第二章:胡散臭い狐が最初の「お供」

行商人現る!

 あの奇妙な百鬼夜行との出会いから一夜が明けた。

 いろはが目を覚ましたのは、昨夜と同じく打ち捨てられた廃屋の中だったが、気分は昨日とは比べ物にならないほど軽かった。腹の底から湧き上がるような絶望感はなく、代わりに、ほんのりとした温かいものが胸を満たしている。何よりも、お腹が満たされていた。昨夜、妖たちと交換した饅頭や干し肉は、神殿で口にしたどんなご馳走よりも滋味深く、いろはの心と体にじんわりと活力を与えてくれたのだ。空腹が満たされたことで、ほんの少しだけだが、気力も回復しているのを感じる。


「そうじゃ…人間の者たちには全く理解されなんだが、妖たちには、わらわの絵は通じたのじゃ…!」


 差し込む朝日に照らされた埃っぽい廃屋の中で、いろははぽつりと呟いた。それは、暗闇の中でようやく見つけた、一本の蜘蛛の糸のようにか細く、しかし確かな光だった。


「妖になら、わらわの絵は売れるのかもしれぬ! そうすれば、毎日お腹を空かせることも、雨風に怯えることもなくなるやもしれん!」


 希望が湧いてくると、じっとしてはいられない。しかし、いざ具体的な算段となると、途端に途方に暮れてしまう。

 そもそも、妖というのはどこにいるものなのだろうか。昨夜のように、偶然百鬼夜行に出くわすなどということは、そうそうあるものではないだろう。どうすれば安定して絵を売ることができるのか、皆目見当がつかなかった。それに、手持ちの食料も、昨夜はあれほど豊かに感じられたが、冷静に見れば数日もすれば底をついてしまう量しかない。再びあの耐え難い空腹が襲ってくるのかと思うと、不安がむくむくと頭をもたげてくる。


 それでも、一度見えた光を諦めることはできなかった。いろはは意を決し、再び風呂敷包みを背負うと、廃屋を後にした。

 漠然と「妖が多くいそうな場所」として、人の往来が少なく、より深く鬱蒼とした山道や、昼なお薄暗い森を選んで歩き始める。神殿の書物には、妖は深山幽谷や、人外魔境に好んで棲むと記されていたからだ。

 しかし、期待に反して、妖の気配は一向に感じられなかった。聞こえてくるのは風の音と鳥の声、そして自分の草鞋が地面を擦る音ばかり。ただただ疲労だけが積み重なり、そして、再びあの忌まわしい空腹感が、じわじわと忍び寄ってくるのを感じていた。百鬼夜行との取引で得た僅かな銭や食料も、日に日に心許なくなっていく。


 日が傾き、森の木々が濃い影を落とし始めると、途端に心細さが増してくる。進めども進めども、代わり映えのしない森の景色。本当にこの道で合っているのか、そもそも妖などというものが都合よく現れてくれるのだろうか。

 ついに、いろはは道端の大きな木の根にへたり込んでしまった。空腹と疲労で、もう一歩も動けそうにない。


「やはり…わらわ一人では、無理なのかもしれぬ…こんなことなら、神殿で…いや、何を弱気になっておるのじゃ…!」


 一度は振り払ったはずの弱音が、いとも簡単に口をついて出る。しかし、あの息の詰まる場所に帰るくらいなら…。


「このままでは…また、飢え死にしてしまうのじゃ…」


 ぽろり、と涙が頬を伝った。再びあのどうしようもない絶望感に心が飲み込まれそうになった、まさにその時だった。

 道の向こう、夕闇が迫る森の奥から、カラン、コロン、という軽やかな下駄の音が聞こえてきた。そして、その音と共に、風変わりな大きな荷物をいくつも背負った、すらりとした人影が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。


 カラン、コロン、と小気味よい下駄の音が近づき、やがていろはの目の前で止まった。

 見上げると、そこに立っていたのは、年の頃は二十代半ばほどに見える、行商人風の身なりをした男だった。旅慣れているのか、衣服には多少の汚れが見えるものの、どことなく小綺麗にしており、涼やかな目元には人懐っこそうな笑みを浮かべている。しかし、その笑顔の裏には、一枚見えない皮を被っているような、掴みどころのない胡散臭さも漂っていた。


「おやおや、こんな寂しい山奥で、可愛らしいお嬢さんがお一人とは、どうなさいましたかな?もしや道にでも迷われましたかえ?」


 男は、芝居がかったような、しかしどこか耳に心地よい響きのある声でいろはに問いかけた。


「…なんじゃお主は。わらわに何か用なのか?」


 いろはは、突然現れた男に警戒の色を隠さず、懐の天筆をぎゅっと握りしめた。だが、声には力が入らない。無理もない、極度の空腹と疲労で、まともな返事をすることすら億劫なのだ。

 男は、そんな彼女の刺々しい態度や疲弊しきった様子を少しも気にする風でもなく、にこやかな笑顔を崩さない。


「これはこれは、難儀なご様子。腹が減っては戦はできぬ、と申しますからのう。ささ、まずはこれを」


 そう言うと、男は背負っていた荷物から慣れた手つきで古びた竹筒と、握り飯よりは粗末だが干し柿よりは腹にたまりそうな干しほしいいの包みを取り出し、いろはに差し出した。

 香ばしい干し飯の匂いに、いろはの腹の虫がぐう、と情けない音を立てる。疑いの目を向けつつも、抗えない空腹には勝てなかった。おずおずと差し出されたものを受け取り、かぶりつくようにして水と干し飯を口にする。

 男は、そんな彼女の様子を満足そうに眺めながら、巧みな話術でぽつりぽつりと彼女の身の上話を聞き出そうとし始めた。どこから来たのか、どこへ向かうのか、なぜこのような場所に一人でいるのか、と。

 いろはは、警戒心を解いたわけではなかったが、久しぶりの人の優しさ(?)と、空腹が満たされていく安心感からか、つい、神殿を飛び出してきたこと、自分が絵描きであること、そして今は行くあてもなく途方に暮れていることなどを、断片的にではあるが話してしまっていた。


 男は、いろはの話を興味深そうに聞いていたが、彼女が「絵描きである」と口にした瞬間、ぴくりと眉を動かした。


「ほう、絵描きさんとは、これはまた珍しい。して、お嬢さん、どのような絵をお描きになるのかな?もしよろしければ、この旅の慰めにでも、わらわのような目利きに見せてはくださらんか?」


 男の目が、ひときわ興味深そうな、それでいて何かを探るような光を帯びる。

 いろはは一瞬ためらった。この男は信用できるのだろうか、と。しかし、神殿を飛び出して以来、自分の絵をまともに見てくれる者など、あの小鬼と、得体の知れない百鬼夜行くらいしかいなかった。

 意を決し、警戒しながらも風呂敷の中から数枚の絵――特に百鬼夜行に売れた、生命力みなぎる例の絵――を取り出し、男の前に広げて見せた。

 その瞬間、男の目がキラリと鋭く光ったのを、いろはは見逃さなかった。男は何やらぶつくさと言っている。


「唐笠から聞いた奇妙な絵を描く小娘の絵に似ている……。なんでも居合わせた者がこぞって欲しがったとか。眉唾だったが、たしかにこのような絵が描けるのなら題材によっては化けるぞ……」


 男は、広げられた絵を一枚一枚丁寧に手に取り、まるで極上の美術品でも鑑定するかのように、じっくりと眺め始めた。そして、やや大げさなほどの身振り手振りで、感嘆の声を上げながら絶賛し始めたのだ。


「素晴らしい! 実に素晴らしい! まさに魂が宿っておりますな! 人間どもには、この絵の本当の良さが分かりますまいが、これぞ真の芸術と申せましょうぞ!」


 おだてるような、しかしどこか本心からの興奮も感じられる口調で、男はまくし立てる。


「…お主、本気でそう思っておるのか?」


 いろはは、そのあまりの褒めちぎりように戸惑いつつも、これほどまでに自分の絵を正面から褒められたのは生まれて初めてのことであり、悪い気はしなかった。むしろ、心の奥底で、ほんの少しだけ誇らしいような気持ちさえ芽生え始めていた。

 男は、そんな彼女の表情の変化を見逃さず、さらに畳みかけるように言った。


「もちろんでございますとも!この玉藻ノ金風たまものきんぷうの目に狂いはございません。実はわたくしも、そういう『分かる者』にだけ分かる、特別な品々を扱っておりましてな」


 そう言うと、男は意味深ににやりと笑い、背負っていた大きな荷物の一端を、これ見よがしにちらりと開いて見せた。

 その隙間から垣間見えたのは、妖たちが使いそうな怪しげな呪符や、曰く付きの古道具、そして何やら得体の知れない霊力を放つ珍品であった。

 男が荷物の一端からちらりと見せた品々は、およそ人間の使うものとは思えぬ、奇妙な輝きや禍々しい気を放つものばかりだった。妖が好みそうな呪具、曰く付きの獣の骨、何やら怪しげな霊薬の瓶。

 いろはは、それらの品々に子供のような純粋な好奇心と、得体の知れないものへの畏怖がないまぜになった視線を向けた。同時に、この男がただ者ではないこと、そしておそらくは人間ではないことへの疑念が、確信へと変わりつつあった。


「おぬし…やはり、ただの行商人ではないな? その品揃え、到底人間のものとは思えんのじゃが? それに、そもそもこんな人里離れた寂しい山道に、わざわざ行商人が来るはずもないではないか」


 いろはが問い詰めると、男は悪びれるでもなく、むしろ楽しむかのようにニヤリと口角を上げた。


「これはこれは、お嬢さんはなかなかに勘が鋭い。しかしながらわたくしは玉藻ノ金風たまものきんぷう。しがない旅の者にして、少々鼻の利く商人でございますよ」


 芝居がかった、しかしどこか人を惹きつける口調でそう名乗った。

 その時だった。ふと油断したのか、あるいはわざと見せたのか、男が荷物を持ち直そうと軽く身じろぎした際に、着物の合わせ目、その裾から、ふさふさとした見事な黄金色の尻尾が、ほんの一瞬ではあるがちらりと覗いたのだ。

 いろはの目が、それを見逃すはずもなかった。


「金の尾…! 妖狐ようこじゃ! おぬし、やはりあやかしじゃったのか!」


 指を突きつけて叫ぶと、正体を見られた男――妖狐は、全く悪びれる様子もなく、「おっと、これは失敬」と軽く頭をかいた。次の瞬間、彼の身体を淡い光が包み込んだかと思うと、人間の姿は霧散し、そこには耳をぴんと立て、九本もの美しい黄金色の尾をゆらめかせる、艶やかな妖狐の姿が現れていた。その瞳は、人間の時よりもさらに妖しい光をたたえている。


「人間は、どうにも本質を見誤ることが多いからのう」


 妖狐は、先ほどまでのどこか軽薄な雰囲気とは打って変わった、落ち着いた低い声でそう言うと、改めていろはの広げた絵を手に取った。


「この絵には、確かに妖の魂を揺さぶる何かがある。おぬし自身も気づいておらぬやもしれんがな。特に、あの小鬼が喜んだという『お日様の光みたいなビー玉』の絵や、あの百鬼夜行が面白がったという『唐笠からかさの踊り絵』。常人にはただの子供の落書きにしか見えずとも、我ら妖にとっては、時にどんな金銀財宝よりも価値があるものに見えるのじゃ」


 その言葉には、お世辞やからかいの色はなく、絵の本質を見抜いたかのような真剣な眼差しが宿っていた。

 いつの間にか尻尾を残し、人の姿に戻っていた妖狐は、ゆらりと九本の尾を揺らし、いろはの目をじっと見据えた。


「お嬢さん、その類稀なる絵の才、このわたくしに預けてみる気はないかな? 退屈はさせんし、少なくとも、腹を空かせるような惨めな思いは二度とさせんぞ?」


 妖艶ともいえる微笑みを浮かべ、彼は誘いかける。

 いろはは、そのあまりにも胡散臭い申し出と、目の前の妖狐が放つ底知れない雰囲気に、強い警戒心を抱いた。しかし同時に、彼の言葉――自分の絵の価値をはっきりと認め、それを必要としてくれる者がいるという言葉――に、心が大きく揺れ動いているのも事実だった。

 それに、今の自分には行くあても、頼れる者もいない。このまま一人でいても、また飢えと絶望に逆戻りするだけかもしれない。ならば、一瞬でもこの胡散臭い狐の誘いに乗ってみるのも、一つの手かもしれない、と考え始めていた。


 妖狐の輝く瞳の奥には、何か大きな、そしておそらくは面倒事を呼び込みそうな企みが潜んでいるのが、いろはにも見え隠れしている。だが、今の彼女には、その危険な光にすら、微かな希望を見出さざるを得なかった。

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