祝福されなかった勇者は、二度目の世界で家族を選ぶ

菊成朔

第1話 祝福されなかった勇者の、最後の夜


──この世界は、祝福されなかった者に、名も、居場所も、残さなかった。


 


朝が来ることもなく、夜が終わることもなかった。


光と闇が混ざり合い、空も地も、すべての輪郭が壊れていく中で。


そのただ中に、ひとりの少年が立っていた。


 


名を呼ばれることもなく、英雄と讃えられることもなかった者。


誰よりも早く剣を取り、誰よりも深く絶望を知った者。


──それでも、最後まで“誰かのために”立ち続けた者。


 


だが、彼の名は歴史には残らない。


伝説に刻まれることもなく、救いの物語にも登場しない。


だからこそ、これは記録でも讃歌でもない。


ただひとつの──祈りの物語。


 


たとえ、誰にも見つけてもらえなくても。


たとえ、もう何も残っていなくても。


 


“その少年が、確かに生きた”という証を。


 


 


──祝福されなかった者には、生き残る理由すら与えられない。

 ──それが、この世界の終わり方だった。



 


 空は砕け、地は割れ、あらゆる影が街を飲み込んでいく。

 神殿は崩れ、悲鳴はもう聞こえない。

 誰も戦ってなどいなかった。

 ただ、終焉の音だけが響いていた。


 


 その中心に、少年が立っていた。

 剣は折れ、盾は砕け、血に染まったローブが風に揺れている。

 それでも彼は、前を見据えたまま、静かに一歩を踏み出した。


 


 ──だが、もはや敵すら、いなかった。


 


「……そっか。僕の出番は、もう……終わってたんだね」


 


 少年──リオは、ぽつりと呟いた。

 本当は、とっくにわかっていた。

 最初から、何かがずれていたのだ。


 


 《蘇りの記憶(リバース・エコー)》──

 彼に与えられた唯一のスキルは、死の直前に一度だけ蘇る力だった。

 戦うための力ではなく、託すための記憶だった。


 


 仲間たちは離れ、王都は新たな勇者を召喚した。

 その“第二の勇者”は、すべてを救った。

 ──リオ以外の、すべてを。


 


 それでも彼は、この戦場に残った。

 誰かのために。何かを守るために。


 


 そして今、彼の世界は終わろうとしている。


 


 裂けた空の先に、“彼”がいた。

 銀の鎧に身を包み、剣を掲げ、眩い光を纏っている。

 リオがなれなかった、本物の“勇者”。


 


 ──世界は、光に包まれていく。


 


「ありがとう」


 


 届くはずもないその言葉を、リオは微笑んで呟いた。

 この世界を、救ってくれて。


 


「次は……戦わなくていい。誰にも選ばれなくていい。

 ただ、優しい世界で──生きたい」


 


 その祈りが空へと放たれた瞬間──


 


《スキル発動確認──《蘇りの記憶(リバース・エコー)》

 転移対象:魂/座標指定:任意次元領域

 記憶統合:一部選択可》


 


 淡い光が、彼の体を包み込む。

 世界が遠ざかっていく中、最後に聞こえたのは──誰かの、小さな笑い声だった。




 ***


 


 鼻をつく藁の匂いと、乾いた木の床の感触。


「……あれ?」


 リオ──いや、“リオ”だったはずの少年は、身体をゆっくりと起こした。

 天井が低い。四方は木材で囲まれ、古びた農具が隅に立てかけられている。


 どう見ても、納屋だ。


 顔を上げた瞬間、突風が吹き抜けてきて、扉が音を立てた。

 そのすき間から、かすかに光が差し込む。

 朝だった。


 喉が渇いていた。体もだるい。けれど、不思議なほど心が静かだった。


「……転生、したんだ」


 確信だった。

 体は小さくなっている。10歳くらいだろうか。

 魔力の気配も──ない。

 スキルの残滓すら、何も感じられなかった。


 リオではない。名前すら、今はない。


 でもそれが、何より嬉しかった。


 戦場も、使命も、誰かの期待も──全部、ここにはない。


 ただ、風が吹き抜ける音と、朝の光だけがそこにあった。


「ありがとう……」


 誰にともなく、そう呟いた。


 そして、納屋の扉が静かに開いた。


 ぎぃ、と軋む音の向こうに立っていたのは、ひとりの老婆だった。

 背は丸く、小柄で、分厚いエプロンを着けている。

 彼女は一瞬きょとんとした顔をし、そして優しく微笑んだ。


「……あんた、名前は?」


 ──名前。


 ああ、そうだ。僕にはもう、リオという名すら残っていない。


「……ない、です」


 少年は答えた。

 すると老婆は、うんうんと頷いて、こう言った。


「なら、今日から“リク”でどう?」


 そうして、“リク”という新しい名前が生まれた。


 この世界で、何者でもない僕が、“誰か”として生きるための、最初の音だった。



「リク、ね……」


 声に出してみると、それは思っていたよりもしっくりと馴染んだ。

 どこかで聞いたような音の並び。でも、確かにこれは、今の僕の名前だ。


 老婆はにこにこしながら、身をかがめて手を差し出してきた。

 その掌は分厚く、ところどころに土がついている。

 長年、畑仕事をしてきた人の手だった。


「さ、立てるかい? ごはんにしよう」


 あたたかな声だった。まるで何も特別なことではないように、僕の存在を受け入れてくれている。


 僕は、その手を取った。


 細い指が、しっかりと僕の指を包んだ。

 そのぬくもりに、思わず胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 


 外に出ると、朝の光が世界を満たしていた。

 木々の葉が揺れている。遠くで鳥が鳴いている。

 どこかで水車の音がして、土の道には昨日の雨の跡が残っていた。


「ばあさん、その子……?」


 声をかけてきたのは、納屋の横で腰をかがめていた老人だった。

 髭は白く、頬はやせているが、背筋はまっすぐだった。


「うん。納屋で倒れてたんだってさ。たぶん、旅の途中で行き倒れたんだろうよ」


 老婆がそう答えると、老人は僕を見て、ひとつだけ頷いた。


「元気ならいい」


 それだけ言って、再び畑に目を向けた。


 会話はそれで終わった。

 不思議と、それ以上は何も必要ないように感じた。


 


 屋根の低い家に入ると、木の床に座布団が並んでいた。

 囲炉裏の上では鍋がぐつぐつと煮えていて、あまい匂いが鼻をくすぐった。


「ほれ、食べな。昨晩の残りだけど、温め直してあるよ」


 老婆は皿に白いスープをよそい、焼いた芋とパンを添えてくれた。

 それを見ただけで、喉の奥が熱くなった。


 ああ……これは、前の世界にはなかったものだ。


 誰かが、自分のために用意してくれた食事。

 誰の命も懸かっていなくて、勝敗も宿命もない、ただの朝ごはん。


「……いただきます」


 自然に、そう言葉がこぼれた。

 スープは少ししょっぱくて、でもやさしい味がした。


 


「どこから来たの?」


 パンをかじっていると、老婆がそう訊いた。


「……わかりません」


「そうかい。覚えてないなら、無理に思い出さなくていいよ」


 その言葉が、また胸にしみた。


 必要以上に詮索されないこと。

 過去を知らなくても、今を共にしてくれること。


 僕はこの場所が、少しだけ好きになった。


 


 朝食のあと、老婆──“ミレナさん”は、洗い物をしながらぽつりと呟いた。


「……うちね、昔、子どもがいたのよ。でも、病気でね」


 声はとても穏やかだったけれど、その奥に残る痛みはすぐに伝わってきた。

 僕は、何も言えなかった。


「だからね、不思議だったの。あんたがあの納屋で寝てたとき──まるで、“帰ってきた”みたいな気がしたのよ」


 ミレナさんは、皿を一枚ずつ布で拭きながら、続けた。


「名前がないって言うから、じゃあもう“うちの子”ってことでいいかなって思ってさ」


 軽く言われたその言葉が、どうしようもなく胸に刺さった。

 嬉しさと、申し訳なさと、少しだけ怖さが入り混じったような感情が渦巻く。


「……僕で、いいんですか?」


 思わず聞いてしまったその問いに、ミレナさんは笑って答えた。


「いいも悪いも、目の前にごはんを食べる子がいたら、それが家族よ」


 まるで、当たり前のことみたいに。


 


 午後には、老夫──“ガルドさん”と一緒に畑の水やりを手伝った。

 無言の時間が流れる。

 でも、それがとても心地よかった。


 ふと、風が吹いて土の匂いが漂ってくる。


 ああ、そうだ。

 こういう風の匂い──前の世界では、一度も気づかなかった。


 剣を握って、誰かを守ろうとして、それでも何も守れなくて。

 結局、自分がいなくても世界は回ることを知ってしまった。


 でも、今。

 水をまき、土を踏み、誰かの名前を呼びながら生きている。


 ここには、戦争も魔王もいない。

 ただ静かに、世界が流れている。


 それが、涙が出るほど愛しかった。


 


 夕方、屋根の下で干した芋を一緒に並べていると、ミレナさんが言った。


「リク。明日は、村の子たちも来るよ。年が近い子もいるから、仲良くできるといいね」


 ──“村の子たち”。


 その言葉に、少しだけ胸がざわついた。

 僕はこの場所にいられるだろうか。

 嘘をついてるような気がしてしまうのは、なぜだろう。


 それでも──


「……はい」


 僕は、そう答えた。


 


 夜。

 小さな寝床に横たわりながら、薄い毛布を握りしめる。


 遠くで虫の声が聞こえる。家の中は静かだった。

 眠る前、ふと空を見上げる。


 あの日、崩れた空に咲いた小さな白い花。

 あれは、幻だったのかもしれない。

 でも、今、こうしてここにいることだけは──確かだ。


「ありがとう、もう一度、生きる時間をくれて」


 誰にも聞こえない声で、そっと呟く。


 新しい名前、新しい世界、そして──小さな家族のいる場所。


 それが、今の僕の、すべてだった。

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