4 はじめての前線

 4 はじめての前線


 トラックの荷台に詰め込まれて悪路を往く時間は退屈でドナドナ気分を味わうぐらいしかやることがなかったがそれ自体は新鮮で楽しかったので目下の悩みは座り心地が硬くてお尻が痛いってことだけだった。

 視界のほぼ全部がブラウンリーフのシートで覆われた閉鎖的な空間に1ダース、同じ柄の服(いわゆる迷彩服ってやつだ)を着た人間が座っている。

 ちなみにあたりまえのことだけれどわたしも同じ迷彩服に袖を通していた。訓練中にも何度か着させてもらったが、いまだにこのごわごわした感触には慣れない。中学時代によく着たウインドブレーカーの表面をさらに硬くしたような手触りで、肌とこすれてちょっと気持ち悪かった。

 それでも自分の迷彩服姿を鏡で見たときには、いかにも戦場の一員だという気がして妙に気分が昂揚したものだ。

 本当に行くんだなぁ、戦場に──。

 なんてぼんやり考えていると、隣から水崎さんが話しかけてくる。

「それ。その顔。どういう感情?」

「えっ。変な顔してました?」

「変じゃないけど、あんまり見ないタイプの表情だったかな。最前線が初めてって傭兵を何人も見てきたけど、それこそ初めての顔かも」

 だいたいの人は浮かれてたり恐れてたり何かよくわからないものに怒ってたり、わかりやすい顔をしてるもんだけどね、と水崎さんは言う。

「確かにいま言われたそのへんの感情はないですね……。ああ、ほんとに戦場に出るんだなぁって」

「しみじみと感じてたってこと? ふっ、ふふふ……大物だね。合唱コンクールの本番前じゃないんだから」

「合唱コンクール!? や、そっちのほうが無理ですっ」

「うわ、びっくりした。ちょ、大声はやめな。撃たれるよ」

 あわてて周囲に目を配りながら水崎さんはわたしの口を手でふさいだ。1ダースから2を引いた人数の傭兵たち(肌の色も目の色も多国籍だ)がいっせいにこちらを見ている。水崎さんが英語で二、三、何事かを説明したら彼らは舌打ちしつつも視線を外した。

 気まずい。変な汗が出た。そりゃそうだ、わたしってば何をしてるんだ。

 これから銃弾飛び交う前線に出ようってときに、いきなり大きな音を出されたのである。ストレスの最大瞬間風速はとんでもないレベルだったろうし、撃たれても文句は言えないだろう。撃たれたら死んでるのだから文句言えなくてあたりまえだけれど。

「ご、ごめんなさい。気をつけます」

「謝らなくていいけど……合唱コンクールに、嫌な思い出でも?」

「音楽の授業って苦手でして。美術とかもなんですけど。小学校とか中学校って、基礎を丁寧に教えてくれないのにすっごく厳しく歌の能力とか作品の出来で評価されませんか」

「あー、確かにそんな感じだったかもね。あんま苦労した覚えはないけど」

「才能ある側だったんですね、水崎さんは」

 ほの暗い笑みが漏れる。考えてみればとうぜんで、水崎さんはちょっと我流で練習しただけでバイオリンを弾けてしまうセンスの持ち主なのだ。わたしとはちがう。

「満足に教えてもらえないまま本番を迎えて、失敗したらみんなをガッカリさせちゃうっていうあの状況。思い出すだけでも蕁麻疹が出そうです」

「戦場に出るより合唱コンクールのほうが緊張するってのも変な話だけどね」

「戦闘のほうがマシですよ。だって水崎さん、丁寧に教えてくれましたし」

「戦場の全部を教えたわけじゃないよ? 訓練場と戦場じゃ何もかもがちがう。……でも、ま、凛子にとっては実際、合唱コンクールよりもハードルは低いかもね」

 何せ、と言って彼女はもういちど周囲の傭兵たちを見回して。どうせ日本語なんて聞かれないだろうに声をひそめた。

「戦場に実力なんて無意味だ。才能あろうがなかろうが、みんな誰しも平等に何十分の一の確率で死ぬ」

「ガチャみたいですね。昔、クラスメイトが学校でやってて憧れてました」

「ああ、スマホでやるゲームの? 若い子に流行ってるんだっけ」

「水崎さんもいちおう現役世代では?」

「あいにく娯楽はゲームよりも小説とかが好きでね。裕福な家庭でもなかったから、祖父から相続した家の本棚にあったやつを読み漁ってたんだ」

「文学少女水崎さん。……うん、解釈一致」

「どんな解釈をされてるんだ、私は」

 苦笑する水崎さん。

 話がそれてきた気がするので、わたしは軌道修正することにした。

「ええと、いまのわたしの感情、でしたっけ」

「うん。その話の途中」

「迷彩服を着たときはちょっとワクワクというか、いつもと違うなーって感じてました。でも、なんだろう、いまはぼーっとしてる、ともまたちがうんですけど。頭の中で考えてはいるんだけどぼんやりしてるみたいな、そういう感じです」

「ふぅん。それが凛子なりの集中状態なのかな」

「集中、できてるんですかね。わたし」

「さあね。もし集中できてないなら、それはそれで凄いけどね。もう何度も戦場に出てる私でさえ、いまはちょっと完全にふつうではいられないから」

「いつもどおりに見えますけど」

「本当に? 何か変なことに気づかない?」

「えーっと」

 自分の顔を指さして、水崎さんはいたずらっぽく首をかしげている。

 そんなふうにじーっと見つめられても、残念ながら相変わらず美人だなぁとか、まつげ長いなぁとか、どうでもいい邪念しか浮かんでこない。

 光の差し方の加減だろうか、いつもよりほんのりと顔が青白い気もするけれど……。

 そこまで考えてはっとした。

「車酔い、してない、ような?」

「正解」

 水崎さんといえば絶望的なまでに乗り物に嫌われた体質の持ち主だったはずだ。

 飛行機から降りたときもスミスさんの運転する荒くれ車に揺られたときも、顔面蒼白でこの世の終わりみたいな姿を晒していた。

 けれどいまの彼女は顔色こそややすぐれないものの、車酔いとはほど遠い、かぎりなく平常に近い状態に見えた。

「陸自ならぎりぎり続けられた理由がコレ。戦闘の緊張感の中なら、集中状態でちょっとはマシになるんだ。さすがに戦闘機でぶん回されたりするのは集中してても無理だし、船の上で長時間滞在してたら集中しっぱなしってわけにはいかないから死ねるけど。車とか戦車での移動くらいならね」

「苦手って、集中するだけで克服できるもんなんですか」

「さあ? モノによるんじゃない?」

 それもそうか。

 ガタゴトと車体がゆれる。すこしだけ話題の切れ目に沈黙が訪れた。

 ちょっと気まずいなと思って、わたしはべつの話を切り出す。

「そういえば、わたしたちってこれからM国の正規軍と戦うんですよね?」

「あー、うん。そうだね」

「一国の正規軍って、やっぱり装備とかハイレベルなんですか。少数部族の軍で太刀打ちできるものなんでしょうか。簡単に蹴散らされちゃったりしたら……」

「あっちからしたら、そんくらい余裕ならどんだけラクだろうね。もしそうならとっくに鎮圧されてて、私らの仕事もないよ」

「でも、ふつうに考えたら戦力差ありそうですよね。どうして競り合えるんですか?」

「地上戦は結局、戦車と砲弾と銃器でやるだけだからね。そのへんはどちらの陣営も物量は違えど質に大差はないんだよ。こっちになくてあっちにあるのは戦闘機での空爆とか核兵器とかだけど、そのへんって人道問題で面倒な話になるわ土壌は汚染されるわクソ高価だわで、あんまり使われないからね。あとは、作戦の精度やら情報戦の強さやらもちがうけど……ま、何千、何万といる人間をそう簡単に殲滅なんざできないってわけだ」

「なるほど……」

「あんまむずかしいこと考えないほうがいいよ。考えたところでうちのしょっっぱい貧乏装備が改善されるわけでもなし。与えられた環境の中で、目の前のことをひたすら処理していけばいい」

「行き当たりばったりなんですね」

「そ。作戦は上が考える。私らは余計なこと考えずに言われるまま動けばいいんだ」

「わかりました」

「うん。素直でよし。素直ついでに言うけどさ、そーゆーことだから、責任も感じないでいいよ」

「責任?」

「人を殺す、責任」

「あー……」

 考えていなかったわけじゃない。だけど心のいちばん目立たない端っこに隠しておいたのは事実だった。

「戦争で利益を得るのは上の連中だし、富も名誉も私らとは無関係な話だ。必死こいて、何十回と死にかけながら勝利をもぎ取って祖国に帰ったら、戦場じゃ顔も名前も見たことないようなよくわからんおっさんが勲章をもらってたなんて話もある。けっきょく私らは駒だ。勝利の栄光もないんだから、とうぜん責任なんかあるはずない。……でしょ?」

「確かに。責任だけおっかぶせられるとか絶対ヤです」

「うん。だからまあ、気楽にいこう」

「はい」


 軍用トラックのゆれが止まった。どうやら目的地に着いたらしい。会話していたおかげなのか、体感時間はそれほど長くなくて、あっという間に感じた。

 何をしゃべってるのかよくわからない軍人さんに導かれて、わたしと水崎さんは荷台から降りた。

 最近雨でも降ったんだろうか、足下がぬかるんでいて気持ち悪い。

 そこから他の兵士たちと並んでゆっくりと進んでいく。姿勢を低くしろと命令されたので、腰を落として忍び足で。

 水崎さんによればもうここは戦場の前線で、立ったまま歩いて敵の目に留まったりしたら容赦なく砲弾を撃ち込まれるらしい。

 すこしして、地面がえぐれたようになっている場所に着いた。

 先行していた兵士たちが穴に足を踏み入れていく。

「ここはうちの塹壕だよ」

「塹壕?」

「前線で弾を避けるための場所。身を隠しながら敵の侵入を防いだり、こちらから攻めるための拠点になってる」

「狭いですね……わ、土くさい」

「離れないで。一瞬でも離れたら、合流できなくなる」

「え? あっ、はい」

 水崎さんに手を握られてどきりとしたが、すぐに素直に手を握り返した。

 塹壕は狭くて暗い。人ひとり、プラス、半人分。それぐらいの隙間しかなくて、他の人とすれちがうのも大変そうだ。

 兵士たちが何事かを叫びながらあわただしく行き交っていて、すれちがうたびに何度も肩をぶつけられた。

 確かに手をつないでいないとあっという間にはぐれてしまって、暗くて顔も見えにくいから合流するのはむずかしそうだった。

 進んでいくとすこしだけ広めの空間に出る。

 何人かの兵士と、えらそうな紋章をつけた兵士(隊長だろうか?)が集まっていた。

 英語か、フランス語か。わたしにはわからない言語で何かしゃべっている。

 言葉はわからなかったけれど、何か命令しているんだってことはわかった。

 隊長の言葉を聞いた後、兵士たちは元気に返事をしてそれぞれ忙しく動き始めた。

 水崎さんがわたしの耳元で言う。

「八番へ移動して、待機」

「八番……」

「考えなくていい、案内する。番号はあとで覚えて」

「は、はい」

 わけもわからず、ただ手を引かれるまま水崎さんについていく。

 番号はどういう意味だろう? もしかして塹壕内の位置を表しているのだろうか……と、飲食店でのバイト経験からなんとなく推察する。

 建物内の席を大勢のスタッフが誤解なく把握し、管理できるようにテーブルには番号がついていることが多い。もしかしたら塹壕も同じような方法で管理しているのかもしれない。

 八番、と呼ばれた区画へ向かう途中、いろいろなものが視界に入った。

 食糧や武器が保管されている横穴。怪我をして苦しんでいる兵士やそれを手当てしている兵士。鏡なんかもあったけど、あれは何に使っているんだろう? 身だしなみを気にする場所じゃないような。

 途中、ミサイルみたいなものもあってぎょっとした。

 水崎さんに訊いてみたら、それはミサイルじゃなくて迫撃砲弾というらしい。塹壕戦で敵陣を攻撃するための火器だとかで、使う人間は決まっているから勝手に手を出さないでと釘を刺された。

 言われなくても絶対に触らないけど。触ったらいきなり爆発しそうで怖いし。

 八番区画に着いた。

 壁をよじのぼって、何人かの兵士が堀の外を見ている。

 水崎さんが声をかけると、兵士のひとりが降りてきた。

 ひとつ、ふたつと言葉をかわしてパシンとハイタッチしている。

 その兵士がさっきまでそうしていたように、水崎さんは足場にうまく足を引っかけて上体を持ち上げ堀の外に顔を半分出した。

 隣にいたもうひとりの兵士も降りてきて、そっちの人はわたしに向けて片手を上げてくる。

「こう……ですか?」

「ヘイヘーイ! イェーイ!」

 見よう見まねで手をかかげたら、ばっちーん、と音がするぐらい強く手をたたかれた。

 痛い。

 赤くなった手をさすりながら水崎さんにならってわたしも壁をよじのぼって、堀の外に顔を出す。

「スキンシップ、激しすぎませんか」

「まあそういうものだから。……それより、気をつけなね」

「えっ、と?」

「見張りの任務。何事もなければ暇な時間が続くけど、気を抜かないで」

「見張りって、具体的には何をすれば?」

「敵の色は覚えた?」

「あ、はい。訓練場で、教えてもらったので」

 まだ集落にいた頃、水崎さんにたっぷり教えてもらった。

 地上戦をする兵士たちは互いにどちらの兵士か判別できるように色を決めているらしい。戦闘車両や服などのわかりやすいところに自軍の色の布をまいていたりする。

 ちなみにわたしたちは赤。敵は黄色らしい。

「敵の車両や兵士が近づいてきたらコレで撃つ」

「自動小銃……ここでは使えるんですね」

「訓練場じゃケチるけど、さすがにね。前線で使わなきゃアホだよ」

 それもそうか。

「あと、砲弾や手榴弾が投げ込まれたのが見えたら大声で伝えて」

「そんなのが来るんですか?」

「数は少ない。でもいざ来たら大変だよ。身を守る姿勢を取って、すぐに塹壕から逃げる」

「逃げていいんですか?」

「生きたければね。大砲はともかく手榴弾が来るってのは、かなり近づかれてる証拠だ。投げ込まれた直後に突撃されると見ていい。敵の数が少なければ迎撃すればいいけど、分が悪かったら逃げたほうが賢明だね」

「そんなに近づかれるって……見張りが寝てないとありえないような」

「そう思うよね。でも意外と潜んでる人間ってわかりにくいもんだよ。ちょっとの草木のゆれじゃ野生動物と見分けつかないし、迷彩で風景に溶け込まれると、ね」

「なるほど……」

「あと最近はドローン攻撃なんてのもあるからね。上も注意」

「ドローンって、あの、空を飛ぶラジコンみたいな」

「そうそれ。市販されてるトイドローンぐらいの大きさのやつに、カメラやレーザー、爆弾を搭載したものもある」

「ええ……かわいい見た目で、えぐいことを」

「もっと大きくて重さも何トンもあるやつもあるね。そっちはどちらかというとおもちゃより航空機に近い見た目かな。ひとくちに軍用ドローンと言っても、いろんな種類があるんだよ。無人だからほぼノーリスクで攻撃できるのは大きいね。戦争も日々進化してるってこと」

「勉強になります」

「見落としたらあの世へようこそってね。生きたかったら、気を抜かないこと」

 会話の途中も水崎さんの目は、塹壕の外を鋭く睨んだまま微動だにしていなかった。

 目は口ほどに物を言う、だ。ことわざの本当の意味とはちょっとちがうけれど。

 わたしも集中することにした。

 集落のときとはちがって水崎さんとおしゃべりできる時間はそれほど長くないのだろう。

 やっとイメージ通りの空気感になってきた。

 双眼鏡を使って塹壕の外の平原をじっと眺める。

 一面の土と草。

 遥か先まで連なる茶色と緑色の景色。吹く風にざわざわと葉がこすれる音。

 ちょっと牧歌的な風景だ。

 YouTubeとかの動画サービスでたまにオススメされてくる、ヒーリング音楽と一緒に映し出されるような風景に似ている。

 ここが戦場なのだとあらかじめ知らなかったら、警戒する気にもならないと思う。

 それから何分ぐらい経っただろうか。もしかしたら何十分かもしれないが。いずれにせよ景色にはちっとも変化がなく、ただただ時間だけが過ぎていく。

 小さい頃の自然公園でのことを思い出した。

 幼稚園だったか小学校の低学年だったか、昔すぎて曖昧だけれど、とにかくいまよりもずっと幼いときだ。引率の先生に連れられて、大勢の児童たちといっしょに行ったそこは土の茶色と草の緑色が目立つ場所で、誰がいちばんたくさんのバッタを捕まえるか競ったものだ。

 そういえばあのときのバッタも土や草の色にまぎれて見つけにくかった。よく目を凝らしてもぜんぜん気づけず、目の前でとつぜん跳ばれて初めて悲鳴とともにその存在を認知したのだ。

 ふと不安がよぎる。

 もしかして、わたしはすでに致命的な見落としをしてしまったんじゃないか?

 巧みに風景に溶け込んだ敵兵士がいまにも突入の準備をしている──そんな妄想が頭に浮かんで、いやな汗がおでこを伝う。

 今回はバッタじゃない。悲鳴を上げてしりもちをつき泣きべそをかくだけじゃ済まない。

 手榴弾が跳ねたら、死んでしまう。

 弾丸が顔に飛んできたら、そこで終わりだ。

 それに自分だけじゃない。他の兵士たちにも大きな被害が出る。

 水崎さんにも。

 絶対に見落としちゃ駄目だ。……あっ、草がゆれた。いつでも撃てるようにしなきゃ、と指に力が入る。

 見失ってはいけない。目が痛いくらいその場所をじっと見つめる。

 さあ出てこい。出てきたら絶対に見逃さない。絶対に失敗しないぞ、……と。

 いま、わたしはどんな目をしてるんだろう。

 血走った殺人者の目? そうかもしれない。

 だけどそれを不細工だと言われてもやめるわけにはいかない。

 時間の感覚もよくわからない顔の見えないにらめっこ。笑ったら負け、ぐらいで済めばいいけれど、目をそらしたら死ぬ、なのだ。

 がさりとふたたび草がゆれて、わたしの肩もぴくりと跳ねた。

 黒い影がばっと飛び出してきたのが見えて、引き鉄にかけた指を押し込もうとして……。

 だけど、草から出てきたのは、人じゃなくて鹿だった。

 あぶない……。無駄に発砲してしまうところだった。

 止めていた息をふぅと吐き出して、同時に、全身の緊張がほどけて筋肉がゆるんだ。

 ゆるんでしまってから、はっとして身がまえる。

 何をほっとしてるんだ、わたしは。

 マークしていた草むらがハズレだったのだから、べつの場所から敵に近づかれていたら、気づけていないってことじゃないか。

 まずい。どうしよう。わたしのせいで、ここの兵士さんたちが……。

「凛子」

「え。わ。ご。ごめんなさっ。見失っ──」

 水崎さんのあきれたような声が聞こえる。

 声をかけられたんだし顔を見なきゃと思うけど、平原から目を離したらいけない気がして、あたふたしてしまう。

「──てないよ。だいじょうぶ。それよりさ、ちょっと張り詰めすぎ」

「え、でも、ちゃんと見られてなくて」

「凛子が見てないほうは私が見てた。誰も来てないよ。だから、落ち着いて」

「は、はい。あっ。あそこ、いま、何かが……」

「落ち着けってば」

 あごをつかまれたと思った直後、平原の風景からぐいっと横に九十度のスクロール。

 水崎さんのきれいな顔と正面から向き合う形となった。

 あきれたような、哀れむような、それでいてちょっと笑いをこらえるような表情で彼女はわたしを見つめていた。

「凛子のさ、目の、黒いところ……瞳っていえばいいのかな。それが、おもしろいぐらいぐりぐり動いてたよ」

「え、あ、えっと……ごめんなさい。敵を見逃してたらどうしようって、どうしたらいいか、わからなくなっちゃって」

「緊張してるね」

「緊張、なんでしょうか?」

「たぶんね。そっか、凛子はここで来るタイプかぁ」

 くすくすと笑いながら言う水崎さん。その目はいまだそらすことなくわたしの目を見ていて、わたしもその透明感のある瞳に吸い寄せられたように目が離せない。見張りの任務の途中なのに、ほんとうは平原のほうを見なきゃいけないのに。

「移動中はぜんぜん平気そうだったのに」

「あのときは……実感が薄かったんだと、思います。いざ、敵が来るかも、ってなったら、集中しなきゃ、って」

「ま、集中は大事だね。凛子の集中力はずばぬけてるし、そこは現場でも健在で安心したよ」

 集中力をそこまで評価されていたとは知らず、わたしは驚いた。水崎さん曰く、最初の雑居ビルでの試験でわたしの集中力を高く評価していて、それが入社の決め手になったのだという。

「でも集中状態って疲れるから。忍耐勝負の見張りでそれはしんどいよ。居酒屋バイトにたとえるとさ、凛子、いま、両手にたっぷりビールのトレイを持ちながら全部のテーブルからの注文を聞いてる感じ」

「あー……」

 バイトにたとえてもらえたら妙にしっくりきた。そうか、わたしはいま、無理なことをしていたのか。

「周辺視野も使いながら、ぼんやり構えてな。それでじゅうぶんだから」

「わ、わかりました」

 ぺこりと頭を下げて、もういちど平原のほうを向く。

 景色の見えかたがだいぶ変わった気がした。

 敵の迷彩服を覆い隠す悪辣なトラップにしか見えなかった茶色と緑が、いまは、ただののどかな自然の風景にしか見えなくて。

 故郷から遠く離れた異国の紛争地域は、銃声も爆音も響くことなく、ただおだやかな風に吹かれていた。


 はじめての見張り任務は何事もなく終わった。敵の接近も、ドローンの襲撃もなくて、代わり映えのしない平原をただじーっと眺めているだけで時間が過ぎてしまった。

「ま、こんなもんだよ」

 と、水崎さんは、本当にこれでよかったのかと不安がっていたわたしを安心させるように、微笑みながらそう言った。

 拍子抜けのような気持ちもあるし、同時に、ほっとする気持ちもあった。正直なところ人の頭が弾け飛ぶところや出血といったグロテスクでショッキングな場面を目撃してしまうだろうと覚悟していたぶん、平穏な自然の風景を眺めるだけで終わったことに心が消化不良を起こしていた。だからといってもちろん残虐シーンを期待していたわけではない。ただ、たとえそれがネガティブな予想だったとしても、予想とまるでちがう未来が訪れると、なんだか神様に見放されたみたいな、本来あるべきピースがはまってないパズルを見たような、心もとない感覚になってしまうのだ。

 そんな気持ちを素直に話したら、携帯口糧(戦場で食べられる食糧セットみたいなもの。小さな箱の中に缶詰とか袋とかが詰まってる)の缶詰をあけようとしていた水崎さんが、初々しいねぇと目を細めた。

「それはさ、つまり、パズルの完成形を誤解してたんだよ」

「誤解……」

「うん。はじめての戦場なんだし、とうぜんだよね。完成形なんて知りっこない」

「後方の訓練場や集落は意外と銃声とかしなくても、そんなもんかぁと思えましたけど。前線でも、なんて、さすがに思いませんよ」

「もちろん最前線はやばいよ。もう、どんどんぱちぱち。下手したら死ぬし、死ななくても何針も縫う怪我をしたり」

「ここも、その『前線』なんじゃ……」

「前線だよ。いちおうね。でもたぶん、ふつうの前線とはちょっとちがう」

「え?」

「うん、まあ、説明すると……あー、やめとこう。まだ、やめとく」

「え、え、なんではぐらかすんですか」

 映画の予告編じゃあるまいし、もったいぶらなくてもいいのに。

「経験則っていうのかな。それで、今回の戦場はこのパターンだな、っていうのはあるんだけど。あんまりそれを新人に教えるのはよくないかなって。経験の伴わない思い込みとか、いちばんの害悪だろうし。凛子がこれまでやってきたアルバイトでも、そういうこと、あったでしょ」

「パターン……このタイプのお客さんは面倒だな、とか。そういうのですか」

「そうそれ。店に入ってきた瞬間から、なんとなくわかるでしょ」

「たしかに。何度か経験ありますね」

 言われて、水崎さんの言葉がようやくすとんと胸に落ちてきた。

 そういえば、飲食店でのバイトをはじめてから半年も経ったときには、お客さんの顔を見ただけでなんとなくこれから起こることの予想がつくようになっていた気がする。顔で人を判断するな、偏見は悪だ、中身を見ろ、といわれる昨今だけれど、もちろん個人個人の誤差はあるとして、それでも傾向とか確率みたいなものはたしかに存在した。

 たまに、あれ、この人ってあの常連さんかな、と見間違えてしまうほど似た顔立ちの人が来ることがあって、たいていの場合、声の大きさとか好きなお酒の種類とかが似ていて、集団の中での立ち位置もほとんど同じだったりする。

 団体様の名称はなんとか大学なんとかサークルだったり、株式会社なんとかだったり、NPO法人なんとかだったりさまざまだけれど、どの集団の中でも似たタイプの人が似たようなポジションに収まっていた。

 実は最先端のIT企業が開発したアンドロイドで、幹事型、盛り上げ役型、自慢話が大好き型と各種取り揃えております……みたいな世界がわたしの知らないうちに誕生していたのだといわれたら、思わず信じてしまいそうだ。

 とまあ、とにかく客の特徴には傾向があって、そのおかげで未然にトラブルを防いだり、有利な立ち回りができたりしたものだ。

 でもそれは長く働いたことで、何百パターンもの接客を学習して手に入れた経験則だ。似ているけど、あてはまらない、例外みたいなものも直感的にわかるようになっているし、顔立ちが似ていても集団により立ち位置がまったく異なるような顔のタイプ、というわかりにくい属性も理解できるようになっていたからこそ応用できた。

 もしも肌で経験せずに知識だけで、この顔の人はこういう客だから、と教えられていたら、たぶん思い込みでとんでもなく失礼な接客をしていたと思う。

 それこそ、偏見の、最悪の露呈だ。

「わかりました。じゃあ、聞きません。我慢します」

「うん、そうして」

 ああ、でも、ひとつだけ凛子に今日から使える偏見を伝授しよう、と水崎さんはにやりと笑ってこう言った。

「このパッケージのやつは、かなり当たり」

 まずいと評判だという携帯口糧にも当たりはずれがあるらしい。わたしも水崎さんにならって缶詰をあけて、何かよくわからないお肉(うさぎらしいけれど、本物を食べたことがなかったので真偽不明)を食べてみた。

 たしかにそれはおいしくて、わたしの中にひとつ、戦場の経験則が追加されたのだった。


 銃撃戦が起こることなく二日が経過した。わたしは何も起こらなすぎてサバゲーごっこでもしてるのではと疑いかけていたし、正直、今日もまた代わり映えのしない見張り生活なんだろうなとすこしナメていたというか、気が抜けていたんだと思う。

 だから、見張りのときに使っていたのとはちょっとちがう自動小銃(アサルトライフル、というらしい)と手榴弾を渡されたときには頭が真っ白になっていて、水崎さんに脇腹をつっつかれてようやく我に返った。

「なにぼーっとしてるの。突撃だよ、しっかりしな」

「え、え、あ、はい」

 こんなこと言ったらなにをファンタジーなことをとあきれられてしまうかもしれないが、目が覚めたら塹壕から出て平原を歩いていた。すくなくとも、感覚としては、そう。白昼夢でも見ていたようにぼんやりしていて、思考力ゼロで、ただただ水崎さんの背中を追いかけていた。

 あぶない。なにやってるんだ、わたし。

 昨日までのわたしたちがそうしていたように敵もわたしたちを発見し、撃退しようと目を光らせているはずだ。ぼーっと突っ立ってたら、あっさり撃ち殺されてしまうだろう。かかしを撃つよりラクだぜと爆笑されている光景が目に浮かぶ。

 でもさいわいにもわたしはまだ生きていた。まだ撃たれていなかった。

 水崎さんにならって姿勢を低くして、草葦の隙間に溶け込むように意識する。意識したところで敵からの見えかたが変わるわけもないけれど、わたしは草、わたしは草、どうか見つかりませんようにと念じてしまう。

 祈りが通じたのかどうか、わたしたちは難なく歩を進めていけた。途中、水崎さんが気にかけてこっちを向いた。だいじょうぶですとうなずいて見せたら、彼女はわずかにほほえみを浮かべてまた前に向き直った。

 そしてわたしたちはついに敵の塹壕を見つけた。塹壕と言っても草むらに隠れるようにしてあって、ぱっと見にはわからないようになっていたけれど、よく見ると人の手が入ったような跡がある。

 敵が潜んでいるのだろうか。こちらの塹壕と同じように大勢の兵士が詰めかけているのだろうか。わたしと水崎さんを含めて七人。この少数の部隊でほんとうに太刀打ちできるのかな。いや、できると判断してるからこその編成なんだろうし、そこを疑ってもしかたないのだけれど。

 水崎さんが手信号で指示を送ってくる。ここから先はハンドサインを使って進むことになるのだそうだ。事前に取り決めておいた簡単な合図を覚えてくれればいいからと言われてはいたが、実際に覚えるのはなかなか大変だった。

(止まれ/しゃがめ/私/行く)

 ハンドサインでそう表現し、水崎さんはすぐに走り出した。敵地にたったひとりで潜入していくスパイみたいだと思った。わたしは彼女の背中を見失わないように注意しつつ、言われたとおりにしゃがんで待機した。

 水崎さんは草むらに身を隠して塹壕の中を注意深くうかがっていたが、やがて「来い」のサインでわたしたちを誘った。

 身をかがめながら近づいていく。足音はだいじょうぶだろうかと心配になる。ただ歩いているだけなのに、心臓がばくばくいっていて苦しかった。

 七人の兵士がそれぞれべつの入口付近に陣取って、互いにサインを送り合う。わたしはただ水崎さんの手の動きだけに集中し(複雑な作戦は無理だろうからそれだけでいい、と事前に言われていた)、自分のやるべきことを理解する。

『三秒後に手榴弾を投げ込め』

 彼女の細くてきれいな指が三の数字を作る。

 タイムリミットが設定されてどきりとするが、わたしはすぐに冷静になれた。手榴弾の投げかたは、後方での生活で水崎さんにたっぷり教えてもらった。スムーズな安全装置の外しかた、投げるときのコツ、そういったマニュアルは頭のなかに入っている。

 きちんと手順さえ教えてもらえれば覚えられる。アルバイトと同じだ。

 こんな大事なときだというのに我ながらあきれたことに、わたしは、中学校時代の体力測定の時間を思い出していた。ハンドボール投げの時間を。肩の強さ(投擲力というらしい)を記録されるあの時間は、当時のわたしには、無意味に思えたものだった。

 物を遠くまで投げられるかどうかなんて、野球選手かソフトボール選手ぐらいにしか役に立たない指標では? それともゴミ箱に向けて丸めたティッシュを投げることでも推奨されているのかな? 人生で他に投擲力を生かせる場面なんて存在するんだろうか? と、あのときはそう思っていた。

 ごめんなさい、体育の先生。いま、役に立つときがきました。

 ……と、どうでもいいことを考えてる場合じゃない。水崎さんの指の動きに集中しないと。

 あわてて気を引き締めるが意外にも時は止まっていたらしい。数字はまだ二で、それを認識したとたんに一に減っていき……。


(GO!)


 水崎さんの右手が、鞭みたいにしなった。

 合図に合わせて他の兵士たちがつぎつぎに、塹壕へ向けて手榴弾を投げ込んでいく。

 わたしもすこし遅れて安全装置をはずすと、山なりの軌道を心掛けながら思いきりぶん投げた。

 余談だが、わたしのハンドボール投げの結果はなかなかのものだった。体力測定で女子平均を遥かに超える数字を記録し、無事、細ゴリラの称号を手に入れた。ちっちゃくて、細身なのにゴリラみたいな身体能力、という意味らしい。正直まったくうれしくなかったかというとそんなこともなく、褒められたという事実だけでもちょっとこそばゆくて、でもやっぱりゴリラはなぁみたいな複雑な気持ちになったものだ。

 だから手榴弾はきれいな放物線を描いて軽々と塹壕の中に吸い込まれていき、直後、耳をつんざくような破裂音を響かせて爆発した。爆発はあちこちで連鎖的に起き、砂けむりが舞う。

 行くよ、と水崎さんは手信号で示すと同時にアサルトライフルを構えて駆け出した。置いて行かれないようにわたしも彼女の背中を追いかける。

 砂塵のせいで視界が悪い。

 中にいるだろう敵にとっても条件は同じ、あるいは不意打ちを食らっているぶん不利だと思うけれど、攻めるこちらにとってもけっしてやりやすい環境ってわけじゃなかった。

 敵の影は見えない。足音とか気配とか気づけなかったら死んじゃうから、空間のすみずみまで触手を伸ばすようなイメージで全身全霊で集中した。アメーバをリスペクト。

 アメーバとは単細胞で鞭毛や繊毛を持たず、仮足で運動する原生生物の総称である……と、昔、ネットで調べたらそう出てきた。なんでそんなことを調べたのかといえば、当時わたしには微生物への一種の憧れみたいなものがあったからだ。

 何かを期待されたり求められたり詰められたりすることなく、ただ存在しているだけの悠々自適な生き物。もっとも微生物がどんな世界を見ていて、なにを考えているのかなんてわからないし、もしかしたら彼らには彼らなりの苦しみがあるのかもしれなくて、隣の芝生は青いだけかもしれないのだけれど。

 話を戻そう。

 とにかくわたしは生き残るためにも敵影の存在に目を光らせていた。

 死なないために気を張り詰めていた。

 だから、油断してしまった。だからこそ、油断してしまったんだと思う。


 結論からいえばその塹壕には敵の兵士はいなかった。より正確に言うならば、生存している敵の兵士はいなかった。

 横穴の、救護室の役割を担っていたのだろう空間に死体があった。

 お世話になった集落の人と同じ人種の人だ。横たわったまま目を閉じてぴくりとも動かない。大量の出血の痕跡があって、どう見ても死んでいる。

 本物の死体を見たのははじめてだ。でも、思ったよりも冷静でいられた。

 もともと特殊清掃のバイトをしたことがあって、ふつうの人よりも死というものへの距離が近かったからかもしれないし、それとはまったく無関係に死体という存在が思ったよりもグロテスクなものではなかったからかもしれない。原形を留めている状態であれば寝ている人間と大差はないから。

 ともあれわたしは大きなショックを受けることなく目の前の光景を受け入れられた。

 彼らが死んでいると断定したのは水崎さんだ。彼女は死体に触れ、脈がないことを確認していた。ためらいのないしぐさは経験の豊富さを物語っていて、やっぱりプロの傭兵なんだなとあらためて感じてしまう。

 さっきの手榴弾で? と質問したら、水崎さんは、ちがう、と即答した。

 水崎さんが言うには攻撃用手榴弾は殺傷能力そのものはけっして高くないらしい。もちろんそれは兵器基準での「高くない」であって、人殺しのための武器であることには変わりないのだけれど。今回襲撃で使用した手榴弾は相手の動きを止めるのが主目的で破片の飛散も少なめ、何針も縫う重傷を負うことはあっても、使用されたら即座に命を奪われるようなものではないのだという。

「たぶん四、五日前ぐらいかな、死んだのは」

 死体の様子をすこし見ただけで水崎さんはそう言った。

「わかるんですか?」

「適当だけどね。戦闘で負傷して治療が間に合わずにこときれたんだろう」

「四、五日前というとわたしたちが来るより前ですね」

「ああ。どうやら交代前の部隊が派手に応戦してたらしいね。ま、それであるていど押しこんだ手応えがあったから新人──凛子を含む人員と交代したのかも。予想どおり、このパターンだったわけだ」

「あ、そういえば言ってましたね、パターンの話。それって、つまり……」

「この塹壕は放棄されてる。とっくに敵兵は撤退して、いなくなってたってわけ」

 彼女は肩をすくめてそう言った。

 たしかにここにはわたしと水崎さん、そしていっしょに突撃した味方の兵士しかおらず、敵の姿はひとりも見当たらなかった。見落としがないようにと他の人たちがいろいろな穴を調べて回っているが、どこもかしこも、もぬけの殻みたいだ。

 正直、拍子抜けした。

 水崎さんの見立てが本当ならわたしたちが前線に来たときにはもう敵兵はこの塹壕を捨てていたってことだ。あんなに恐ろしい思いをして平原を見張ったのに、潜伏しながら近づいてくるどころか、いちばん近い拠点にさえ敵はいなかったのだ。見えない敵に怯えて空回りしていたみたいでなんだか恥ずかしかった。

「あそこまで敵に動きがないってのは、ね。だいたいこのパターンなんだ。とはいえ何事も絶対はないからね。こうして敵の不在を確定させるまでは凛子には言わずにいたんだ。変に油断して、もし敵がいたら大変だからね」

「お気遣いありがとうございます。……でも、見張りのときはほんとにどきどきしてたんで。教えてくれたらもうちょっと気楽でいられました」

「戦場で気楽になられても困るんだってば」

「あはは」

 自然と笑みまでこぼれてしまう。

 ほっとしていたのだ。

 ここまで気を張り詰めてきたから、敵がいなくて戦闘せずに済んだことで一気にゆるんでしまったのだ。

 だからよけいなことをしてしまった。

「こういうときってどうすればいいんですか? 何か使えそうなものを奪ったり、敵兵の情報を仕入れたりするんでしょうか?」

「えっ。あ、ちょっ待っ──」

 何気なく質問しながら、わたしは、死体の近くに落ちていた荷物(食べ物とかが入っていそうな箱)に手を伸ばした。

 視界の端にあわてたような水崎さんの顔は入っていたし、頭ではいちはやく、あ、いま自分はなにかまずいことをしている、と感じていた。

 けれど人間の体は困ったもので。

 感じてから肉体が動くまでにはタイムラグがあるようで。

 だめだとわかっているのに、止まれなかった。


 最後の記憶は、鼓膜が二、三枚まとめて破れてしまいそうな壮絶な爆発音だった。


 ………………………………………………。

 ……………………。

 ……。

 何が……あった、の……?

 思考は、できてる? だったら、生きてる?

 目は開いているような気がするけれど、薄暗い部屋の中にいるからだろうか、いま自分がどこにいるのか、はっきりわからない。見えてる世界が、白いもやで覆われてる。割れたスマホの画面みたい。指で押したら、変な液が、みょって拡がるみたいな。もやもやが、拡がって、見える範囲が狭くなってく。

 様子を確認したくて、首を動かそうとする。……でも、動かない。首から下も、動かない。

 横たわっていて、寝ぼけているんだとしても、指くらいは動かせそうなものなのに。

 頭がいくら指を動かせと命令しても指が動いてる感覚を得られない。

 Wi─Fiが通っていない場所でスマホをネット接続しようとしてもうんともすんとも反応してくれないように。スマホが悪いのか、回線が悪いのか、全国的な通信障害か。再起動すれば直るかな。なに考えてるんだ、わたし。わたしはスマホじゃないし。でも、そうか。再起動。もっかい寝れば。寝て、起きれば。直ってるかも。

『おまえは、よけいなことばかりして!』

 変な声が聞こえた。聞こえるはずのない声だったので、たぶんこれは幻聴だ。

『おなかがすいたなんて、他人様の前で言うな。恥をかかせるんじゃないよ!』

 もうここ最近しばらく聞かなかった、あの人の金切り声。耳をふさぎたいけれど、手が動かなくて。耳の奥に、頭のなかに、勝手に響いてくる。

『どうして、あたしだけがこんな目に。あたしの人生は、あたしだけのものだったのに』

 ごめんなさい。わたしが悪いんだよね。怒らせちゃったわたしの責任。

『おまえなんか、家族じゃない。おまえみたいな役立たずのせいで、みんなが迷惑する』

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 この声が幻聴だってことはわかってる。いまわたしは故郷から遠く離れた戦場にいて、作戦中で。家族が、あの人たちが、来られる場所じゃない。それでもわたしは、心のなかで、ごめんなさい、と言いつづけた。

 家族に対してじゃなくて、仲間の兵士たちに。いや、誰よりも、水崎さんに対して。

 だんだん思い出してきた。

 わたしは、たぶん、敵の残したトラップみたいなものを、踏んじゃったんだと思う。

 迂闊で、愚かで、そして、致命的だった。

 よけいなことばかりして。指導してくれてた水崎さんに恥をかかせて。役立たずで。

 取り返しのつかない迷惑をかけてしまった。

 だから。

 ……ごめん、なさい……。

「お。目、覚めた? よかった。専門知識もないくせに適当に調合した、私お手製の麻酔だったからさ。このまま起きなかったらやばいなーって思ってたんだ」

 きれいな声が聞こえた。最近聞きなれたいちばん安心できる声。これは、幻聴であってほしくない。

 あっけらかんととんでもないことを言われたような気がするけれど、まだ頭がぼんやりしていて、ツッコミを入れられそうになかった。

「無理しなくていいよ。傷口は縫っておいたけど、麻酔切れたらまだ痛いだろうし」

 傷口……? わたしはどこか怪我をしてるのかな。もしかして、死にかけてたりもするんだろうか。

 頭がぼーっとしているのは麻酔のせいか。だめだ、考えがまとまらない。

 せめて水崎さんの顔が見たいと思って、一生懸命、目を凝らす。彼女の声が聞こえるほうを見つめたら、ぼんやり、顔らしき輪郭が見えてくる。

「先に教えておけたらよかったね。私にはあたりまえすぎて、すっかり忘れてたんだ」

 そんな。申し訳なさそうな声を出さないでほしい。

 戦場で油断は言語道断。死のリスクと隣り合わせ。あんなの教わらなくたって気をつけなきゃいけなかった。

「あれはブービートラップって呼ばれるたぐいのやつでね。撤退するときに、そこを漁るであろう敵を攻撃するために罠を残しておくんだ。死体の装備に仕込んだり、あからさまな物資に仕掛けたりね。知ってりゃかんたんに回避できるんだけど、初見じゃ見分けるのは無理だと思う。しかたなかったよ、あれは」

 でも、わたしのせいで。わたしだけじゃなくて、ほかの人にも迷惑をかけてしまった。

「それに私がすぐに気づけたからね。ギリギリで助けられた。凛子以外には被害もないし。ちょっと大きめの破片が、凛子の脚に刺さっちゃったけど……まあでも、殺傷力がヤバいやつじゃなくて助かったね。脚も落とさなくていいし、一週間もすれば、動けるよ。ちょっと痛むだろうけどね」

 ほかの人、無事だったんだ。水崎さんも。ならよかった。最低最悪のポカだけれど、その情報だけでもすこしは救われた。

「凛子は悪くない。悪いのは教えそびれた私と……あと仕掛けたやつら」

 おかしいな。感覚がないはずなのに、なぜか、いま、彼女に何をされているのかわかる気がした。

 細くて、きれいで、だけど強い手。

 それが、わたしの頭をやさしく撫でている。

「だからさ、そんなふうに寝言でまで謝らなくていいよ」

 ああ……気持ちいいなぁ……。幸せだなぁ……。

 体も動かせずに、意識も朦朧としているくせに、なんて呑気なやつだと笑われるかもしれないけれど。

 でもたしかにわたしはいま、幸せを感じていた。

「聞こえてるみたいだし、先輩として、凛子の、はじめての前線任務の成績を発表しよう」

 ぼーっとした頭でも、なんとなく答えはわかった。芯の通った水崎さんなら、己の基準をそうかんたんに変えたりしないはずだ。

 徹頭徹尾、初志貫徹。

 はじめて会ったあの日から、水崎さんがずっと「その基準」で戦場と向き合ってきたんだって、わたしは知っている。

「100点だよ。安心して眠りな、凛子」

 はい、と。

 水崎さんの声と手のひらに身をゆだねて、わたしはゆっくりと意識を手放していった。

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姉妹傭兵 三河ごーすと/MF文庫J編集部 @mfbunkoj

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