いたづらに咲いて散って―夢見る女子高生が挑む小野小町の謎 彼はなぜ絶世の美女となったか〜逆井先生の国語日和〜
智沢蛸(さとざわ・たこる)
序章 雲の通ひ路 吹きとぢよ
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
乙女の姿しばしとどめむ
――その一首が、教室に響いた瞬間だった。
それは確かに現実ではない――どこか遠くから聞こえる響きだった。
東京都立
古典演習の授業中、
耳は音を、目は空を追っている。
――――空が、割れた。
鈍色の雲間に一筋の光が差し込み、その中に確かに“彼女”がいた。
天を舞うように、衣をひるがえして――。
(……天女?)
違う。
けれど、それ以外の言葉が見つからない。
――――風が舞を誘い、袖が翻る。
空気そのものが音楽に色を与えられたように、舞う姿が浮かび上がる。
笑は気づく。
舞っているのは自分。
けれど“自分”ではない。
風が舞を誘い、袖が翻る。
空気そのものが音楽に色を与えられたように、舞う姿が浮かび上がる。
緋色の唐衣に若草色の打衣を重ね、手には檜扇を掲げている。
天冠の飾りがきらりと揺れ、裾から覗く薄衣が光を弾く。
その装束は、五節の舞姫のものであった。
足元では、百人を超える観衆がじっと見守っている。
中でも、ひときわ強いまなざしを向ける青年の姿があった。
(……なんという子だ。)
ただの装束が、これほどまでに光を帯びて見えるとは。
袖の動き、足運び、首の角度――どこを取っても、雅でありながら、野に咲く花のように自然。
(人は、こういう存在を“
「あの子はいったい誰なんだ。」
「
側に控えていた彼の従者が答えた。
「篁殿の……。」
なるほど、2人の少女の面ざしはよく似ている。
彼はまだあどけなさの残る、妹の方にひきつけられていた。
(ずっと、このまま見続けていたい。)
心が袖に引かれ、視線が髪の流れを追っている。
このまま神の許に消えてしまいそうな乙女を、“しばし”だけでもこの世にとどめたい――
その想いが、やがて一首の歌となって彼の胸に芽吹く。
天つ風雲の
風よ、雲の通い路を吹き閉じておくれ。
天女の姿をーーもうしばらく、地上にとどめておきたいのだ……。
(私は……この者を、忘れることができるだろうか。)
いや、もう既に忘れられなくなっている。
この瞬間、物語が始まっていた。
遠くに、笙の音がかすかに響いてくる。
まるで、夢の終わりを告げるように。
その音が溶けていく……。
「――――おい、小野! 聞いてるのか!」
教卓を軽くたたく音。
机が震える。
教室のざわめき。
現実の匂いが、一気に戻ってきた。
「……は、はいっ!」
勢いよく姿勢を正す笑の頬は、ほんのり赤く染まっている。
逆井先生は腕を組んで、少し眉をひそめた。
「まったく……“乙女の姿”に入り込みすぎだな。授業中に夢を見るとは。」
逆井先生が少し呆れたように言うと、教室にくすくすと笑いが広がる。
笑はきょとんとしたまま、ぽつりと答えた。
「……上手に舞えた、と思います……。」
一瞬、教室が静まり返る。
そして次の瞬間、爆笑が巻き起こった。
左隣の男子――
「何の授業だよ、それ!」
サッカー部のエースで、いつもどこか抜けている。
それでいて妙に利がきいて、どこか憎めない少年だ。
「……放っといてよ。」
笑はそう言いながらも、どこか夢の続きを惜しむように、ぼんやりと机に目を落とした。
「……あれ、まだ……風の中にいる気がする……」
そして、ノートの端にそっと文字を書き留める。
「天女」「舞」「都」
◆◇◆◇
【次回予告】
「第一章
古典演習の授業で、平安の歌人を調べることになった笑たち。
選んだテーマは“
彼女の和歌を読み解くうち、笑は再び時の狭間へと導かれる。
そこで触れた“ある秘密”――それは、美しいだけでは語れない、小町の真実だった。
【作者メモ】
現役高校教師の著者が、「高校生たちのリアルな日常」と「国語の面白さ」をつなぎたいと思って綴っています。
古典の世界が少しでも身近に感じられたら嬉しいです。
どうぞ、次回もお楽しみに。
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