彗星の夜

石野 章(坂月タユタ)

彗星の夜

 夜空を横切る白い軌跡は、まるで星々が交わりながら語り合う静かな囁きのようだった。そのしなやかな光の尾に、人々は古来より畏怖と憧れの念を抱く。まばゆい光は、天空の神秘を象徴するかのごとく、暗黒の宇宙を越えて訪れる。


 彗星――いにしえの予言書には、その出現が世界の変容を告げると記されている。今宵、私の目の前に現れるその光こそが、長い闇を裂く兆しであることを、まだ誰も知らない。


***


 朱を含んだ紫陽花色の夕空の下を、舞香はゆっくりと歩いていた。向かう先は、大学の同級生の大輔のアパートだ。冬の冷たい風が通りを吹き抜けるたび、首筋にかかるセーターの襟元がちくちくと肌を刺激し、心まで落ち着きをなくしてしまう。彼とは毎日顔を合わせるような仲だが、家まで行くのは今日が初めてだった。


 大輔のアパートは、街の外れにある落ち着いた住宅街の一角に建っていた。門灯の優しい光が白く染まった地面を照らしている。玄関先に立つと、私は鼻先を赤くしながらそっとチャイムを押した。すぐにドアが開き、そこからのぞく大輔の顔はどこか浮き立っているように見える。


「寒かっただろ。ちょっと待ってて、すぐ車を出せるように準備してあるから」


「うん……ありがと」


 簡単に挨拶を済ませると、大輔は部屋の奥へと戻っていった。私はひとりでドアの外に立ち尽くす。悪いと思いながらも中を少し覗いてみると、乱雑に置かれた漫画本や象牙色の毛布がかかった一人用のベッドが見えた。


 大輔とは、同じバレーボールサークルに所属している。学部こそ違うが、同じ学年ということもあり、よく他の同級生を交えて一緒に遊んでいた。顔は二枚目とは言い難いが、すらっと背が高いため雰囲気のある青年だ。


 独りよがりかもしれないが、私たちは悪くない仲だと思っている。最近は二人だけで遊びに行くことも増えてきて、お互いに気の合う相手だというのはわかってきていた。きっと彼は興味のない女を家に招いたりしないし、私も興味のない男の家に行ったりはしない。


『もしよかったら、一緒に彗星を見に行かないか』


 大輔から突然誘われたのは、昨日の帰り道だった。彗星を見に行く。女子への誘い文句としては独特だが、私はどこか胸が高まるのを感じた。サークルのみんなで夜景を眺めに行くことはあっても、二人きりで星を見に行くというのはかなり特別な響きがある。しかも、冬の星空は澄んでいて美しいと聞く。ちょっとしたデートの誘いなのかもしれない――そう思うと、ささやかな喜びが心を満たしていった。


『明日、"シルフィード彗星"っていうのが、地球の近くを周回するらしいんだ。十年に一度しか見られないから、良かったらどうかなと思って』


『なるほどね……いいよ、行きたい。けど、どこへ行くの?』


『山奥のほう、街明かりがない場所。車を借りて行こうと思ってる。あそこなら絶対きれいに見えるはずだよ』


『そっか。じゃあ、防寒しっかりしていかないとね』


 私が笑いかけると、大輔もほっとした顔を見せた。そのとき、なんとなく彼の表情に微かな安堵の色が混じっていたのに気づく。まるでこの誘いを断られたらどうしようと、ずっと気を揉んでいた様子だ。それだけで、胸の中にはほのかな温かさが芽生えるのだった。


「お待たせ。さあ、行こう」


 現実の大輔に声を掛けられ、私はぱっと顔を上げた。近くに停まっていたコンパクトなレンタカーに乗り込むと、大輔が足元を覗き込みながらアクセルを踏む。冬の車内はキーンと張りつめた空気があり、私は黙って空調の温度を上げた。


 車のフロントガラス越しに見える街の灯はきらきらと瞬いていたが、やがて人の暮らしの気配がまばらになる山道へ入ると、辺りは深い静寂に支配されていく。街灯すら途切れる道を大輔は慎重に運転し、凍りついた路面を滑らないようにと注意を払いながらハンドルを握る。私も地図アプリを見ながらナビゲーションを手伝う。


 やがて、一番高いところにある展望広場へと車がたどりついた頃には、すっかり夜も深まっていた。街から遠く離れたその場所には、金属製の柵と、わずかに佇むベンチ。それ以外には人工物もなく、あたりは広大な空と静まり返った木々だけが支配していた。星々は真冬の夜空に無数に瞬き、その光が惜しみなく地面に降り注いでる。私はドアを開けて車を降りた瞬間、息を飲んだ。


「すごい…星があんなにあるなんて…」


 冬の冷たさが頬を刺す。吐く息は真っ白で、耳が痛い。それでも私はしばらく言葉を失って天を仰いだ。大輔も車のエンジンを切ってから、ふいに笑い声を漏らす。


「夜にこんな場所来るの、初めてなんだ。すごい迫力だよな。見渡す限り星で埋め尽くされてる」


 私は頷きつつ、きゅっと首のマフラーを巻き直した。こんな満天の星空を、しかも二人で眺めている。この時間がかけがえのないものに思え、妙に胸が高鳴った。指先はかじかんでいるのに、心は温かい。


「ところで…どうして急に彗星を見に行こうって思ったの?」


 夜風を受けながら大輔に問いかけると、彼は少しだけ視線をそらした。


 私はその様子に少し胸がざわめいた。「どうしたの?」と尋ねてみるが、大輔は表情にどこか影が差したまま、言葉を呑みこんでいるようだった。少しの沈黙の後、まるで決意したかのように「ちょっと移動しようか」とつぶやく。


 二人は車を離れて、展望広場の柵のそばへ足を運んだ。外灯のない空間は闇に包まれていたが、そのかわり星明かりと月明かりが柔らかく周囲を照らし、山の稜線や木々のシルエットを浮かび上がらている。夜風が地面をさらって吹き抜け、その地に踏み込むとぎしぎしと音を立てる。空気は冴えわたるほど澄んでいた。


 ふと、大輔がマフラーに顎を埋めながら口を開く。


「舞香、信じられないって思うかもしれない。けど、今からする話、真面目な話なんだ。…変だと思われるかな」


「変だなんて、思わないよ。大丈夫」


 まるで秘密を打ち明けるかのように、彼は少し震える声で言葉を続ける。


「彗星って、昔は災厄の象徴だって言われてたんだ。彗星が来たら地球の空気が無くなるだとか、毒ガスがまき散らされるとか、色んな噂が飛び交っていたらしい」


 掴みどころのない話に、私は首を傾げる。


「それで、シルフィード彗星には……魂を吸い取る力があるらしい。そんなの、迷信や作り話だって言われそうだけど。でも、俺はそれが本当だと思ってる」


 じんわりと体が強張るのを感じた。突然聞かされるにはあまりに不思議な話だった。しかし大輔の瞳が真剣で、嘘や冗談を言っている様子ではない。


「魂を…吸い取る?」


「うん。そして、魂を吸い取られた人間は、ある星へと移動させられる。いや、正確には”交換”されると言うべきかな…。俺が聞いた話だと、シルフィード彗星は周期的にいくつもの惑星を巡っていて、その通過時に人間の魂を連れて行くらしいんだ。……十年前、ちょうど俺が十歳のときに、この彗星を見た」


 大輔はそこで一度言葉を切り、深く息を吸い込むように胸を上下させた。私は彼の横顔を見つめたまま凍りついていた。何か重い告白が始まろうとしている、そんな直感がある。


「十年前のある夜、俺はこのシルフィード彗星を、親に内緒でこっそりベランダから見てたんだ。その瞬間、ふわっと体が宙に浮いたかのような感覚がして……気づいたら、俺はもともと住んでいた星とはまったく別の星にいた。今いる“地球”は、実は俺にとって故郷の星じゃない」


「え…」


 冷たい風が吹きつけ、二人の髪を乱す。そんな現実離れした話を聞かされて、何とも言葉が出てこない。信じたいわけでも信じたくないわけでもなく、どう反応すればいいかがわからない。


「大輔…。冗談、よね?」


「冗談じゃない。俺はこの地球の人間とまったく同じように見えるかもしれない。でも本当は、十年前の冬までは別の惑星で暮らしていた。どういうメカニズムでそうなるのかは自分でもわからないけど、魂がごっそり入れ替えられたんだと思う」


 嘘だと思いたかった。しかし大輔の目は真剣だ。にわかには信じられないが、どこか彼の誠実さが、この話を受け止めないわけにはいかない雰囲気を醸し出している。そして、その目の奥には何か後ろめたさや罪悪感のような感情がうかがえた。


「…そんなことが、あり得るの?」


「俺自身、当時は理解できなかった。でも現に、気づいたら“違う星”で生活が始まっていた。十年経った今、こうして普通に生きてるわけだけど…実は、ずっと悩んできたんだ。自分が本当はどこの存在なのかって。だけど、誰にも言えなかったし。親だって、友達だって、みんな俺がここで生まれ育った存在だと信じて疑わない。俺だけが違和感を抱えてるんだ」


 大輔の話に頭がついていかず、軽く耳鳴りがしてきた。それでも懸命に思考を巡らせる。もしそれが真実なら、目の前にいる大輔は、どこか違う世界からやって来た存在ということになる。気さくに会話して、同じ大学に通い、サークルで汗を流し、悩みや喜びを共有してきた大輔が、本当に“別の星”出身だなんて信じられなかった。


「今夜、シルフィード彗星が近づく。この彗星を見たらまた魂が吸い取られて、何かが起きるかもしれない。俺は…実は、自分だけで故郷へ帰りたいと思ってたんだ。でも、一人で帰るのはなんだか……むなしくて」


「ちょっと待って。それって…」


 そのときだった。周囲が不自然なほどに真っ白く照らされ、大輔が天を仰いだ。否応なく視線を夜空へ向けると、淡いエメラルドグリーンの光が空に弧を描いている。それは、神秘的な尾を引いてゆっくり横たわる巨大な彗星の姿だった。この世のものとは思えないほど美しく、荘厳な輝きを放っている。


 私は思わずその姿に見惚れた。言葉を失い、時間が止まったように感じる。体の奥から湧き上がる震えは寒さのせいだけではない。未知のものと対峙する恐怖か、それとも崇高さに打たれる感動なのか。上手く言い表せない感情の波が押し寄せてくる。


「これが…シルフィード彗星…?」


 大輔は無言のまま頷いた。空気が変わったような気がした。耳鳴りが一瞬消えた気がして、頭の中が真っ白になる。その煌めきを見つめ続けた結果、視界が歪み、世界がぐるりと回転するような感覚に襲われた。立っていられないほど強いめまいに飲み込まれ、反射的に身をかがめる。そのとき、横にいたはずの大輔の腕が自分の身体を支えようと伸びてきたのがわかったが、それもすぐに意識の彼方に遠のいていく。


 ――次に私が目を開けたとき、足元には見覚えのない草の葉が風にそよいでいた。いや、見覚えはある。どこにでもある雑草だ。でも何か、いつもと違う感じがする。


「舞香……大丈夫?」


 背後から大輔の声がした。振り返ると、彼の顔色は青ざめていた。


「なに…? 何があったの?」


「たぶん…俺の故郷に帰ってきたんだと思う」


 再び闇の中に包まれた山の景色は、私がさっきまでいた“あの場所”にそっくりだった。けれど何かがおかしいように感じる。夜の暗さや凍てついた空気にさえも違和感を覚え、じわっと首筋が総毛立った。


「ちょっと待って。どうして私までこっちに来ちゃったのよ」


「シルフィード彗星を見たからだよ。あれを見たら、みんな魂が移動するんだ」


「そんな…! じゃあどうして、私を連れてきたのよ!」


 私は憤慨した。大輔が帰りたいだけなら、一人で彗星を見に来ればよかったはずだ。


「ごめん」


 大輔は視線を落として、小さな声を絞り出す。


「舞香はどうしても連れて行きたかったんだ。本当は、こんな形で言うのは卑怯だし、申し訳ないのだけど…俺はたぶん、舞香のことが好きなんだ。だから、俺の故郷の星で一緒に暮らせたらって、ずっと思ってた」


 信じられないほど唐突な告白だった。風が二人の間を吹き抜け、枯れ葉をかさかさと揺らした。冬の月が雲間に隠れると、さらに暗闇が深くなったように感じられる。


「そんな…勝手すぎるよ!」


 唇からこぼれた言葉は怒りだった。連れて行く? それは大輔なりの好意が根底にあるのかもしれないが、あまりにも身勝手であった。どうして私が日常をすべて捨て、別の惑星に連れていかれなければならないのか。


 だが、大輔は小さく肩を震わせながら、すがるような目で私を見た。


「わかってる。でも、舞香だけはきっと、俺の話を聞いてくれると思ったし、もし一緒に来てくれたらって、淡い期待があった。こっちの世界は、地球と何もかも同じなんだ。街も、人も、時の流れも全部。だから舞香は何も変わらずに暮らしていける。両親だって、きっと見た目も性格も同じ人がいるはずなんだ」


「同じって…。だって、違う惑星なんでしょう?」


「俺も信じられなかったけど、本当なんだ。俺が経験したんだから。むしろ、まったく同じだからこそ、余計に気味が悪いんだよ。地形も家の位置も、細かい出来事も、驚くほど一致してる。それでも、別の星であることは間違いなくて…」


 いくら耳を疑っても真実味を帯びた彼の口調に、私の胸は圧迫されていく。そっくり同じ惑星なら、それでいいと言っているのだろうか? どこまで同じなら同じ星と言っていいのか。怒りとも、恐怖ともつかない感情がこみあげ、私は思わず声を荒らげた。


「ひどすぎるよ、そんな話。私の意思も無視して……どういうつもりなの? 私だって、地球で生きてきたんだよ。家族や友達だっている。それなのに、別の惑星に連れて行くなんて…!」


「ごめん。でも、どうしても一人で帰る勇気がなかったんだ。元の惑星に戻っても、周りは俺の知っている時から十年も経っているわけだし、受け入れられるかわからなかった。だから、一番信頼できる舞香を連れて行きたかったんだ」


 大輔の言葉に怒りや戸惑いが混然としてわきあがる。言葉を詰まらせ、何から問い詰めればいいかわからない。確かなのは、いま自分はまったく別の惑星に来てしまったという事実らしいということだけ。


「…どうやって戻ればいいの?」


 しばらくの沈黙のあと、私は小さな声で問いかけた。家族はどうなる? 大学は? サークルの仲間は? 何もかもが放り出されてしまったではないか。大輔は苦しそうに目を伏せた。


「十年前、俺がこの世界からあっちへ行ったときと同じで…次にシルフィード彗星が来るのは十年後だ。戻りたいなら、そのときまで待つしかないと思う」


 十年。そう聞いて、私は眩暈がした。二十歳の自分が三十歳になる未来。あまりに長い。たしかに前に彼は“十年に一度の彗星”だと言っていたが、まさかこのような形で意識させられるとは思わなかった。


「そんな…」


 言いようのない絶望感と裏切られた気持ちが体を駆け巡る。涙が出そうになるが、ぎゅっと唇を噛んでこらえた。大輔はそれでも申し訳なさそうに、しかしどこか安堵も含んだ複雑な表情を浮かべている。彼自身も葛藤していたのだろう。だが私から見れば、一方的に連れてこられたことへの怒りは簡単には消えない。


 ――その後、私と大輔は、山を下りて街へと帰った。すると驚いたことに、そこには私が知っているはずの町並みとまったく同じ景色が広がっていた。駅ビルも、スーパーも、映画館も、カフェの位置も、看板までがそっくりそのままだ。街角の植栽や歩道の形まで微細に同じに思えてならない。


「信じられないかもしれないけど、こうなんだ…俺も最初は自分が頭おかしくなったんじゃないかと思った。でも、これが現実なんだよ」


 大輔はこちらに顔を向けないまま、ため息まじりに言った。私は返事もできずに歩く自分の足を見つめている。


「ここではごく普通の生活を送ることができる。普通に家族がいて、友達がいて、学校だってある。俺だって詳しいことはわからないんだけどさ」


 混乱しきった私の頭は、もう限界に近かった。地球と瓜二つの星――確かにすべてのものが同じように見える。だけど、ここは別の惑星だ。どんなに街並みが同じでも、何かの違和感が消えない。何よりここが自分の帰る場所だという実感が、まるでわいてこない。


「じゃあ、おやすみ」


 気がつくと自分の家の前に着いていた。いや、正確には自分の家ではない。場所も形も同じ、だが全くの別物だ。


「困った事があったらいつでも連絡して。俺だけは、舞香の気持ちがわかるはずだから」


 大輔が去った後も、舞香は家の前で立ち尽くしていた。信じられない現実を、どう受け止めていいのかわからない。しかし、早朝の外気は異様に冷たく、ついに意を決して敷地に足を踏み入れた。やはりその家は、外観からドアノブの形状に至るまで、自分の家と完全に同じだった。玄関を開けたところで母親と鉢合わせ、一瞬心臓が止まる思いがする。そこにいたのは、地球と同じ声、同じ顔立ち、同じ仕草をする母親だった。


「あら、舞香。おかえり。朝ごはんは食べる?」


 あまりにも自然に声をかけられ、私は思わず「うん」と答えてしまった。彼女は自分が“この家の娘”であることに何の疑問も抱いていない。部屋に上がってみれば、自分の机や本棚、リュックやノートまでそっくりだ。そうして目にするすべてが、もはや当たり前のようにここに揃っている。魂が入れ替わったとき、こちらの私は地球へ移動したのだろうか。それとも地球の私と、この星の私が同じ記憶と存在を分かち合っているのか。頭がどうにかなりそうだった。


 日常を過ごしているうちに、次第にこの世界での生活パターンが地球のそれとほぼ変わらないのだとわかってきた。大学もあり、同じように授業が進み、サークル活動も行われ、友人との会話も驚くほど“いつも通り”に流れる。けれど、“違う惑星にいる”という不安はどうしても拭えない。


 家で食卓を囲むとき、普段となんら変わりなく母親が食事を出してくれて、父親が仕事の愚痴をこぼしてくる。テレビではバラエティ番組が放送され、バスや電車での移動も大差ない。外の景色も同じ。時折ふと、ここは本当は地球なのではないかと疑問がこみ上げてくる。一緒に過ごしている人たちも、“地球の”知り合いとほとんど同じなのだ。でも、わからないところで、どこかが微妙に違っているのかもしれない。それを思い出すたび、私は深い孤独に襲われた。


 大輔とはあの後も何度か顔を合わせたが、以前のように親しげな態度を取りづらそうにしていた。それは彼自身の罪悪感が原因だろう。突然この世界に私を連れてきてしまった上に、戸惑い、苦しんでいるのを目の当たりにしているのだから無理もない。


 きっと、この環境は大輔にとっては“懐かしい故郷”であり、“自分が本来いるべき場所”だ。しかし、十年ぶりに戻ってきた彼の胸に去来する思いも複雑だろう。家族と再会し、かつての友人たちと何事もなかったかのように過ごす姿を私はときどき遠目で見つめた。これが本当に最善の形だったのか――二人とも答えを見つけられないまま、日々が過ぎていく。


 そうして生活を続けているうちに、一年、二年、そして三年と時が流れ、私はいつの間にか社会人として働き始めていた。地球の大学三年生の年齢にあたる頃、この星でもほぼ同時期に就職活動が行われ、私は地球でも興味があった出版社に類する会社に入社した。最初は戸惑ったが、それが自然の成り行きのように周囲から受け止められるので、逆らうのも難しく、流されるように自分の人生を作り上げていった。


 大輔も大学を卒業し、どこか金融関係の企業に就職したらしい。卒業という区切りがあり、互いの生活が忙しくなり始めると、大輔とはだんだん疎遠になっていった。大輔へ言いたいことは山ほどあったが、それ以上にこの世界で生きることを受け入れることのほうが困難で、ただただ自分の中に閉じこもるしかなかった。


 そんな日々の中でも、私が心の奥底で唯一の支えにしていたのは、“あと十年後にシルフィード彗星が再び来る”という事実だった。あの夜から十年後――つまり、自分が地球で過ごしていたはずの二十歳から三十歳になる頃、この星でも同じだけの時間が経っていく。そのとき彗星を見れば、地球へ帰れる。もちろん、そのとき地球が自分を受け入れてくれるかはわからない。もしかすると、すでに“こちらの”私が地球で過ごしているかもしれないし、両親も友達もそれに気づいていないかもしれない。でも、帰りたい。帰るという選択肢があるというだけで、私はどうにかこの星での日々を乗り切っていた。


***


 やがて十年の時が満ち、私は再びあの山に向かった。昨日降った真っ白な雪が繭のように積もっており、空気の冷たさはあの時と同じように厳しい。車を路肩へ止め、懐かしい展望広場へと向かう。十年前、ここで大輔に連れられるようにして彗星を見上げ、別の惑星へと飛ばされてしまった。今度は一人で彗星を見つめ、地球へ戻ることになるだろう。胸に去来するのは、安堵と不安、そして説明しきれない喪失感だ。


 柵のある展望広場に着くと、そこには予想もしなかった人物が先に立っていた。大輔だ。彼はコートの襟を立て、澄み切った空を見上げている。どこかやつれたような、しかし懐かしい雰囲気を漂わせている。


「…久しぶり」


 私が声をかけると、大輔は振り返った。かつての大学生の面影を残しつつも、大人びた顔つきになっている。目の下にはうっすら疲れがにじんでいた。


「やあ。きっと来ると思っていたよ」


「あたり前でしょう。私は、帰りたいと思ってるから」


 正直、どんな顔をして話せばいいのかわからない。憎みたいのに憎み切れない自分がいる。一方で何年もの間、疎遠になっていた相手だ。それに、かつてはいろいろな気持ちがあった。大輔はそんな私の心を見透かしたかのように、申し訳なさそうに瞳を伏せた。


「俺は…ただ、見送りに来たんだ。舞香がここからいなくなるのを見届けて、ちゃんと地球に戻れたか確認する。それが俺の、責任だと思うから」


 責任、か。大輔も大輔で、きっと十年間苦しんでいたのだろう。私たちはある意味で、同じ苦しみを分かち合った仲間なのだ。


「ねえ大輔、最後に聞いてもいい?」


 無言で頷く大輔を見て、私は続ける。


「私が戻ったら、あっちにも大輔……"地球の"大輔がいるのよね?」


 過去に大輔は、「ここと地球は同じ人間が存在している」と言っていた。そして、彗星によって魂が入れ替わるのだとも。つまり、地球には私や大輔に相当する人間がいるはずだった。


「たぶん、そうだよ」


「でも、その大輔は、私の知っている大輔じゃないのよね?」


 空気がきりりと肌を引き締め、二人の呼吸を緩やかに通り抜けていく。少しの沈黙の後、大輔は答えた。


「そうだと思う」


「…じゃあ、これでさよならなのね」


 私は切なさを覚えながら柵にもたれかかった。微かに風が吹いて、眼下の街の灯りが静かに瞬く。シルフィード彗星が接近するのはもうすぐのはずだ。大輔はポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認し、唇を引き結んだ。


「あと数分もしないうちに、あの光が見えるだろう。…本当に帰るんだね?」


「うん。私は地球で生きてきたし……ここはずっと違和感が拭えなかった。家族も、友達も、何もかも見た目は同じで、言葉も同じで、でも、同じじゃない。私にとって、本物の場所はあの星しかないと思う」


 大輔は静かに頷き、それ以上何も言わなかった。ただ、まなざしの奥にある名残惜しさのような感情は、痛いほど伝わってくる。


 私は本当はどうするべきなのか、よくわからなかった。故郷と呼べる場所は地球であることは間違いない。でも、こちらの惑星でも十年間必死で生きてきたのだ。そして十年経っても、やはりこの星は地球と何も変わらないように見えた。本当はここが地球なのかもしれないし、見えないところで何かが違っていて、やっぱり別の星なのかもしれない。わからない。目の前の世界が、人が、本当に自分の知っているものであるかどうかなんて、どう証明したら良いのだろうか。今目の前にいる大輔と、地球にいる大輔は、一体何が違うのだろうか。


 大輔は口を開き――何も言わずに振り返ると、静かに立ち去って行った。そして、あの時と同じように、周囲が一気に白んでいくのを感じ、私は満点の夜空を見上げた。


 空が一瞬、薄い光に満たされる。遠くの星々が照らされ、またたき始める。エメラルドグリーンの彗星が、薄雲を切り裂くようにその姿を現した。その瞬間、私は身体の芯が熱くなるような感覚に襲われた。まるで血液が逆流するかのように目眩がする。しかし十年前に味わったあの震動にも似た感じを思い出し、自ら意識を手放すように身を任せる。


「さようなら、舞香」


 遠くで大輔の声が聞こえた気がする。意識が朧になり、夜空が視界から溶けていく。音も光も感覚も、すべてがぐるぐると舞い交わり、再び闇の中に引き込まれていく。何度も繰り返す耳鳴りのような音が遠ざかり、やがて静寂がやってくる。


 ――いつの間にか、私は夜の山道に立っていた。吐く息が白く凍りつく。辺りは変わらず真冬の風景だ。でも、どこかに懐かしさがあり、ほっと息をつく。どうやら自分がいた“あちらの星”とは違う。ここは地球なのだろう。


 十年もの間、あちらの世界で生きてきた自分は、地球でどのような存在として受け止められるのだろうか。両親はまだ自分を覚えているのか。そもそも、この星に“私”はいたのか。いま自分はどんな状態なのか。何一つわからない。


 それでも、帰りたいとずっと願い続けていた場所に戻ってきたという感覚には、不思議な安心があった。足下の雪を踏みしめ、ゆっくりと車に戻ることにする。空を見上げるとシルフィード彗星の姿はもう見えず、夜の星々が凍てついた空に無数の星が瞬いていた。冷たい風が吹きつけるたびに、身体の芯まで凍りそうだが、それはどこか懐かしい痛みにも思えた。


 しばらく歩いたところで、スマートフォンを確認してみる。すると、そこには通知がひとつ。「大輔」という表示名からメッセージが届いていた。驚きつつ開いてみると、ごく短い文章が並んでいる。


『どうだった?』


 思わず立ち止まり、心臓が大きく脈打った。この大輔は、自分の知っている大輔ではない。しかし、その文章は懐かしくもあり、どこか違和感のある響きがあった。既視感とも、新鮮さとも言えない、不思議な感覚が胸を締めつける。


『帰れたよ』


 私はそれだけ返すと、雪道に慎重に足を踏み出す。白くなった山の木立の向こうに、爽やかな朱色に染まった朝焼けの兆しが見えた。

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彗星の夜 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552

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