第一章 訪ふべき人に 忘られしより

「では来週から、調べ学習に入るぞ。テーマは“平安歌人”だ。」


逆井さかい先生のチョークが黒板を滑る。


逆井たかし、35歳独身。

えみたち2年B組の担任で、国語を教えている。

普段は穏やかで、柔らかい物腰の先生だけど、意外と熱血な一面もある。

あまり自分のことは語らないが、噂ではいろいろな過去があるらしい――笑はそれがちょっとだけ気になっていた。


(……平安歌人。)


その文字を目にした教室には、微妙なため息がいくつか漏れた。


「三人一組で自由にグループを組め。ただし、発表は全員参加型とする。」


生徒たちがざわつき始める中、笑は迷いなく振り返った。


素子もとこ、一緒にやろ!」

「もちろん!」


手を取り合うのは、もはや儀式のようなもの。

素子は小学校からの付き合いで、もはや“腐れ縁”とも言うべき間柄。

笑とは昨年も同じクラス。

漫画研究部に所属している。


「そういえば素子ってさ、なんでこの授業とったの?」

「うん。今ちょうど、平安時代っぽい恋愛ファンタジー描いてるとこ。資料集めてたら、気づいたらこっちが本気になっててさ。」

「もしかして取材の一環でこの授業選んだ?」

「まあね。“物語”って素材が命じゃん。リアルな背景があると深み出るし。」

「すご……。」


そのとき、近くにいた圭一けいいちが、少し遠慮がちに声をかけてきた。


「……よかったら、俺も混ぜてくれない?」


「え、圭一が?」


笑は驚いたように目を丸くする。

圭一はサッカー部のエースで、誰にでも優しい爽やか男子。

ただし、勉強――特に古典は大の苦手で、「さっぱりわからん」とこぼしていたほどだ。


(なんでこの授業選んだんだろ?)


「ひょっとして、誰か好きな子でもいるんじゃない?」


笑は小声でからかうように言って、ニヤリと笑った。


「まさか……素子?」


隣の素子が一瞬だけ目を見開いたが、すぐに涼しい顔で手を振った。


「いや、笑。そういうのってね、たいてい一番鈍感な人が気づいてないのよ。」

「え? なにそれ?」


笑はぽかんとしている。

当然ながら、彼女は気づいていなかった。

圭一が古典演習を選んだ理由も、このグループに入りたかった本当の理由も――すべては、笑の隣にいたかったからだということに。


素子はそっと横目で圭一を見た。

彼は笑の言葉に少しだけ動揺しながらも、優しい笑みを浮かべていた。


(……わたしが言うことじゃない。)


恋は、気づくことから始まる。

気づかれなければ、それはただの“空気”だ。

笑がその“空気”を感じ取る日が来るかどうか――それは、まだ誰にもわからない。




「さて、誰を調べようか?」

在原業平ありわらのなりひらとか有名だよね。でも、やっぱり女性歌人のほうが気になるなあ。」


笑が国語便覧を見ながら言ったとき、圭一がふと思い出したように口を開いた。


「ねえ、小野さんって、小野小町おののこまちと関係あったりするの?」

「えっ、どうだろ。名字は同じだけど……先祖ってことはさすがにないよね?」


笑は、国語便覧の小野小町のページをめくる。


「小野小町の本名って、“吉子よしこ”って言うんだって。うちのお母さんの名前も“良子よしこ”だから、親近感あるかも。」

「じゃあ、小野小町にしようよ。せっかくだから。」

「賛成、俺も絶世の美女について知りたい。」


二人の賛同を得て、調査対象は小町に決まった。


「それにしても、小町の歌って恋の歌ばっかりだね。」


笑が資料をめくりながら言う。


「ほんと、プレイガールって感じ」

「おいおい、そんな言い方……でも、確かに。」


圭一が苦笑する。


「俺もちょっと、あやかりたいくらいだな。」


笑は小野小町の和歌の書かれた本のページに目をやった。


  結びきといひけるものを結び松 

      いかでか君にとけて見ゆべき


  ともすればあだなる風にさざ波の 

      なびくてふごと我なびけとや


  今はとて変わらぬものをいにしへも 

      かくこそ君につれなかりしか


「……小町って、男性に対して冷淡だったんだね。」


笑が言う。


「それでこそ、絶世の美女。俺にはとても歯が立たないってか。」

「でもさ。」


素子が静かに言う。


「どこか切ない歌も多いんだよね。報われてないっていうか。」

「うん、それは感じる。」


笑も頷いた。


「たとえばこれ――。」


  わが身こそあらぬかとのみたどらるる

      ふべき人に忘られしより


「“私の存在なんて、もう無いも同然なのかとさえ思う。訪れてくれるはずの人に、忘れられてしまったから”って意味。」


その言葉が、笑の胸に深く染み込んだ。


「わたしも……なんだか、似たような気持ちになったことあるかも。」


笑がぽつりとつぶやく。


視界がふっとかすむ。ページがめくられる音が、遠くゆっくりに聞こえた。

笑の意識が遠のいた。

遠くから何か、音が聞こえてくる気がした。


(……笙?)


それと同時に教室の風景が、淡く溶けていった。





――――静かだった。

すぐそばで、衣擦れの音と、香のかすかな匂いが漂う。

畳ではない、柔らかな敷物の感触。

衣の裾が重い。


(……どこ、ここ?)


笑は、ふと我に返った。

見れば、自分の手が美しい紅の爪をしている。

袖口は淡い紫の重ね。

目の前には御簾があり、薄明かりの中、絹の帳が風に揺れている。


(和服……? いや……これ、十二単……?)


周囲の調度、香炉のかたち、屏風の絵柄――どれも歴史資料で見たものにそっくりだった。

そして、さきほどから聞こえていた男性の声――。


小野篁おののたかむら殿。突然の訪問、失礼いたします。」


(……小野篁?…え、“小野”って?)


その名を聞いたとき、笑は確信した。

ここは“古の世界”。

現実じゃない、けれど、夢とも違う。

自分は今――平安時代にいる。

しかも、御簾のこちら側にいるということは……。


(私、まさか……小町になってるの?)


呆然としながらも、耳は自然とその会話を追っていた。


「いったいどのようなご用件ですかな、良岑宗貞よしみねのむねさだ殿。」

「本日は一つ、お願いがあって参りました。」


(良岑宗貞……?)


「……小町殿を、我が妻にお迎えしたく存じます。」


御簾の陰で、笑の心が大きく跳ねた。


(プロポーズ……? それって、私に?)


「ありがたく存じます。だが――その望みにはお応えできない。」

「いったい、なにゆえ……」


篁の声が、静かに答えた。


「小町には……人には打ち明けられぬ“秘密”があるのです。」


“秘密”という言葉に、笑の心がざわめいた。


(秘密? それって……。)


宗貞は食い下がる。


「もしよければ、その秘密を、私に……。」

「……宗貞殿。」


篁の声が、深く、悲しみをたたえていた。


「あなたはやがては人の上に立つ方。このことを知れば、道を選べなくなるやもしれません。」


そして、言葉を締めくくるように、ゆっくりと続けた。


「――あの子を、嫁に出すことはできません。」


沈黙が満ちた。

宗貞の息が、かすかに乱れたのが分かった。

やがて、衣擦れの音が聞こえた。

宗貞は静かに部屋を出ていったようだった。


そのとき、ふいに視界がぼやけ、景色が揺らいだ。

また、笙の音が聞こえたようだった。





――――次の瞬間、笑は教室に戻っていた。


なのに、心はまだ遠いままだった。

平安の御簾の内側――あの静けさ、香の匂い、篁の声、すべてが、まだ胸の奥で鳴っていた。


「笑?」


隣の素子が、心配そうにのぞきこむ。


「大丈夫?」

「……うん。」


深く息をついて、笑は辺りを見回す。

白い蛍光灯の明かり、机の並ぶ現実の教室。

それなのに、まだどこか現実感がなかった。


「……ごめん。ちょっと、変な夢見てた。」

「夢? どんな?」

「うーん……なんか、平安時代みたいな場所で、小町になってて……」

「それはまた、ファンタジックね。」


苦笑する素子の横で、圭一がぽつりとつぶやいた。


「……もしかして、本当に何かに“呼ばれてる”んじゃない?」

「え?」

「ほら、古典って“言霊ことだま”の文化だろ? 昔の人の思いが、言葉になって今に残ってるっていうか。」

「それ、ちょっとロマンあるかも。」


素子が笑う。


「もしかして、小町が小野さんに伝えたいことがあったんじゃない?」


圭一の言葉に、笑は黙ってうなずいた。


胸の奥に、確かに何かが残っていた。

あの夢の中で感じた、どうしようもなく切ない想い。

それが、小町のものだったのか、自分自身のものだったのか――もう区別がつかなかった。


(あの“秘密”……。いったい、何だったんだろう。)


答えは出ない。

でも、何かが動き出している予感がした。


「なんだか、すごく大きな秘密を感じた気がする……でも、何もわからない。」


素子は驚いたように目を見開き、圭一はふっと肩をすくめた。


「まあ、こんな時代でも、何か秘密はありそうだよね。」

「でもさ……。」


笑は言った。


「小町って、あんなに心を閉ざしていたけど……誰かを、ずっと待っていたんじゃないかなって。」

「誰を?」


圭一が尋ねる。

笑はそっと肩をすくめた。


「……まだ、わからない。でも、きっと、これから会う気がするの。」




◆◇◆◇




【次回予告】

「第二章 夢と知りせば 覚めざらましを」

六歌仙の和歌を読み進めるうち、笑はふたたび幻想の世界へ――。

今度は在原業平の恋歌が、彼女を平安の秋の野へと誘う。

交わされた一対の贈答歌、その背景に秘められた想いとは?

“夢”と“現実”のはざまで、笑の心にも小さな変化が訪れようとしていた。



【作者メモ】

笑の幻想体験を通して、平安の歌人たちの息遣いや心のひだを、少しでも身近に感じていただけたら嬉しいです。


次回も、どうぞお楽しみに。

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