大店の呼び出しと畏れ多き神の名

 ヒキガエル殿様の城を後にしてから、いろはたちの旅は、どこか安定したリズムを刻んでいた。行く先々の集落で露店を広げ、いろはが日々の感興のままに絵を描き、フサマロがそれを売り、時には妖たちから舞い込む小さな依頼を四人でこなす。裕福とは言えないまでも、食うに困らないだけの稼ぎを日々得て、西へ東へ、はたまた北へ、風の向くまま気の向くまま、えっちらおっちらと旅暮らしを続けていた。


 そんなある日の昼下がり。一行が、とある町の辻でいつものように露店を広げていると、一人の風変わりな妖が、まっすぐにこちらへ向かってくるのが見えた。齢は若く見えるが、その身にまとっているのは、美しい緑色の、まるで大きな葉を重ねて仕立てたかのような、上品で格式高い装束。その立ち居振る舞いからは、どこかの高貴な方に仕える者であることがうかがえた。


「もし。こちらが、絵師のいろは殿が開かれておるという露店でお間違いないかな?」


 その妖――芭蕉精は、一行の前で足を止めると、涼やかな、しかし芯のある声で問いかけた。

 フサマロが、すかさず商売用の笑顔を浮かべて前に出る。


「はい、さようでございます。これはこれは、どちらかの名のある方の御使いとお見受けいたします。どうぞ、お気に召したものがあれば、何なりとお申し付けくださいませ。いろは先生の描く絵は、それはもう魂を揺さぶる逸品ぞろいでして…」


 いつものように売り込みをかけようとするフサマロを手で制し、芭蕉精の使いはいや、と首を振った。


「いや、用向きはそれではない。我が主より、そなたたちにこれを」


 そう言って、使いは懐から格式ばった意匠の施された一通の手紙を取り出し、フサマロに渡した。

 フサマロは恭しくそれを受け取ると、その場で「どれどれ…」と、仲間たちにも聞こえるように、手紙を音読し始めた。その内容は、この地方一帯の商業を牛耳るという妖の大店「万宝屋まんぽうや」の大元締、天狗頭てんぐがしらからの、正式な依頼の誘いであった。


「万宝屋!この辺りの村や町ならば、どこにでも支店がある大店ではございませんか!これはとんでもない大仕事ですぞ!」


 フサマロは、手紙を握りしめ、目を輝かせて色めき立つ。

 しかし、使いの者は、そんなフサマロの興奮を冷静な一言で制した。


「依頼をお受けいただけるのであれば、まずは大元締様のお屋敷にて、直接お話をお伺いいただくことになります。ただし、大元締様との正式な取引となりますゆえ、その際には、皆様の『屋号』をお聞かせ願いたい。それが我らの習わしゆえ」

「屋号…?」


 聞き慣れない言葉に、いろはが首をかしげる。すると、木陰でうたた寝をしていたネムタマが、大きなあくびを一つしながら、気だるげに説明した。


「…屋号というのはニャ、いわば店の名前、看板のことニャ。どこの馬の骨とも分からん相手とは、大きな取引はできんということニャ…」

「なるほど、確かに我々にはまだ決まった屋号はございませんでしたな。しかし、屋号を決めるということは、いろは先生の名声がさらに高まる、またとない一助になりますぞ!」


 フサマロが、前向きにそう付け加える。


 芭蕉精の使いは、一行の様子を見て、「では、依頼をお受けいただけるということで、よろしいかな?」と確認した。


「屋号がまだお決まりでないのなら、天狗頭様のお屋敷にお着きになるまでに、決めていただければ結構。それでは、私はこの件を報告いたしますので、これにて失礼する」


 芭蕉精はそう言うと一礼し、風のように静かに去っていった。


「ならば、屋敷へ向かう道中でさっさと決めるのじゃ!」


 いろはの鶴の一声で、急遽、一行初の屋号決定会議が、旅の道中で開かれることになった。


「やはり『天下無双・奇跡の絵師団』など、威勢の良いものがよろしいでしょうな!」

「…ニャにを言うか、この狐。そんな大層な名前、恥ずかしくて名乗れんニャ。『眠り猫の昼寝処』くらいで十分ニャ…」

「わらわは、清らかなものがよい。『水鏡の筆』などはどうじゃ?」

「どれもこれも、いまいちピンとこんのう!」


 フサマロ、ネムタマ、ニョロコ、そしていろは。四人でああでもないこうでもないと、様々な案を出し合うが、全くまとまる気配がない。

 ひとしきり議論が紛糾した後、いろはがふと、これまでの出来事を思い返しながら呟いた。


「そうじゃのう…あのビー玉の小鬼も、ふんぞり返っておった蛙の殿様も、そして夢を見ておった柳の精霊も…皆、わらわの絵を見て、最後にはその『心』が温かくなったような、そんな顔をしておったからのう…」


 その言葉に、仲間たちははっとした。


「確かに……いろはの絵は、ただ姿形を写すだけではない。その者の心を描き、そして見る者の心を温めるものやもしれん」


 ニョロコが静かに同意すると、いろはは、その言葉を口の中で転がし、そしてぱっと顔を輝かせた。


「よし、決めたぞ!『心絵屋こころえや』じゃ!妖たちの心を温める絵を描く、それが我ら『心絵屋』じゃ!」

「心を描く…『心絵こころえ』!そして、我々は絵を商う『絵屋えや』と言うわけですな」


『心絵屋』。

 それは、四人が一つのチームとして、ただ絵を売るだけではなく、その絵で誰かの心を救い、温めるのだという、優しくも強い決意の証となったのだった。


 ---


『心絵屋』一行が、芭蕉精の使いに案内されてたどり着いた「万宝屋」の屋敷は、壮大で、そして隅々まで手入れの行き届いた、まさに格式高い大店おおだなの主が住まうにふさわしい場所だった。


「ほぉ…この間のヒキガエル殿様の城とは、また違った豪華さじゃのう。あちらは金ぴかで目が痛かったが、こちらは落ち着いていて、品が良いのじゃ」


 いろはが、見事な庭園や、磨き上げられた廊下を見回しながら感心したように呟く。


「…うむ。こっちの屋敷の方が、吾輩の好みニャ。見てみろ、あの縁側。あそこなら一日中、極上の昼寝ができそうだニャ…」


 ネムタマは、日当たりの良い縁側を見つけ、早くもとろりとした目つきになっている。


「庭の木々も、池を泳ぐ鯉も、全てが見事に調和しておるな。ここなら、わらわも静かに隠居できそうじゃ」


 ニョロコもまた、その清浄な気に満ちた庭を気に入り、好き放題な感想を述べていた。

 一行は、屋敷の世話係に促されるまま、静かな廊下を進み、一番奥にあるという広い座敷へと通された。そして、そこで一行を迎えたのは、齢数千年とも言われる、威厳と風格に満ちた、大きな烏天狗だった。背には漆黒の翼をたたみ、その鋭い眼光は、一行の本質までをも見透かしているかのようだった。


 大元締である天狗頭は、意外にも気さくで、しかしどこか隙のない真面目な雰囲気で一行を出迎えた。


「お前たちが、噂の『心絵屋』か。遠路はるばる、ようこそ参られた。わしが万宝屋の主、天狗頭じゃ」

「これはこれは、大元締様。わたくし、心絵屋の番頭をしておりますフサマロと申します。こちらが主人かつ絵師のいろは先生、そしてご意見番のネムタマ殿と、用心棒のニョロコ殿にございます」


 フサマロが流暢な口上で仲間たちを紹介し、一行はそれぞれに頭を下げた。

 一通りの挨拶も済み、「さて」と天狗頭が居住まいを正すと、座敷の空気がぴんと張り詰めた。いよいよ、本題である依頼の内容が語り始められる。


「単刀直入に言おう。そなたたちに描いてもらいたいのは、数日後に迫った、我が万宝屋の繁栄を支える守り神様との『契約更新』の儀で、中心に奉納する『大絵馬』だ」

「大絵馬ですとな?」

「我らが守り神は、大変気難しい御方でな。並の貢物ではお喜びにならぬ。そこで、湖の主をも呼び出したという、そなたたちの絵の力で、我が神を降臨させるほどの絵馬を描いていただき、今後数百年の安泰を約束する再契約を、成し遂げるための手助けをしていただきたいのだ」

「ほう、つまり、有り難い神様への供物の一つに、我らがいろは先生の絵が使われると、そういうことでございますな!いやはや、光栄の至り!」


 フサマロが、目を輝かせてそう言うと、天狗頭は「左様」と頷き、釘を刺すように付け加えた。


「供物は、神のご機嫌を左右する、儀式の要。くれぐれも、手抜かりのないよう、頼むぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、いろはの胸がちくりと痛んだ。神殿で、自分の絵を「神聖な場にふさわしくない」と、何度も酷評された記憶が蘇る。


(妖たちには気に入られても、やはり、神達にはわらわの絵は気に入られないのではないか……?)


 そんな不安が、一瞬、彼女の心をよぎった。


「…それでニャ、その守り神様の名前は何というのニャ? どんな神様なのか分からにゃいと、絵の描きようもないじゃニャいか」


 ネムタマが、もっともな質問を口にした。

 その問いに、天狗頭は、少しばかり誇らしげに、そして恭しく答えた。


「我が一族が代々お祀りしてきたのは、偉大なる商売繁盛の神、天太玉命アメノフトダマノミコト様じゃ」


 その名を聞いた瞬間、いろはの顔から、さっと血の気が引いた。


 彼女は、その神の名を知っていた。いや、知っているどころの話ではない。天太玉命は、天界でも特に格式高く、神殿の中でも一段と神聖な場所である『奥宮』にまします神。自分のような下級の神格では、奥宮に入ることはおろか、そのお姿を直接拝むことすら許されない。宮の視察に来られる際には、廊下の隅で平伏し、その一行が通り過ぎるまで、顔を上げることも許されなかった、まさしく雲の上の、高貴な神々の一柱であった。


 思いもよらぬほど高貴な神の名に、いろはは恐れおののき、ただ震えるしかなかった。しかし、その恐怖の中で、彼女の頭には一つの大きな疑問が浮かんでいた。


(天太玉命様の神徳は、「商売繁盛」ではない。本来は、祭具や武具などを作る「ものづくり」や「工芸」を司る神のはず……。商売繁盛ではないのでは?)


 いろはの心は混乱し、神殿で感じていたあの息の詰まるような、出口のない憂鬱な感覚に、再び襲われるのだった。


 大元締との謁見を終え、一行は『化生絵屋』の作業場として与えられた、屋敷の中でも特に清浄で、広い一室で今後のための作戦会議を開いていた。フサマロが、大元締から聞き出した画材や絵馬の仕様、儀式までの段取りなどを意気揚々と説明し、皆でひざを突き合わせ、ああでもないこうでもないと具体的な話を進めていた、その時だった。


「…やっぱり、おかしいのじゃ…」


 それまで黙って話を聞いていたいろはが、ふと、深刻な顔でそう呟いた。その場の空気が、ぴたりと止まる。フサマロ、ネムタマ、ニョロコの三人が、不思議そうにいろはの次の言葉を待った。


「天太玉命様は、確かに偉大な神じゃが、その神徳は商売繁盛ではない。本来は、ものづくりや工芸を司る神のはずじゃ。これでは、大元締様の願いと、お祀りしている神様が違っておるではないか?」


 いろはは、根本的な矛盾点を指摘した。


「なるほど…ですが、大元締様は代々、商売繁盛の神としてお祀りしてきたと仰っていましたな。何か、我々の知らぬ謂れがあるのかもしれません。それに、我々は天太玉命様について、名前以外はよく知りませんな。いろは先生は、何かよくご存じなのでしょうか?」


 フサマロが、今後の交渉の材料にするためにも、と軽い気持ちで尋ねた。

 その瞬間、いろはの顔からさっと血の気が引いた。彼女の肩が、微かに震え始める。


「ご存じどころじゃないわいっ!」


 いろはは、ほとんど叫ぶように声を荒げた。


「おぬしたちは、あの方がどれほど偉大な神か、分かっておらぬのか! 天太玉命様は、かの天照大御神様が、天岩戸にお隠れあそばされた時、八百万の神々が途方に暮れる中、天児屋命様と共に岩戸の前で祭祀を執り行い、見事、大御神様をお招きした、それはそれは高貴で、偉大な神なのじゃぞ! あのような偉大な神様を、わらわごときの絵で呼び出すなど…畏れ多いにもほどがありすぎるのじゃ…!」


 いろはは、そのあまりの重圧に、ぶるぶると震え始めた。どうあがいても神殿を思い起こさせるこの仕事、そして何より、描くべき対象が、自分の矮小さを思い知らされるほどに偉大すぎることへの恐怖。彼女の額には脂汗が滲み、組んだ両手が小刻みに震え、もはや隠すこともできない。


「もし…もし、わらわの絵で神様のご機嫌を損ねてしまったら…! お気持ち一つで、我ら全員、塵も残らず消し飛ばされてしまうやもしれんのじゃ…!」


 いろはは、トラウマと畏怖の二重苦に苛まれ、最悪の想像に囚われていた。

 その尋常でない怯え方に、仲間たちが動く。


「…落ち着けニャ、いろは。あの天狗たちが、何百年もずっとお祀りしてきておるのニャ? その間に、一度や二度はご機嫌を損ねるようなこともあったはずニャ。それで万宝屋が吹き飛んでいないのなら、おぬしが思うような大げさなことが、そうそうあるはずないニャ」


 ネムタマが、理屈で彼女をなだめようとする。


「左様。いろは殿、そなたの恐れる気持ちは察する。じゃが、万が一にもそのようなことがあるならば、このわらわが盾となろう。案ずることはない」


 ニョロコもまた、その静かで力強い言葉で、いろはを落ち着かせようとした。

 しかし、一度呼び覚まされた恐怖は、そう簡単には消えない。仲間たちの優しさが、逆に彼女の無力さと責任の重さを際立たせるかのようだった。

 本気でこの依頼から逃げ出したい。そんな恐怖に、彼女は完全に心を支配されていた。


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