バクしかいない動物園

戸川昌

バクしかいない動物園


 今がいちばん可愛い時期だよね。妻は嬉しげにそう言うと、小さな寝息を立てている娘の、ピンク色のほっぺを指でつっつき、朝だよ、と、わざと小さな声でささやく。娘は目を閉じたまま身をよじらせる。カーテンを開くと、春の朝日が部屋を明るくする。今日は三人で動物園に行く日だ。


 離乳食を食べさせて、歯みがきさせて着替えさせて、予備のおむつと粉ミルクを準備し、水筒にお湯を入れて、適当なおもちゃを選んでバッグに詰め込む。娘にとっては生まれて初めての動物園だ。本物のゾウやキリンやライオンを見せてやりたい。きっと良い刺激になるだろう。


 車の揺れが心地良いのか、娘はチャイルドシートの中で悠々と二度寝する。到着後、車から降りてベビーカーに乗せても、ずっと眠りの中にいる。そんな娘の寝顔を、スマホのカメラで撮る。チケット売場を目指すベビーカーの車輪が、アスファルトと擦れてガタガタ鳴る。


 大人ふたりとゼロ歳児ひとりです、と言うと、本日サバンナエリアと高原エリアと鳥類館と昆虫館とふれあい広場は休園ですがよろしいですか、と言われる。よろしいも何も、それってほぼ全部休園じゃないですか、と思わず言ってしまう。はい。申し訳ありませんが、開いてるのはバク舎だけですね。バク舎?


 本園は世界有数のバク飼育施設を備えておりまして、実は本園にいる動物の半数以上がバクなのです。きっとお楽しみ頂けます。なるほどね。どうする? バクねぇ。まぁせっかく来たんだし、ひとまず入ろっか。


 入園ゲートを抜けると道なりにショップがあり、なるほど確かにバクのぬいぐるみばかり店頭に並んでいる。地図を見ながらバク舎を目指す。突然娘が大はしゃぎで駆け出すので、妻が慌てて、転ぶよ! と声を出す。娘の後ろ髪が太陽の光を受けて、柔らかな栗色の輝きを放つ。


 バク舎は大きな駅のような構えで屹立していて、そこ以外どこにも行くあてのない人々を入口に呑み込んでいる。入ってすぐのところにマレーバクの展示がある。大きなガラス板の向こう側に、白黒模様の動物が水浴びする光景が見える。どうやらあれがマレーバクらしい。


 娘は掌をぴったりガラスにつけて「バクって初めて見た」と言う。案外かわいいね、と妻が横から話しかける。「うん。白黒の模様がかわいい」娘は首から下げたスマホをガラスに向けて、何枚も写真を撮る。妻はそんな娘の様子をスマホで撮る。


 バクの写真がパネルで展示されている。ジョージ、まさお、さくら、春太、などといった名前がならぶ。「うちのクラスにも春太くんいるよ」と娘が歓声を上げて、パネルの写真を撮る。クラスメイトの誰かに画像を送るつもりだろう。


 順路に沿って歩くと、アメリカバク、ヤマバク、インドバク、タスマニアバク、アンデスバクと展示が変わる。世界有数のバク飼育施設という触れ込みはどうやら本当らしい。バク舎の廊下は果てしなく、途中でベンチに座りたかったが、空いているベンチが一向にない。


 ようやく空いたベンチを見つけて、三人で横並びに座る。娘はスマホばかり見ていて顔を上げない。飲み物でも買ってこようか、と言うと「いらない」と不機嫌を隠さずに吐き捨てる。心底帰りたいと言うかのような態度に内心閉口する。娘は何かの動画をひたすらスワイプする。画面をタップする親指の爪に、星屑のようなラインストーンが煌めく。


 また歩き出してしばらくすると、屋内の喫茶スペースが見えてくる。バクの模様をあしらったソフトクリームが売っていて、「食べたい」と娘が言う。長蛇の列、というほどではないがそれなりに列が伸びていて、妻と娘が最後尾にならぶ。ふたりがならんでいるのを遠目に、少し離れた位置で待つ。


 列の中の娘は、隣に立つ背の高い男と何やら楽しそうにしゃべっている。やがて娘はソフトクリームをひとつ買うと、自分が食べるより先に、男の口元にソフトクリームを差し出して食べさせる。その様子を見ていると妻がやって来て、バクソフト、胡麻とバニラだって、と言ってこちらに差し出してくる。ひとくち食べると、確かに胡麻の甘さだ。うまいね。おいしい。ちょっと高いけどね。まぁね。


 娘と背の高い男は連れ立って前を歩く。灰色のシュシュでまとめた長い茶髪が、娘の背中で揺れている。娘と男は歩くのが速いので、どんどん前へ行って遠くなる。コビトバク、ジャワバク、マダガスカルバクモドキ、サソリバク、ワニバクと展示が続く。やがて屋外に出ると、世界最大のバクであるアフリカバクが柵内を闊歩している。


 アフリカバクは石柱のような四肢で地面を踏みしめて、ゆっくりとこちらへ向かってくる。せっかくだから四人で写真を撮ろうかと思うが、背の高い男がいつの間にかいない。娘は柵に手をかけて、ひとりでバクを眺めている。妻が隣に歩き寄り、何か話しかけるが、娘は応えずにバクを見つめる。バクも娘を見つめ返す。結局、バクを背景にして三人で写真を撮る。インカメラにして肩を寄せ合って撮ると、写真の中のアフリカバクはそっぽを向いていて、娘と同じ遠い目をしている。


 背の高い男はもう二度と戻らないようなので、三人でカフェレストランに入り食事をとる。娘はバクカレーを半分以上残す。バク舎の展示はあらかた見終わったので、そろそろ帰ろうか、という雰囲気になる。


 娘が「帰り運転しようか」と言うので、任せることにする。車の揺れが心地良く、助手席でうとうとしてはっと気が付くと、フロント越しに見える前の道が、明滅するピンク色の靄に包まれてどこまでも光っている。どうやら来た時とは違う道を通っているらしい。娘は車の窓を全開にする。


 運転中の窓の外から、ピンク色の花弁が入ってくる。ハンドルを握る娘の手の甲に舞い落ちる。襟足で切り揃えられている娘の黒髪に舞い落ちる。乾燥して皺の目立つ娘の頬に舞い落ちる。わぁきれい、と妻が童女のような声を出す。かなり散ってるね。今年の桜も終わりか。早いね。一瞬だね。


 娘が不意に「今がいちばん綺麗な時期だね」と言う。「満開の盛りよりも、散ってる時の方が」そうね、今がいちばん。妻が応えて笑う。


 車外の桜並木を撮ろうとするが、走行中なのでうまくいかず、ぶれたものしか撮れない。スマホのアルバムを開く。たくさんのバクの写真の連なりの中にひとつだけ、ベビーカーで眠っている小さな赤子の写真があった。



〈了〉

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バクしかいない動物園 戸川昌 @TogawaAkira

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