第5話

(私ついていくべきだったかな?)


霧の向こうにゆっくりと消えていくレイの背を見て人知れずつま先がそわそわと踊っていた……その時だった。


 霧の奥から、ひとりの影が音もなく近づいてくる。光沢のある黒のスーツに、濃紺のネクタイ。まるで営業マンのようなその姿が、すっとカナエの横に立った。


「危なかったですね」


滑らかな声だった。

男は微笑みをたたえたまま、レイが消えた方角を見ていた。


『今度はまた誰?』という警戒を込めて見上げたカナエに、男は丁寧に一礼する。


「申し遅れました。私こういう者です」


 すっと差し出された名刺。そこにはエレガントな書体でこう書かれていた。


 Malebranche~Priorities for Infernion L.C.C~ GM Farfarello


「……地獄の住民の優先順位合同会社?」


「ええ、ゼネラルマネージャーのファルファレロです」


はあ、と優美な書体を欠けた指先でなぞる。


「我々は“地獄に来てしまった無知な方々”に、正しい選択肢を提供する、いわば福祉的な活動をしている団体です」


「福祉……」


「お気を悪くなさらず。あなたのような方が地獄にいるなんて、まったくもって嘆かわしいことです」


まっすぐな眼差し。カナエは、つい視線を逸らす。


「……そ、そうですよね。私、何かの間違いで」


「ええ、きっとそうでしょ」グーゥッ「うとも」


割り込んできたカナエの腹の音。

全身の隙間から桃色の湯気を湧き上がらせて顔を紅潮させるカナエ。


「……」


 ファルファレロは咳払いをして言った。


「もしよろしければ、手続きの間、我が社にいらっしゃいませんか? ちょうど社員食堂も開いておりますし」


「いや、その……でも、私まだ何もわかってないし……」


「無理にとは申しません。ただ、空腹では正しい判断もできませんからね」


 言葉に迷うカナエを、ファルファレロはもう一度だけ見てから身を翻す。


「では、気が変わったらいつでも」


 彼の背中が去ろうとした、その時。


「あの」


「はい?」


「け、見学だけでもできますか?」


彼の目が細くなる。柔らかく、だがどこかで爬虫類を思わせる微笑み。


「もちろん可能ですよ。ついでに社食も召し上がってください」


「そんな、何もそこまで」


「空腹では冷静な判断はできません。私は、弱っている相手に漬け込みたくないんです」


 言われて、少しだけ気が抜けたようにカナエはうなずいた。


「……わかりました」


「では……」


歩き出そうとしたファルファレロは、ふいに立ち止まり、思い出したように振り向いた。


「すみません、なんとお呼びしたら?」


「鳴海カナエです」


「……な、な、ナル……」


 口の中で繰り返していたが、どうやら日本語がうまく出てこないらしい。


ファルファレロは、懐から細長い紙とペンを取り出し、丁寧に差し出した。


「よろしければ、こちらに書いていただけますか? あと、可能であれば身長と服のサイズも」


「え?」


「我々としても目のやり場に困りますので。社員の制服でよければ、準備します」


「ああ、すみません……」


「いいえ、こちらこそ。デリカシーがなくて申し訳ない」


 カナエは少し照れたように笑い、紙を受け取る。


「……じゃあ、書きますね。鳴海カナエ……ん?」


 ふと紙を見て、目を瞬かせた。


————————————————————

⟪ สัญญาผูกมัดแห่งนรก ⟫

ข้อ ๗.๓: ผู้ทำสัญญาจะถูกจำกัดสิทธิในการปลดปล่อยตัวเองโดยไม่จำเป็นต้องได้รับความยินยอมจากฝ่ายตรงข้าม


КЛАУЗУЛА 9.4:

В случае трансфера души, прежняя личность считается недействительной.


المادة ١٢:

لا يمكن الطعن في الشروط بعد التوقيع، سواء بالوعي أو بدونه.


Пункт 11.2

Контрактор обязан регулярно реагировать на структурные корректировки.


§13.1:

Infernion L.L.C. may utilize contractee’s existential fragments in metaphysical experimentation.


المادة ١٥.١

لا يحق للطرف الثاني الطعن في أي بند من بنود العقد. لا وجود لحق الإلغاء.



Пункт 19.2

Физическая структура может быть перестроена без предварительного уведомления.


ヨミガナ_________

名前__________

身長_____

サイズ(___/___/___/)


————————————————————


とこんな具合である。


「……なんですか、これ?」


怪訝そうに眉を顰めるカナエ。


「うちの社の方針で、裏紙をメモ帳にしてるんです」


「へ、へぇ、エコなんですね」


「地獄なのに変ですよね」


と照れくさそうな顔で、渡しそびれたペンをいじらしく回す。


「同僚も言うんです、変だって、でもこういう誰もみていないところでの積み重ねをなんとなくおろそかにしたくなくて」


男の困っている横顔を見、言葉を聞いているうちに職場の自分の影がちらついた。


上司の作った契約書を人知れずシュレッダーにかけて訂正して差し替えた自分の後ろ姿。


カナエは男の握っているペンを掴んだ。



「いえ、私は好きです。そういうの」


 男は笑顔でペンを差し出した。


「よかった。では、ここで長話もなんですし、道すがら少し我が社についてお話しましょうか、カナエさん」


「え、あ……はい、でも字が汚く」


「読めればいいんですよ」


少し戸惑いながらも、カナエは先行く男の隣でサイズと名前を記入する。

~~~~~~~~~~

[でもこういう誰もみていないところでの積み重ねを]

~~~~~~~~~~


という先ほどの男のセリフを気にする暇もないままに、カナエたちはゆっくりと霧の中を歩き出す。

ファルファレロのスーツの裾の奥から、細く長い悪魔然とした尻尾が、蛇のようにゆらりと揺れていたが――カナエはそれに、まだ気づいていない

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る