第一章 訪ふべき人に 忘られしより
「では来週から、調べ学習に入るぞ。テーマは“平安歌人”だ。」
逆井
普段は穏やかで、柔らかい物腰の先生だけど、意外と熱血な一面もある。
あまり自分のことは語らないが、噂ではいろいろな過去があるらしい――笑はそれがちょっとだけ気になっていた。
(……平安歌人。)
その文字を目にした教室には、微妙なため息がいくつか漏れた。
「三人一組で自由にグループを組め。ただし、発表は全員参加型とする。」
生徒たちがざわつき始める中、笑は迷いなく振り返った。
「
「もちろん!」
手を取り合うのは、もはや儀式のようなもの。
素子は小学校からの付き合いで、もはや“腐れ縁”とも言うべき間柄。
笑とは昨年も同じクラス。
漫画研究部に所属している。
「そういえば素子ってさ、なんでこの授業とったの?」
「うん。今ちょうど、平安時代っぽい恋愛ファンタジー描いてるとこ。資料集めてたら、気づいたらこっちが本気になっててさ。」
「もしかして取材の一環でこの授業選んだ?」
「まあね。“物語”って素材が命じゃん。リアルな背景があると深み出るし。」
「すご……。」
そのとき、近くにいた
「……よかったら、俺も混ぜてくれない?」
「え、圭一が?」
笑は驚いたように目を丸くする。
圭一はサッカー部のエースで、誰にでも優しい爽やか男子。
ただし、勉強――特に古典は大の苦手で、「さっぱりわからん」とこぼしていたほどだ。
(なんでこの授業選んだんだろ?)
「ひょっとして、誰か好きな子でもいるんじゃない?」
笑は小声でからかうように言って、ニヤリと笑った。
「まさか……素子?」
隣の素子が一瞬だけ目を見開いたが、すぐに涼しい顔で手を振った。
「いや、笑。そういうのってね、たいてい一番鈍感な人が気づいてないのよ。」
「え? なにそれ?」
笑はぽかんとしている。
当然ながら、彼女は気づいていなかった。
圭一が古典演習を選んだ理由も、このグループに入りたかった本当の理由も――すべては、笑の隣にいたかったからだということに。
素子はそっと横目で圭一を見た。
彼は笑の言葉に少しだけ動揺しながらも、優しい笑みを浮かべていた。
(……わたしが言うことじゃない。)
恋は、気づくことから始まる。
気づかれなければ、それはただの“空気”だ。
笑がその“空気”を感じ取る日が来るかどうか――それは、まだ誰にもわからない。
「さて、誰を調べようか?」
「
笑が国語便覧を見ながら言ったとき、圭一がふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、小野さんって、
「えっ、どうだろ。名字は同じだけど……先祖ってことはさすがにないよね?」
笑は、国語便覧の小野小町のページをめくる。
「小野小町の本名って、“
「じゃあ、小野小町にしようよ。せっかくだから。」
「賛成、俺も絶世の美女について知りたい。」
二人の賛同を得て、調査対象は小町に決まった。
「それにしても、小町の歌って恋の歌ばっかりだね。」
笑が資料をめくりながら言う。
「ほんと、プレイガールって感じ」
「おいおい、そんな言い方……でも、確かに。」
圭一が苦笑する。
「俺もちょっと、あやかりたいくらいだな。」
笑は小野小町の和歌の書かれた本のページに目をやった。
結びきといひけるものを結び松
いかでか君にとけて見ゆべき
ともすればあだなる風にさざ波の
なびくてふごと我なびけとや
今はとて変わらぬものをいにしへも
かくこそ君につれなかりしか
「……小町って、男性に対して冷淡だったんだね。」
笑が言う。
「それでこそ、絶世の美女。俺にはとても歯が立たないってか。」
「でもさ。」
素子が静かに言う。
「どこか切ない歌も多いんだよね。報われてないっていうか。」
「うん、それは感じる。」
笑も頷いた。
「たとえばこれ――。」
わが身こそあらぬかとのみたどらるる
「“私の存在なんて、もう無いも同然なのかとさえ思う。訪れてくれるはずの人に、忘れられてしまったから”って意味。」
その言葉が、笑の胸に深く染み込んだ。
「わたしも……なんだか、似たような気持ちになったことあるかも。」
笑がぽつりとつぶやく。
視界がふっとかすむ。ページがめくられる音が、遠くゆっくりに聞こえた。
笑の意識が遠のいた。
遠くから何か、音が聞こえてくる気がした。
(……笙?)
それと同時に教室の風景が、淡く溶けていった。
――――静かだった。
すぐそばで、衣擦れの音と、香のかすかな匂いが漂う。
畳ではない、柔らかな敷物の感触。
衣の裾が重い。
(……どこ、ここ?)
笑は、ふと我に返った。
見れば、自分の手が美しい紅の爪をしている。
袖口は淡い紫の重ね。
目の前には御簾があり、薄明かりの中、絹の帳が風に揺れている。
(和服……? いや……これ、十二単……?)
周囲の調度、香炉のかたち、屏風の絵柄――どれも歴史資料で見たものにそっくりだった。
そして、さきほどから聞こえていた男性の声――。
「
(……小野篁?…え、“小野”って?)
その名を聞いたとき、笑は確信した。
ここは“古の世界”。
現実じゃない、けれど、夢とも違う。
自分は今――平安時代にいる。
しかも、御簾のこちら側にいるということは……。
(私、まさか……小町になってるの?)
呆然としながらも、耳は自然とその会話を追っていた。
「いったいどのようなご用件ですかな、
「本日は一つ、お願いがあって参りました。」
(良岑宗貞……?)
「……小町殿を、我が妻にお迎えしたく存じます。」
御簾の陰で、笑の心が大きく跳ねた。
(プロポーズ……? それって、私に?)
「ありがたく存じます。だが――その望みにはお応えできない。」
「いったい、なにゆえ……」
篁の声が、静かに答えた。
「小町には……人には打ち明けられぬ“秘密”があるのです。」
“秘密”という言葉に、笑の心がざわめいた。
(秘密? それって……。)
宗貞は食い下がる。
「もしよければ、その秘密を、私に……。」
「……宗貞殿。」
篁の声が、深く、悲しみをたたえていた。
「あなたはやがては人の上に立つ方。このことを知れば、道を選べなくなるやもしれません。」
そして、言葉を締めくくるように、ゆっくりと続けた。
「――あの子を、嫁に出すことはできません。」
沈黙が満ちた。
宗貞の息が、かすかに乱れたのが分かった。
やがて、衣擦れの音が聞こえた。
宗貞は静かに部屋を出ていったようだった。
そのとき、ふいに視界がぼやけ、景色が揺らいだ。
また、笙の音が聞こえたようだった。
――――次の瞬間、笑は教室に戻っていた。
なのに、心はまだ遠いままだった。
平安の御簾の内側――あの静けさ、香の匂い、篁の声、すべてが、まだ胸の奥で鳴っていた。
「笑?」
隣の素子が、心配そうにのぞきこむ。
「大丈夫?」
「……うん。」
深く息をついて、笑は辺りを見回す。
白い蛍光灯の明かり、机の並ぶ現実の教室。
それなのに、まだどこか現実感がなかった。
「……ごめん。ちょっと、変な夢見てた。」
「夢? どんな?」
「うーん……なんか、平安時代みたいな場所で、小町になってて……」
「それはまた、ファンタジックね。」
苦笑する素子の横で、圭一がぽつりとつぶやいた。
「……もしかして、本当に何かに“呼ばれてる”んじゃない?」
「え?」
「ほら、古典って“
「それ、ちょっとロマンあるかも。」
素子が笑う。
「もしかして、小町が小野さんに伝えたいことがあったんじゃない?」
圭一の言葉に、笑は黙ってうなずいた。
胸の奥に、確かに何かが残っていた。
あの夢の中で感じた、どうしようもなく切ない想い。
それが、小町のものだったのか、自分自身のものだったのか――もう区別がつかなかった。
(あの“秘密”……。いったい、何だったんだろう。)
答えは出ない。
でも、何かが動き出している予感がした。
「なんだか、すごく大きな秘密を感じた気がする……でも、何もわからない。」
素子は驚いたように目を見開き、圭一はふっと肩をすくめた。
「まあ、こんな時代でも、何か秘密はありそうだよね。」
「でもさ……。」
笑は言った。
「小町って、あんなに心を閉ざしていたけど……誰かを、ずっと待っていたんじゃないかなって。」
「誰を?」
圭一が尋ねる。
笑はそっと肩をすくめた。
「……まだ、わからない。でも、きっと、これから会う気がするの。」
◆◇◆◇
【次回予告】
「第二章 夢と知りせば 覚めざらましを」
六歌仙の和歌を読み進めるうち、笑はふたたび幻想の世界へ――。
今度は在原業平の恋歌が、彼女を平安の秋の野へと誘う。
交わされた一対の贈答歌、その背景に秘められた想いとは?
“夢”と“現実”のはざまで、笑の心にも小さな変化が訪れようとしていた。
【作者メモ】
笑の幻想体験を通して、平安の歌人たちの息遣いや心のひだを、少しでも身近に感じていただけたら嬉しいです。
次回も、どうぞお楽しみに。
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