れかけるも、ここもエドガーのご機嫌取りのために不満は押し殺すこととなった。
中央広場へ着くなり、私とエドガーは同じベンチに腰を下ろした。極力横にいるおじゃま虫に話しかけられないように、即座に先程買った文庫本を読み始める。
だが意外にも、彼は私に話しかけてくることはなかった。思い返してみればエドガーの家にはいくらか本があった。このことから、彼も読書を嗜む習慣があるということが想像できる。
もし彼がそういった類の人間であるならば、読書中に話しかけるということがどれほど無神経な行為か弁えているはずだ。その点において嫌でも親近感が湧いてしまうのが憎らしい。
なるべく隣にいる人間のことは意識しないように注意深く活字に目を走らせる。と、その最中、すぐ横からカシャっという場違いな音が聞こえた。
その音のした方向、すなわちエドガーの方を振り向くと、彼はあろうことかカメラを私に向けてほくそ笑んでいた。
まもなく、じじじっと布が派手に擦れるような機械音と共に、一枚の紙切れがカメラの下から出ていった。エドガーは、それを手にして「よく撮れてるよ」と私に見せつけた。それは紛れもなく、夢中に読書に耽るつい先程までの私の横顔だった。
私は、先程彼に初めて覚えた共感がまがいものであったことに感謝した。
「ねぇ、そんなのいつ誰が撮って良いって許可したっけ?」
私は、気づけば笑顔の仮面を貼り付けたままエドガーに威圧を放っていた。それに対してエドガーは、全く悪びれる様子もなく「良いものをありがとう」と一方的な礼を述べて写真を胸元のポケットにしまった。
「なあんて、冗談だよ。それくらい、いくら撮られたってかまわないし」
私は、先程の不始末を誤魔化すためになんとか取り繕った。
事を円滑に進めるためにも、ここで喧嘩して台無しにしてはならない。エドガーは、それきりカメラを取り出すことはなく、代わりに胸ポケットから私の写真を取り出し、ただぼんやりとした様子でそれを眺めているだけだった。それは紛れもなく気味の悪い光景だった。
休憩という名のエドガーによるイタズラコーナーはそう長い時間続くことなく幕を下ろした。そろそろ良いかな、と私から帰還を促したのだ。
ここでずっと本を読み耽っていても、隣にいる人間の時間を考えない自分勝手なやつだと思われるかもしれないので、念のためだ。
私が一刻も早く帰還したがっていることを察せさせないためにも、それから向こうをその気にさせるためにも、エドガーの両手を握って上目がちに「今日は私なんかのためにありがとう。楽しかった」と声を絞り出した。
実際、ここまでの演技は生まれて初めてするので緊張のあまり自然と上目がちに、声は小さめになった。
私が渾身の芝居に全身を強張らせる中、エドガーは、予想とは違った反応を見せた。てっきり彼はまんざらでもなく私の嘘の好意を受け入れるかと思ったが、なぜか彼はあっけにとられているのである。
その何を考えているのか分からない瞳は虚空を見やり、何か返事をしようとしたのか僅かに開かれた口からは何も発せられることはない。
私は、そんな彼の様子がひどく不気味に思えて、思わず「エドガー……?」と素の調子で不安から彼に問いかけた。
すると彼は、その私の呼びかけにハッとしたのか、どこかへやっていた意識をここに戻って来させた。そしてまるで何事もなかったかのように、「こっちこそ。また何か用事ができたら、一緒に来よう」と朗らかに返答した。
帰路では街へ向かう際とは相反して、エドガーは一言も口を開かなかった。それをさほど妙とも思わなかった。なぜならこの青年の様子が少しおかしく感じるのは今に始まったことではないからだ。
黄昏に沈む太陽を背に私たち二人は林道を歩いた。その間に響く音は鳥の囀りだけだった。本来ならば心地よく全身に染み渡るその音色も、隣を歩く変人のせいで心を落ち着かせることがかなわなかった。
何より、来たる刻は刻一刻と迫っている。エドガーが私の想像していたよりもつかみどころのない人物であったことは、大きな勇気への毒以外の何物でもなく、今朝から緊張で張り詰めていた体はより一層不安という名の重たい鎧をその身に纏った。
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