第1話 協力要請
じりりりり、と甲高い音。半分無意識にアラームを止めた。カーテンでさえぎられた光が、色を帯びて顔面にかかる。――朝だ。枕元で覗き込んだ時計の盤上、七時二十八分の表示。ベッドから起き上がる。
ほとんど目をつぶったままカーテンを開ければ、空のまばゆさが瞼越しにも容赦なく差し込んできた。窓を開く。すがすがしい春の風が吹き通って、かすかに俺の髪をゆらした。足をひきずるように洗面所へ行って、あくび交じりに黒いヘアゴムを手に取る。壁に掛けられた鏡の中、顔の右半分が前髪に覆われた自分が映っている。赤い癖っ毛をブラシでほぐす。下方で二つ結びにして、冷水で顔を洗う。歯磨きを済ませる頃には、だいぶ頭も冴えてきていた。
食パンをトースターにかけつつ、湯を沸かしてインスタントのポタージュスープを作る。その間に半そでの白いシャツと、ベージュのハーフパンツに着替え、上から大ぶりなジャージをはおった。トーストに塗るのはマーガリンと苺ジャム。いつもと変わらない朝食だ。ああ、昨日の一件がなければ、今日も普段通りの一日だったのに。昨晩からハスミの胡散臭い笑顔が脳裏にこびりついている。
八時。教材を入れたリュックサックを背負い、空中に魔方陣を描いた。呪文を唱えれば、転移魔法が発動する。直後、めまいに似た感覚。それが薄れてから目を開ければ、すでに学園内のラウンジに到着している。
「おはよう、アカネ!」
編み込みの蒼いまとめ髪。長い横髪を揺らしながら、大きく手を振っている女性――彼女は
「ああ、おはよう」
あいさつを返し、彼女のもとへ。俺たち二人は、朝礼前にこのラウンジで、何気ない談話をするのが通例となっていた。彼女は詰襟の戦闘着の上から胸鎧を身に着け、白いマントを羽織っている。すらりと長い脚にはクラシカルなロングブーツがよく似合い、背が高いことも相まって学園内でも目立つ生徒の一人だ。なんなら彼女と話したことすらない俺のクラスメイトにも慕われている。今朝の彼女の額には、透明な汗の雫が浮かんでいた。
「今日も鍛錬終わりか?」
「もちろんだ。剣の修業は、一日たりとも欠かすわけにはいかぬからな」
彼女は騎士見習いとして剣術の腕をみがく傍ら、幅広い戦術を身に着けようと、ここ
「アカネ、新しいクラスには慣れたか?」
「まあ……去年と大差ないな。クラスメイトも変わらないし」
「そういえば魔法特待は一クラスだったか」
ははは、と彼女は豪快に笑った。明朗な彼女との会話は、いつでも俺の気持ちを明るくしてくれるのである。
「メグナはどうなんだ?」
「あぁ、新しいクラスは、猛者が勢ぞろいしているのだ。早く手合わせをしてみたいところだな……!」
出会った当初からの戦闘好きは相変わらずらしい。「楽しそうで何よりだ」俺は口元を緩めてかすかに笑んだ。
「アカネが入学してきてもう一年か……時が過ぎるのは早いものだな」
メグナは感慨深げに天井を仰いだ。私も今年で卒業とはな、まだ実感は湧かないが……そう言って、柔和に細められた目元。そのとき、キンと耳鳴りがした。……まずい。
――未だ卿に会えないまま、また一年が過ぎてしまったのだな……。
脳内に流れ込んできた思念にドキリとする。またか、またなのか。表には現れることのない心理、それを無断で読み取っている罪悪感に、ちくりと胸が痛む。「卿」という人物は、彼女の口から聞いたことはないが、内なる言葉には時折見かけることがあった。
「そう、だな」
不審な様子を見せないよう、動揺を隠して相槌を打つ。
――卿は……今どこで何をしているのだろうか。
いつもの快活な彼女とは少し違う一面。そこに差があることも相まって、俺の心は締め付けられていく。
――貴方に会うことができれば、私は……。
その時、チャイムが鳴った。朝礼開始五分前の予鈴である。
「おっと、そろそろ教室へ行かねばな」
凛々しい笑顔を取り戻した彼女は、はたと我に返った様子で俺の方を向いた。耳鳴りは止まった。
「またな!」
「……ああ」
くるりとマントを翻し、遠ざかっていく彼女の背を見送る。肩の力が抜けた途端に、俺の足は疲労感でふらついた。
一時期はこの能力も魔法の一種なのだろうかと考え、魔法について学べば真相がわかるかもしれないと期待していた。しかし一年間魔法学を学んで分かったことは、「他人の思考を読み取る魔法」なんてものは、どこにも存在しないということだ。
ラウンジから階段をのぼり、教室へ入る。朝礼前とあって、多くのクラスメイトたちが既に着席していた。席に着こうと歩みを進めれば、俺の隣の席、一人の少女がこちらを向いている――ハスミだ。
「おはよう、アカネちゃん」
リーフグリーンのハーフアップは几帳面に切りそろえられていて、ブラウスの胸元はフリルで上品に飾られている。落ち着いた青緑のロングスカートには、大ぶりな花柄が散りばめられていた。
「……はよ」
華やかなお嬢様風の笑顔は不思議なくらい自然で、昨日の「素」とは似ても似つかない。あまりのギャップに頭痛がしそうだ。
チャイムが鳴り、担任が扉を開けた。スタスタと教卓の前へ立ち、鋭い目つきで生徒たちを見渡す。それから空席がないことを確認し、満足そうに目を細める。
「号令」
担任の一言に合わせ、クラス委員が号令をかけた。起立、礼、着席。
「諸君、本日も全員揃っているな。素晴らしい」
担任は諸連絡を告げ、簡潔に挨拶を済ませた。そして俺とハスミの前へ姿勢よく歩いてきて、学級日誌を差し出した。
「お前たちが今日の日直だ。西野、弓月に仕事を教えてやってくれ」
「はい」
がんばれよ、と彼女は優しい目で言った。それからすぐに踵を返して、彼女は風のように去っていく。別のクラスで授業があるのだ、彼女の担当科目は近接戦闘である。
偶然というものは恐ろしい。隣席の
「二人とも、清掃ご苦労。もう帰っていいぞ」
すべての授業が終わり、人が減って随分静かになった教室内。こなれたショートの黒髪をかきあげ、担任は俺たちに言った。日直の最後の仕事は、放課後の清掃なのだった。
「はい、失礼します」
「
「ん。気を付けて帰りなさい」
リュックを背負い、ハスミと連れ立って廊下に出る。教室からしばらく歩いたところで、「ついてこい」とハスミが耳打ちした。
階段を足早に降り、昇降口から屋外へ出る。
「どこ行くんだよ」
「アジト」
進行方向から目線を動かさないままの一言。アジトって何だよ。抗議のかわりにしかめた顔も、彼女の眼中にはないらしい。校門から出てすぐの横断歩道の前で立ち止まり、赤信号と向き合う。
「アジトって、箒星ヒルズにあるのか?」
「ま、そんなとこ」
妖しく目を細め、彼女は琥珀色の瞳だけで俺を見た。何をもってそんな部分を濁すのか。意図はわからないが、ひとまず良い予感はしない。
信号の色が変わる、俺たちは歩き出す。幾許も歩かないうちに、居丈高な高層マンションに見下ろされた。ハスミはこともなげにエントランスに入り、慣れた手つきでパネルの番号を押した。何台もあるエレベーターにすぐに乗り込み、十二階へ一直線に上がっていく。
「昨日連れてこられたのがアジトか?」
「そーそ。ほぼ俺の家みたいなもんだけど」
あくまで家と言い切らないのは、ここは別宅で自宅は別にあるのだろうか。そういえば、昨日のアジトには大人の気配が微塵もなかった。随分慣れた関係性に見えるが、他人と思しきツララは、彼女の世話係なのだろうか。
重厚な黒い壁に圧倒されながら、到着を待つ。十階、十一階、十二階。扉が開いた先には、またも黒い壁の廊下が続いていた。その先、廊下の突きあたりでハスミは立ち止まる。
「ここがアジトへの入り口、場所覚えといて。次から自力で来れるように」
「いや、まだ協力するなんて一言も」
「はいはい、わーかったから。今日来てくれた以上、興味はあるんでしょ」
「……様子見だ」
警戒したまま呟いたが、彼女は心得たような笑みで俺の目を見た。……気に食わない。
扉が開かれる。広々としていて清潔な玄関から、廊下を通り昨日連れてこられた居間へ通される。「ただいま~」と呑気なハスミの声が響けば、キッチンの方からツララが顔を出した。
「おかえりなさい」
「ただいま。アイロンがけやってくれた?」
「……かけたけど。次からそれぐらい自分でやって」
「悪かったよ。昨日の情報交換会が長引いちゃって、帰ってからすぐ寝ちゃってさ」
不服そうな表情のままツララはキッチンカウンターの奥へ戻っていった。まあ、とりあえず座ってよ。促されてローテーブルの前へ。何となく、昨日座っていたあたりに腰を下ろした。んーと、とりあえずオレたちがどういう活動をしてるか話せばいいかな? 丸い瞳を転がすように天井を仰ぎながら、ハスミはそう口を切った。
「まず、オレたちはキミが持っているような能力だとか、それに近い事象を“
「“歪み”?」
「言い換えれば時空のバグみたいなもんさ。何らかの影響で生じる、本来なら存在し得ない事象だ」
例えば、ツララは自分の時間が歪んじまってる。ハスミはスマイルを取り下げて、さっぱりとそう言ってみせた。俺は非日常的なセリフに戸惑い、眉間の皮膚を詰めた。
「あいつは不老不死とまでは行かないが、数年前からほとんど体格が変わっていない」
「体格が?」
んー、体格じゃ伝わりにくいか。顎に指先をあてながらハスミは悩んだそぶりを見せ、十秒ほどしてからふいと目線をこちらへ戻した。
「あとはそうだ、髪や爪なんかもすぐには伸びない」
「時間の流れが歪んでる、ってそういうことか」
「普通、爪なんて一週間もすれば伸びるだろ? あいつが爪を切るのは年に一度だ」
「なるほどな……」
「私の話?」
キッチンから現れたツララ。彼女の手に持つトレーから、三人分のマグカップが机上に置かれた。カップからは甘い香りのする湯気が立ち上っている。
「そーそ。おーココアか、サンキュ!」
「ありがとう」
さっきこの人が言ったことは事実。とはいえ、今すぐ示せるような証拠はないのだけれど。着座した彼女は静かにカップを傾ける。繊細な睫毛の合間に見える色素の薄い瞳。その水色はただカップの内側だけを映していた。
「単刀直入に言うとな、キミとツララの”歪み”の原因はオレにあるんだ」
「なっ……!?」
予想外の告白に、ハッと眉が上がった。
「オレのミスが原因だ。だからこそ、過去の過ちを清算するために、キミを探してここに連れてきた」
「ちょっと待ってくれ。ミスって何のことだ?」
そもそもあんたとはまだ出会って二週間しか経ってない。俺の能力とどう関わりがあるんだよ? 訝しんだまま問いを重ねる。
「今までの人生で、奇跡を感じたことはないか?」
――あるはずだ。キミの魔法が暴走して火事になって死にかけた時、鈴の音を聞いた覚えがないか? そして一命を取り留めたはずだ。
押し寄せた思念が脳の奥で騒音をかき鳴らす。背を汗が伝った。恐怖に任せてつい立ち上がった。
「どうしてそれを……!」
その反応は図星ってことかな。ハスミは安堵したように微笑んだ。
「キミはあの時一度死んだ。生き返らせたのはオレなんだ」
深呼吸してカップに口をつける。抜けるカカオの香りと甘味で心を落ち着かせる。そして口を開いた。
「あの時……俺は死んでたのか!? 生き返らせたって――あんた何者だ?」
「オレは別の世界から来た。世界と世界を繋ぐセカイ――リエゾンの住人だ」
目の前の少女が口にした言葉は、あまりにも荒唐無稽だ。しかれども、読み取れた思考は紛れもない真実なのだ。単なる妄想癖にしては俺の事情を知りすぎているとは思う。かと言ってそんな突飛な自己紹介が信じられるほど幼くもない。混乱しながらもつれる舌を動かす。
「よく分からないが……仮に、その話が事実だとして、どうやって俺の”歪み”やら居場所やらを把握したんだ」
「オレたちの種族は、生来の能力として歪みに近いものを備えている」
まー、オレ自身がアカネみたいに他人の心理を読めるわけじゃないけどな。でもそういう情報は同種族の間で調べることができた。その言葉に続けて、昨日はほとんど黙していた氷柱が口を開く。
「怖がらせてごめんなさい。貴女への敵意はないし、信じがたいと思うけれど、これは私の知る限り事実」
「……まあ、一応事情は承知した。それで、俺の”歪み”を解消するにはどうすれば良い?」
腑に落ちない部分は山々だが、もし彼女たちの話が本当なら、俺としても協力するメリットがある。警戒しながらも先の話に耳を傾ける方針でいこう。
「ひとまずの目標は"書き換えの鈴"を取り返す事だ」
「書き換えの鈴……」
「リエゾンに伝わる秘宝だ。この鈴の力を使えば、キミが抱えているような進行中の”歪み”でも解消できる」
取り返すってことは、誰かに取られたのか? 浮かんだ疑問を率直に口に出してみる。
「あー、まあなんだ。実を言うとお偉いさんに没収された」
「それもこの人の言うミスのせい」
話の顛末はこうだ。ハスミはかつてリエゾンの住人として、世界の歪みを正す役割を担っていた。鈴の力は強大なため、扱いを間違えれば歪みを正すどころか歪みを生んでしまう。ハスミは任務の際に偶然見かけた俺を鈴の力で助け、その結果として歪みが生じてしまい、鈴を没収されたらしい。
「そんでまあ、鈴を取り返すには一定数の”歪み”を正さなければいけないワケ」
「えっ、鈴無しでか?」
「そ。ってのも、軽度ならすぐに対処すればセーフなんだよ」
「じゃあその手伝いをしろと?」
「おお~察しがいいね、そーゆーこと!」
で、具体的にはどんなことをしてるんだ。そう尋ねた途端に、バッと腕を掴まれる。
「それなんだけど、ちょっとこっち来て」
「んえ?」
腕を掴まれたまま引き連れられ、先ほど通ってきた廊下のフローリングを踏む。
「どこへ行くんだ」
「いーからいーから」
一つの部屋の前へたどり着くと、強引に室内へ押し込まれた。困惑に顔をゆがめる俺を見て、ハスミははしゃいだ子供のようにけらけらと笑う。
「戸惑いすぎだって。危害加える気はさらさらないから、安心して!」
「まだ俺はあんたを信用してない」
「本当に悪意とかないってば~。あ、てか能力で読めば分かるんじゃないの?」
「あのな……あいにくと、この力は制御できてないんだよ」
俺だって読めるならとっくに読んでる。仮にあんたが俺の能力を利用しようとしてるなら、当てにはできないと思うぞ。シンプルなベッドと学習机が部屋の大半を占めている質素な室内。妙に綺麗だが生活感はない。
「あーそっかそっか。キミの能力についても後でよく聞かないとね」
さらりと言葉を返しながら、ハスミは部屋の照明をつけた。
「具体的な活動内容ね、うんうん」
鼻歌のように独りごちて、ハスミは軽快に室内を歩んだ。爪先まで手入れの行き届いた両の手。壁際のクローゼットを開く。
「今日は実際に任務を体験してもらおうと思って」
「……はあ!?」
クローゼットにはぽつんと一着だけ、白を基調とした衣装がかかっていた。素材は薄手のコートに近く、丈の長いジャージのような形状をしている。かっちりとした角襟から、正面のジッパー部分の両サイド、裾の端に連なる黒いライン。ふわりとしたパフスリーブが、無機的な色味に反してガーリーだった。肩の部分には、付属品と思しき漆黒のリボンがひっかけてある。
「これが任務に行くときの制服。あっちで待っとくから着替えてね〜」
「は!? 先に内容を言え!」
「だいじょーぶだって、出発の前には伝えるから」
「おい!」
強引に閉ざされた扉。これあれだな、何度出て行ったところで同じテンションで部屋に押し込まれるパターンだな……。耳鳴りの気配すら感じなかったが、瞬時に何かを察した。そして諦めた――あいつの押しに勝てる気がしない。
胸元に細いリボンを結び終え、居間に集う。
「よーっし! 各自、準備できたか?」
「ええ」
「……知らん」
再び現れたハスミは、白いノースリーブのフリルブラウスの胸元に太めのリボンを結んでいた。丸襟や袖口は黒いラインで縁取られている。
「それはお前の制服なのか」
「どーよこれ? 形はそれぞれ違うけど、デザインは大体揃えてんだ」
得意げに語るハスミ。目線を移せば、ツララも黒いラインがあしらわれた、白いパーカー風の衣装を身にまとっていた。ジッパーの部分には小ぶりな黒いリボンが揺れている。
「白地に黒いライン、あと共通してんのはコレだな」
そう言って、彼女はハーフアップの上、黒いリボンのバレッタを指さす。
「じゃ、今回の任務について軽く説明をする」
普段より落ち着いた雰囲気だが、お決まりのスマイルはそのままだ。
「今回の任務は、周囲の魔力を取り込みすぎた魔獣の討伐だ。」
「ターゲットの特徴は?」
ツララが単刀直入に尋ねた。
「あいにく、発見されたばかりで性質はよく分からん」
「そう。でも、こっちに回ってくるぐらいだし、危険度は高い?」
「いんや、多分そうでもない。その世界に対処できる存在がいないだけだ」
「……了解」
よく分からない二人の会話、いまいち掴めない状況を前にして、俺も声を発する。
「じゃあ……要するに、魔獣討伐が任務なのか?」
「ま、仕事の一つかな。そんじゃ早速、しゅっぱつしんこー!」
そんな軽い調子で、ハスミは俺が初めてここに来た時と同様、空間の穴のようなものを開いた。
穴を抜けた先……見知らぬ景色、未知の世界。群青の芝生が生えた丘。辺りには、ハーブのような匂いが漂っている。生ぬるい風が、着慣れない制服の袖口を揺らす。今にも落ちてきそうなまばゆい星々が、軌跡を描きながら移動しているのが見えた。
「気を付けろ、ターゲットはこの周辺にいるはずだ」
警戒しながら周囲を見渡すも、今のところ魔獣の姿はどこにも見当たらない。周囲には青い山々、少し先には桃色の湖があり、人影や集落は見受けられなかった。
「……どういう容姿なんだ、その魔獣ってのは」
「んー、そうだな。バカでかいクモ、で通じるか?」
「そういう感じか、了解」
クモ自体は特段苦手ではなかった。しかし、巨大なそれが木々の間から這い出して来る様子を想像すれば、ぞわりと背筋が寒くなる。
どぷん、と不穏な音が聴こえた。すぐさま音のした方向へ注意を向ける。湖からだ。月を映す湖面を凝視していると、次第にざわざわと波が大きくなった。ざばあっ、と大きなしぶきが上がったかと思えば、黒々とした胴と、グロテスクな四つの赤い眼が水面上に現れた。水をはじく体毛。八本の脚が、順々に湖の外に出される。その脚が伸ばされた時。俺たちの目の前には、背景の月を覆い隠すほどの、”バカでかいクモ”がいた。末端から鳥肌が立ち、思わず足がすくんだ。
「な、なんでクモが水から出てくるんだよ!」
ハスミの方を向いて声を荒げる。
「見た目がクモってだけで、別の生物だから。ま、気にすんな!」
「……倒せばいいんでしょ」とツララ。
「そうそう」
ハスミは相変わらずの軽いノリ、ツララはいつもどおりの仏頂面。しかし、二人の瞳孔はしっかりと敵を見据えたままだ。耳にがさがさとかかる、不快な咆哮。跳ねながらクモはこちらに向かってきた。自分の顔が引きつるのが分かった。
「とりま一発、試しにやってみるか」
ハスミのその言葉に合わせて、周囲の芝生がぶわりと巻き上げられる。空中でいくつもの葉が光輝く。それらは目にもとまらぬ速さで風を駆け、クモの胴を切りつけた。
グォォオアア! とクモが呻く。脚をもだもだと蠢かして悶えている。
「回避スピードは速くない、と」
瞼を伏せ、ハスミが呟く。上がりっぱなしの口角、金色の瞳が鋭く光った。
「じゃ、次は頼んだぜ!」
突如、後ろから突風が吹いた。
「わっ!」
身体が空中に浮き、風に乗せられて跳躍する――風魔法、か。ひるがえる視界の中で察する。くるりと体勢を立て直したときには、敵の上空にたどり着いていた。
ぎらぎらとした四つの深紅が俺を睨む。……やるしかない。
「地を動かす炎の聖霊よ、竜となり敵を呑め!」
業火が敵を覆い尽くす。ギャアアアア、と人間じみた声。着地代わりに奴の眼を蹴り、反動で元の位置へ。
「ははっ! 至近での火炎魔法となると、迫力満点だな」
こっちは必死だってのに。ハスミを呆れ顔で睨んで、もうもうと上がる煙の中、敵の状況を確かめる。焼失した八本の脚、先ほどの蹴りでつぶれた眼球が、一つだけ赤黒く変色していた。死んだ、のか?
……そう思ったのも束の間、胴体だけになったクモが揺らぎ始めた。ミチミチ、とおぞましい音が耳に届く。ズルり、ずろろろろ……八本の、脚が、もう一度生えてくる。
「ひっ……!」
全身の肌が粟立った。そんな俺に反して、余裕のある口調。
「へえ……回復能力か」
やはり笑む口元。――普通じゃない、と思った。
「次、打っていい?」
「ん、よろしく」
動じずに狙いを定めたらしいツララ。手をかざし、うつむいて呪文を呟く。俺たちの前に生成されたのは八本の氷の針。ぐっ、と彼女は顔を上げた。ひゅっ、と風を掠れさせ、その針はミサイルのごとく飛んでゆく。ざざざざざざっ、八本脚が地面に留められた――まるで標本のように。
「動きは封じたけど」
「どうするー? アカネちゃん」
こちらを見るツララ。ハスミがにやつく。妖しく目を細めて俺に問う。
「……とりあえず、目を狙う」
眼前、三本の火柱をイメージする。
「地を動かす炎の聖霊よ、蛇となり敵の眼を喰らえ!」
現れる火炎、ゴオオ、と勢いよく延びてゆく。
「手伝うぜ?」
ひゅおおお、と高く鳴る木枯らし。背後からの風、炎が勢いを増す。鮮紅の三直線は、酸素を得て瑠璃色に成長する。どおおお、と炎が弾けた。クモのけたたましい叫び声。衝撃で押し出された奴の胴体は、勢いよく湖に落ちた。
高い高い水しぶき。寸時して、ばらばらと豪雨になる。焦げ臭い灰を溶かして濁り、燃え尽きた芝生に叩き付けられる。
「よし……!」
「油断しないで。まだ終わってない」
「まー大丈夫だとは思うけど、トドメは刺しておかねえとな」
ハスミが手のひらを上に持ち上げる。それに反応して、大量の水を伴いながら、巨大グモが上空に引き上げられる。
「ツララ」
「わかってる」
すかさずツララがその標的に向かい手をかざす。ぴしっ、という音を皮切りに、みるみるうちにクモの周囲の水が凍ってゆく。
「アカネ、あれをかち割って粉々にしてきてくれ」
「……俺が?」
「頑張って」
「そう言われてもな」
粉々にしろ、と言われても……攻撃手段が魔法である俺は、打撃技など持ち合わせていない。一体どうすれば……? 空高く浮遊する氷塊を、じっと見上げたまま思案する。何か、手立ては――。
背後から声。
「炎の力は、燃やすことだけか?」
伏せた目で笑う、別人の顔をした転校生。火炎魔法の他の可能性……燃やす、以外の。そうか、それはつまり――。
「地を動かす炎の聖霊よ……」
右手を高く掲げた。大きく息を吸う。俺の身体から湧き上がる魔力を、睨んだ先、クモを封じ込めた氷塊に集中させる。
「爆ぜて敵を打ち砕け……!」
力を込めて叫んだ。対象を粉々にする、それなら爆発でも代用できるはず。はち切れそうなほどに手のひらを張ってから、一転、爪が食い込むほど握りしめた――。
時間差で聞こえる破裂音。閃光でくらんだ目を凝らせば、落ちてくる数多の破片。
「下がれ!」
振り返らずに声を張り上げたのはハスミ。俺とツララは咄嗟に背後へ飛びのいた。風のぶつかる音、耳を掻き裂くような鋭い音を伴って、落ちる破片は俺たちから遠ざかるように流されていく。……これも彼女の風魔法らしい。推察だが、あの氷塊はおそらくトンで数えられる重さのものだ。それを難なく浮かせ、瞬時の対応で押し流すことができる――ここまでの風を操れるハスミは、とてつもない魔力を備えた術者だと悟った。……この人は、あらゆる意味で普通じゃない。
「おっし! 任務完了、だな」
振り返って、爽やかに歯を見せる。ここだけ切り取れば、胡散臭さはどこにも見当たらないのだが。
お疲れ様。ツララが淡々と発する。それに合わせて俺も「お疲れ」と一言だけ添えた。ひとまず、無事に任務は終わったらしい。切れていた息を整えて、制服に付いた汚れを払う。
「いやー、キミを引き入れて正解だったよ」
何様なんだよ。……いや、それよりも――。
「ちょっと待て、まだ協力するとは一言も言っていない……!」
「え~、つれないこと言うなって! もう制服も作っちゃったしさあ」
「なんでこんなに用意周到だったんだお前、サイズもピッタリで怖いわ!」
虚空に手をかざし、ハスミは例の出入り口を出現させる。
「ほら、帰るぞ」
「しれっとスルーしやがった……」
完全にあいつのペースだ、抵抗がまるで意味をなさない。頭の後ろで腕を組み、あー疲れた、とハスミはこぼす。呑気な様子にほとほと呆れて、なんだか溜息が出た。仕方がないので、俺は諦めて彼女の後に続いた。
帰り着いたアジトの一室、制服を脱いでベッドに身を任せる。かなりの疲労感だ。学園での授業の後、予告もなく始まった任務なのだから、疲れるのも当然ではあるが。沈むシーツのしわを見ながら、戦闘好きの親友を思い浮かべる。あー、もし自分がメグナだったら、この状況も楽しくて仕方がないんだろうな。そこは少し、羨ましいかも――。
トントン、とノック音。体を起こして、どうぞ、と一言簡潔に返す。開いた扉の先にはツララ。
「制服、今から洗濯するから。持ってきて」
「わかった」
勢いづけてベッドから立ち上がった。
この日は疲労感に抗えず、布団に入るなり即座に眠りに落ちてしまったのだった。
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