下界の洗礼と、最初の出会い

 あの重苦しい門を自らの手で押し開き、下界へと続く古びた石段を、彩葉姫は夢中で駆け下りた。時にはバランスを崩して苔むした段差に足を取られ、転がり落ちそうになりながらも、ただひたすらに下へ、下へと。背後で門が閉じる重々しい音は、もう彼女の耳には届かなかった。

 どれほどのときを駆けたであろうか。ようやく長く険しい石段の終わりが見え、不意に視界が開けた。そこは、鬱蒼とした木々が生い茂る森の入り口だった。

 神殿の清浄だがどこか冷たく、常に張り詰めていた重苦しい空気とは全く違う。むせ返るような濃密な草いきれ、湿った土の匂い、そして名も知らぬ花々の甘い香り。あらゆる生命が発する力強い匂いが、彩葉姫の身体を包み込んだ。ざわざわと風に揺れる木々の葉音、鳥たちのさえずり、遠くで聞こえる獣の咆哮らしきものまで、全てが新鮮で、力強さに満ちていた。


「――やったのじゃ!ついに、ついに自由じゃーっ!」


 彩葉姫は両手を大きく広げ、天を仰いで心の底から叫んだ。誰に咎められることもない、何ものにも縛られないという圧倒的な解放感に、しばし踊りださんばかりに喜びを爆発させた。くるくるとその場で回り、幼子のように芝生の上を転げ回る。


「これからは誰にも文句は言わせぬ!神殿の石頭どもめ、わらわの絵を馬鹿にしたこと、必ず後悔させてやるのじゃ!」


 そして、改めて高らかに宣言した。


「彩葉姫の名も、神殿での忌々しいしがらみも、今日限りで捨て去るのじゃ!わらわは、わらわの力で生きていくのじゃ!」


 ひとしきり喜びをかみしめた後、さて、これからどうしたものか、と思案する。まずは人里へ向かうのが定石であろう。神殿の書物で読んだ知識がそう告げていた。

 とりあえず人里がありそうな方角へと、彩葉姫はてくてくと軽い足取りで歩き出した。鼻歌でも歌い出しそうなほど、心は弾んでいた。


「そうじゃのう、彩葉姫という堅苦しい名前も、もう捨てたほうが良いのう。あのような場所に、もう二度と戻る気もないからのう」


 ふと、そんな考えが頭をよぎる。


「『姫』はもういらぬじゃろ。じゃが、『彩葉あやは』という名は…これは、わらわに生命いのちをくれた母君がつけてくれた大切な名じゃ。これは捨てとうないのう…」


 しばし考え込む。


「…そうだわ!読みを変えればよいのじゃ!『あやは』ではなく…『いろは』。そうじゃ!わらわは今日から『いろは』じゃ!彩り豊かな葉のように、この下界で自由に生きる『いろは』なのじゃ!」


 新たな名を得て、いろはの足取りはますます軽くなった。


 しかし、その浮かれた気分も長くは続かなかった。人里を目指して森の中を当てもなく歩き続けるうちに、空の太陽は徐々に西へと傾き始め、それと共に強烈な空腹感が彼女を襲ってきたのだ。

 ぐうぅぅぅぅぅ…と、お腹の虫が情けない声を上げる。


(腹が…減ったのじゃ…)


 神殿では、決まった時間になれば食事が用意され、特に望まずとも三度の食事が保証されていた。いわば三食昼寝付きの生活だったのだ。 そのため、食べ物を自分で苦労して調達するという発想も経験も、いろはには皆無だった。

 日が陰り始めると、森の様相は一変した。先ほどまで生命の輝きに満ちていた木々の緑は深い影をまとい、風の音も不気味なざわめきに変わる。周囲のあらゆる物音や気配が、得体の知れない何かの接近を告げているように感じられ、急速に心細さと後悔の念がこみ上げてきた。


「ほん…本当に、わらわ一人で大丈夫なのかのぅ…?」


 先ほどの威勢はどこへやら、日が落ちると急に心細さが津波のように押し寄せてくる。月明かりがおぼろげに森を照らし出すと、風に揺れる木々の姿が、まるで手を伸ばしてくる恐ろしい化け物のように見えてくる。


「も、もし…恐ろしいあやかしが出たら…どうすればよいのじゃ…?」


 下界には、人間や動物以外に「妖」と呼ばれる恐ろしいものが数多く存在すると、神殿の書物には記されていた。人を化かしたり、悪戯を仕掛けたりする程度ならまだしも、時には人を襲い、食らってしまうことさえあるという。


(か、神も…食われてしまうのかのう…?わ、わらわ、こんなにちっこいし、細っこいし…あんまり食べるところもないじゃろうから、見逃してはくれんかのう…?)


 ぶるぶると身体が震える。そして、最も現実的で切実な問題が、彼女の小さな脳裏を打ちのめした。


「そ、そうじゃ!わ、わらわ…今夜、どこで寝ればよいのじゃーっ!?」


 固い決意も、積年の怒りも、未知への希望も、そして今この瞬間の心細さと後悔も、全てがない交ぜになって一気に爆発した。


「うがーっ!どうすればいいのじゃーっ!こんなはずではなかったのじゃーっ!」


 いろはは、その場に突っ伏すと、子供のようにわんわんと大声をあげて泣きじゃくった。悔し涙なのか、悲し涙なのか、それともただ空腹と不安で流れる涙なのか、もう自分でもわからない。ひとしきり泣いた後は、近くの木の幹をぽかぽかと力なく蹴飛ばしてみたり、再び地面に突っ伏して手足をばたつかせたりと、感情のジェットコースターは激しく昇り降りするばかりだった。


 どれほどの時間、そうしていただろうか。ひとしきり感情を大爆発させた後、ようやく少しだけ冷静さを取り戻した。しゃくりあげる嗚咽はまだ止まらないが、頭の中はほんの少しだけ整理されたような気がした。


「…ひっぐ…うぅ…泣いていても…腹は膨れぬのじゃ…」


 いろはは涙でぐしょぐしょになった顔を上げ、鼻を一つ大きくすすった。


「わらわは…『いろは』として、この下界で生き抜くと…そう決めたのじゃ…!まずは…何か…何か食べられるものを探すのじゃ…!」


 まだ潤んだ瞳には、ほんの僅かな決意の光が再び灯っていた。おぼつかない、ふらふらとした足取りで、それでもいろはは、すっかり日の暮れた不気味な森の中へと、再び一歩を踏み出したのだった。 その小さな手には、やはりあの古びた天筆が、固く握りしめられていた。


 ---


 気が付くと、いろはは大きな苔むした石の陰で眠りこけていた。あれほど森の夜を怖がっていたというのに、一度眠ってしまえば何のその。口元からはだらしなくよだれが垂れ、時折「んー…今年の白米は、甘くてうまいのう…」などと幸せそうな寝言をもらしているあたり、神殿での気苦労がいかに大きかったかを物語っているのかもしれない。


「…むにゃ…おかしいのう、この白米、食べても食べても腹が膨れぬのじゃ…わらわの腹は底なしかのう…」


 はっ!と、いろはは勢いよく目を開けた。


「ここはどこじゃ!わらわは神殿の自室で、朝餉あさげを食べておったはずでは…!?」


 飛び起きた瞬間、全身を襲うのは強烈な空腹感と、硬い地面に直接寝たことによる体の痛み。ぼんやりとしていた意識が急速に覚醒するにつれて、昨夜の自分の無鉄砲な行動の数々――神殿を飛び出し、森で途方に暮れ、わめき散らしたこと――が鮮明に思い出され、さあっと顔から血の気が引いた。

 寝ている間に獣に襲われなかっただけでも幸運だったと言えよう。


(わ、わらわは…なんということを…)


 冷や汗が背中を伝う。しかし、どれだけ昨日の自分の行動を浅はかだと後悔しても、あの息の詰まる神殿に今更戻るという選択肢は、もはや彼女の中には欠片も存在しなかった。


(…まあ、よい。決めたことじゃからのう)


 開き直ったものの、現実の空腹には勝てない。ふらふらとおぼつかない足取りで森の中を歩きながら、せめて水だけでも飲みたいと、小さな小川を探し始めた。神殿では清らかな水などいくらでもあったが、下界ではそうもいかない。


 しばらく森の中をさまようと、せせらぎの音が聞こえてきた。音のする方へ向かうと、陽の光を浴びてきらきらと輝く小さな小川が目の前に現れた。

 ありがたい、と駆け寄ろうとしたその時、小川のほとりで、小さな子供が声を上げて泣きじゃくっているのに出くわした。緑色の肌に、頭には短い一本角。どうやら小鬼の子供のようだ。


「うわーん! わしの、わしの宝物~! キラキラのビー玉があぁぁ~!」


 かん高い泣き声が、静かな森に響き渡っている。

 いろはは、思わず顔をしかめた。


「ふん、下界の小童こわっぱは、朝っぱらから騒々しいことじゃな」


 悪態をつきつつも、その必死な泣き声がどうにも気になってしまう。自分も昨夜は似たようなものだった、と思い返すと少しばかりバツが悪い。


「うるさいぞ小童! 何をそんなにわあわあ泣いておるのじゃ!」


 ぶっきらぼうに声をかけると、小鬼の子供はビクッと肩を震わせて泣き止み、しゃくりあげながら大きな瞳でいろはを見上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だ。


「ひっぐ…えっぐ…だ、大事な…お日様の光みたいな色の…キラキラのビー玉が…うっ…あそこの…谷に落ちて、取れなくなっちゃったんだよう…うわぁぁん!」


 説明し終わると、再び大声で泣き出してしまった。

 いろはは、小鬼の必死な様子と、「お日様の光みたいな色」という言葉に、ほんの少しだけ心が動かされた。神殿では、あのように純粋な悲しみを剥き出しにして泣きじゃくる者などいなかった。皆、体面や規則を気にして、感情を押し殺していたからだ。

 ふう、と小さくため息をつく。


「…仕方ないのう。腹は減っておるが、これも何かの縁じゃ。わらわが、そのビー玉とやらの絵を描いてやる。それを見て少しは元気出すのじゃ!」


 そう言うと、いろはは懐から古びた天筆を取り出し、河原から平たい大きな石を探し始めた。小鬼はぽかんとした顔で、涙の溜まった大きな目を見開いている。


「え?絵?ビー玉の?」

「そうじゃ。わらわは絵描きじゃからのう。おぬしの宝物を、わらわが特別に描いて進ぜよう」


 小鬼はまだ半信半疑だったが、いろはが構えた天筆と、何やら真剣な眼差しに何かを感じたのか、こくりと頷いた。


「えっとの…わしのビー玉はの、こーんなに大きくて!」


 小鬼は両手をいっぱいに広げて、抱えきれないほどの大きさを表現しようとする。


「こら、小童。そんなにでかいビー玉があるものか。せいぜいおぬしの手のひらにちょこんと乗るくらいの大きさであろうが」


 いろはが呆れたようにツッコミを入れると、小鬼は「えへへ、そうだったかも」と照れくさそうに頭を掻いた。


「色はの、お日様の光みたいなんじゃ!朝のキラキラしたのと、お昼のポカポカしたのと、夕焼けのあったかいのが、ぜーんぶ入ってたんじゃ!」

「なるほどのう……。わらわもそんなビー玉を見てみたいのぅ」


 拙いながらも一生懸命な小鬼の説明と、いろはの独特な感性が融合し、石の上に一つの「らくがき」が生まれ始めた。

 それは、お世辞にも写実的とは言えない、いびつな円だった。しかし、不思議なことに、その円の中には、小鬼が表現した「お日様の光」が見事に描き出されていた。

 淡い黄金色が中心から湧き上がるように輝き、それを包むように柔らかな橙色が温かみを添え、さらに外側には燃えるような茜色が力強いアクセントを加えている。それぞれの色は明確な境界を持たず、互いに溶け合い、響き合い、まるで本当に太陽の光を閉じ込めたかのように、内側から暖かなきらめきを放っているかのようだ。よく見れば、その光彩の中には、子供の夢や希望のような、小さな虹色の泡のようなものがいくつも浮かんで見えた。

 およそ神殿の絵画の基準からすれば、落第どころか評価の対象にすらならないような、まさに「らくがき」としか言いようのない絵。だが、そこには確かに、小鬼の失われた宝物の「魂」が宿っているかのような、不思議な魅力が満ち溢れていた。


「…できたぞ」


 いろはが筆を置くと、小鬼は恐る恐るその絵を覗き込んだ。そして、次の瞬間。


「わー! これじゃ! これにそっくりじゃったぞ! お日様の光みたいにキラキラしとる!」


 小鬼は満面の笑みになり、そのビー玉の絵を大事そうに両手で抱きしめた。その瞳は、先ほどまでの悲しみではなく、純粋な喜びで輝いていた。


「お姉ちゃん、ありがとうなのじゃ! 元気出たぞ!」


 そう言うと、小鬼は自分の小さなズタ袋をごそごそと漁り、中から手のひらに乗るくらいの、少ししなびた干し柿を一つ取り出して、いろはに差し出した。


「これ、わしのおやつじゃけど、お姉ちゃんにあげるのじゃ!」


 いろはは、差し出された干し柿と、小鬼の屈託のない笑顔を交互に見た。これが…「ありがとう」という言葉の温かさ。そして、自分の絵に対する、初めての「報酬」。

 神殿では、どれだけ心を込めて描いても、評価されるのは形式ばかり。感謝の言葉どころか、まともな感想すら聞くことは稀だった。

 戸惑いつつも、差し出された干し柿を受け取る。ずしりとした、ささやかな重み。

 ゆっくりとそれを口に運ぶと、干し柿の凝縮された自然な甘さが、じわりと口の中に広がった。それは、空腹にしみわたるだけでなく、冷え切っていた心の奥底まで温めてくれるような、優しい甘さだった。

 胸の奥から、何かがこみ上げてくるのを感じる。それは、神殿を飛び出した時の怒りでも、森で感じた孤独でもない、もっと温かくて、少しだけくすぐったいような感覚。気づけば、いろはの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「…まあ、悪くない気分じゃな」


 ぶっきらぼうにそう呟くと、いろはは涙を袖でごしごしと拭った。そして、小鬼に人里の方向を尋ね、軽く手を振ると、次の目的地を求めて、再び小川沿いを歩き始めた。

 手の中には、まだ半分残った干し柿の感触と、胸に灯った小さな温かい光があった。

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