第2話 名前をくれた人たち
朝の光は、昨日より少しだけやわらかく感じられた。
目を開けると、薄い毛布の端が頬に当たっていた。
鼻の奥に残るのは、干し草のにおいと、どこか懐かしい朝の匂い。
小さな部屋。古い梁。ざらついた床。
そして、台所からはパンを焼く匂いが漂ってきていた。
ああ、ここは──“家”なんだ。
まだ、そう呼ぶには少しだけ勇気がいるけれど。
それでも、昨日より今日のほうが、少しだけ近づけた気がした。
心に、じんわりと滲む温度。
この場所の空気が、まだ脆い自分をそっと包んでくれるようで。
「おはよう、リク。よく眠れたかい?」
キッチンに立つミレナさんが、僕に気づいて微笑んだ。
肩には布巾をかけ、手には焼きたてのパンが乗った木皿。
「うん。……すごく、ぐっすり」
「それはよかった。さ、食べなさい。今日はお客さんが来るよ」
「お客さん……?」
「村の子たち。朝のうちに、畑の向こうに集まって遊ぶのが日課なの。挨拶しておいでな」
パンは温かくて、表面はかりっとしていて、中はふわふわだった。
ひと口噛むたびに、胃の奥から力が湧いてくるような気がする。
昔は食事なんて、ただ体を保つための作業だった。
だけど今は違う。
誰かが手間をかけてくれたという事実が、こんなにも心を満たしてくれるなんて。
──これは、命の味だ。
そう思えた瞬間、思わずひとつ息を吐いた。
食後、外に出ると朝露がまだ草に残っていた。
ガルドさんはもう畑に出ていて、無言で水桶を運んでいた。
目が合うと、少しだけあごを動かす。それが“おはよう”の代わり。
──言葉がなくても、通じる。
そんな空気が、むしろ心地よかった。
「行ってこい、子どもは外で遊んでこそだ」
畑越しにガルドさんがぽつりと言った。
僕はうなずいて、小道を抜けて丘の向こうへと歩いていった。
──少し緊張していた。
仲間の輪に入ること。
自分が“何者なのか”を説明できないまま、その中に立つこと。
昨日まで名前すらなかった僕が、今日、誰かと関わる。
それがこんなにも、胸をざわつかせるものだとは思わなかった。
小さな丘を越えると、広場のような空間が広がっていた。
そこに、五人ほどの子どもたちが集まっていた。
年はまちまちで、年下もいれば同じくらいの子もいた。
ひとりの男の子がこちらに気づき、駆け寄ってくる。
「おーい、見ない顔だな。新入りか?」
「……うん。昨日から、あの家に」
「ああ、ミレナばあちゃんち? そっか、じゃあよろしくな!」
男の子は手を差し出してきた。指には泥がついている。
「オレ、ユウ。こっちはハル、ソナ、セグ……」
セグ──名前を聞いた瞬間、僕は少しだけ胸がざわついた。
その名前は、ミレナさんが昨日ぽつりとこぼした言葉と重なる。
──「あの子が病気になって、泣きながら看病した家族がいた」
あの時、僕は初めて“守ることの重さ”を知った気がした。
「……リク、です」
名乗ると、ユウはうんうんと頷いて、
「よし、リク! 今日から仲間だ!」
それだけで、輪の中に入れてくれた。
──でも、すぐに気づく。
僕は、少しだけ“他の子と違う”。
土の投げ合いも、かけっこも、何もかもが久しぶりすぎて、ぎこちなくなる。
皆の笑い声の中で、どこか一歩だけ後ろを歩いているような感覚。
セグという少年は、無口だった。
その表情はどこか儚げで、どこかで見たような目をしていた。
誰かを失ったことがある人間の、それに似ていた。
ふいに、ソナという女の子が声を上げた。
「あ、リクくん、草まみれ!」
「えっ」
足元を見れば、泥にまみれたズボン。
その瞬間、皆が笑う──悪意のない、でもまっすぐな笑い。
恥ずかしさと照れと、少しだけの痛みが混ざって、うつむいてしまいそうになる。
でも──そのとき。
「……大丈夫。こけてないし」
ぽそりと、セグが言った。
皆が一瞬しんとなる。
その空気に、なぜか笑いが生まれた。
「そっか、じゃあセーフだな!」
ユウがそう言って、皆がまた笑った。
──なんだろう、この感じは。
失敗しても責められないこと。
何もできなくても、笑って受け入れてもらえること。
たぶん、前の世界では、一度も感じたことがなかった。
こんな風に、自分が誰かと並んで笑えるなんて──。
夕方、家に戻ると、ミレナさんが薪をくべながら言った。
「どうだった? 子どもたちと」
「……楽しかった」
「よかった。リクが笑ってるの、ちゃんと見えたからね」
言われて、初めて自分が笑っていたことに気づいた。
その夜、眠る前。
天井を見上げながら、思った。
名前をくれた人がいて、声をかけてくれた人がいて、笑ってくれる仲間がいる。
それはきっと、戦っていたころの僕が、何よりも欲しかったものだった。
だから、今はまだ戸惑っていても、
いつか本当に、この場所を“家”と呼べるようになれたらいい。
そしていつか──
この世界では、誰かの力になれるような自分になれたら。
眠りに落ちる直前、小さく呟いた。
「ありがとう、“リク”って呼んでくれて」
次の日も、そのまた次の日も、村の子たちは変わらず広場に集まっていた。
誰が強いとか、速いとか、そんなことはどうでもよくて──
ただ一緒に走り、笑い、転んで、また笑っていた。
その輪の中に、リクもいた。
まだうまくなじめているとは言えなかったけれど、少なくともそこに居場所はあった。
それだけで、十分すぎるほどだった。
そんなある日のことだった。
遊びの途中、セグの足元がふらりと揺れた。
誰も気づかなかったが、リクはその小さな変化に気づいていた。
「……セグ、大丈夫?」
声をかけると、セグはいつものように小さくうなずいた。
だが、次の瞬間──
セグの身体が、ばたりと前のめりに倒れた。
「……セグ!?」
驚いたユウたちが駆け寄る。
リクも慌ててセグを抱き起こす。体は熱く、頬は赤い。
浅く息をしていて、額には汗がにじんでいた。
「病気かもしれない……!」
「急いで運ぼう!」
皆で担いで、村の診療所へと向かう。
リクはセグの細い肩を支えながら、必死に心の中で呼びかけていた。
──やめてくれ、誰かが消えるのなんて、もう嫌だ。
目の前で、誰かが壊れていく感覚。
前の世界で何度も味わった、どうしようもない無力さ。
その記憶が、心の奥底からじわじわと滲み出してくる。
診療所の小さな部屋で、セグは簡易ベッドに寝かされた。
駆けつけた医師が、優しく言った。
「高熱だけど、大丈夫。数日寝ていれば回復するよ」
その言葉を聞いて、皆がほっと息をつく。
けれど、リクだけはベッドの傍を離れられなかった。
「……ついててあげてもいい?」
医師はうなずいた。
「もちろん。家族じゃないのかい?」
家族──
その響きに、リクの胸の奥が少しだけ痛んだ。
僕は、セグの何なんだろう。
名前を呼ぶ関係。隣にいる関係。
それだけでも“何か”になれるんだろうか。
それでも、椅子を引き寄せて、リクはセグの横に座った。
ミレナさんに届け物を頼まれたユウが部屋を離れ、しばらくして二人きりになった。
眠っているセグの手を、そっと握る。
細く、弱い指だった。
「……ごめん。何もできないのに、隣にいて」
そう呟いたとき、不意にセグのまぶたが震えた。
「……できてるよ」
声はかすれていたけれど、確かにそう聞こえた。
リクは驚いて顔を上げる。
セグは目を閉じたまま、もう一度つぶやいた。
「……隣にいてくれて、あったかいから……」
涙が出そうだった。
でもそれは、悲しさじゃなかった。
──ああ、そうか。
魔力も剣もない自分にできること。
“何もできない”と思っていた自分に、最初からできていたこと。
隣にいること。
名前を呼ぶこと。
笑い合うこと。
それが、誰かにとって“助け”になることだってあるんだ。
それだけで、十分だったのかもしれない。
数日後、セグは回復し、またいつものように広場に戻ってきた。
相変わらず無口だったけれど、リクと目が合うと、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
それだけで、通じた気がした。
夜。ミレナさんが薪を割る音を聞きながら、リクはぽつりと呟いた。
「……“できること”って、なんだろうって思ってたんです」
「ふうん?」
「僕には、力もないし……魔法もないし……でも、となりにいることが、意味になるって初めて知ったんです」
ミレナさんは、その手を止めた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「それはね、リク。すごく大事なことだよ」
「……大事?」
「大事さ。隣にいることって、すごく強い力なんだよ。
だって、誰かの不安に、一緒に揺れてくれるってことだから」
そう言って、ミレナさんは目を細めた。
「家族って、そういうもんさ。力じゃない。そばにいること、思ってること、それが“守る”ってことなのよ」
その言葉は、胸の奥深くに染み込んでいった。
布団にくるまり、リクは今日一日のことを反芻する。
セグの熱い手。かすれた声。笑ってくれた仲間たち。
思い返せば、僕はずっと“誰かの役に立ちたかった”んだ。
選ばれて、力をもらって、それで何かを守ろうとして。
でも、力を失った今のほうが──誰かの隣にいられる自分のほうが、
ずっと、あたたかくて、確かに生きている気がする。
「……よかった。リクで」
小さく呟いたその言葉は、枕に染み込むように消えていった。
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