高嶺のマリアベル。悪役令嬢の父親は厭わない。

綿木絹

前編 高根の花と父と教師

第1話 侯爵令嬢マリアベル

 ユニオン歴469年5月。


「先に自己紹介しておきましょうか。」


 今年16歳になった少女は、前髪をかき上げながらそう言った。

 緑の虹彩で彩られた瞳はエメラルド以上の美しさを持ってる。

 腰まで伸びた紫の髪は毛先まで枝分かれすることはない。

 爪先まで綺麗に手入れされており、衣服にほつれの一つもない。

 見た目だけで彼女の生い立ちが分かる。


「私はマリアベル!ボルネーゼ侯爵の一人娘のマリアベル・ボルネーゼですわ」


 彼女の周りには大勢の生徒がいた。

 同じ制服のはずなのに素材が違うし、色もピンポイントで違う。

 見る目がある人間にしか気付けないものかもしれないが。

 彼女の眼下には普通の制服の少女が一人いた。

 その少女は見抜けない側の人間かもしれない。


「そ…。そうなのですね。貴女が噂の…。えと、私は…」


 但し、マリアベル・ボルネーゼともなれば例外である。

 見抜けない側の少女も、彼女のことは知っている。

 そもそもマリアベルを知らない人間は、この学校に居ない。

 その辺の雑貨屋で売っているヘアピンで、艶やかとは言えない金髪を留めた少女が『噂の女』を目の当たりにして息を呑む。

 そんな素朴な少女の名は——


「私はリコと申します。えっと、そうじゃなくて…、先ほどは、誠に申し訳ございませんでした!」


 ただのリコだ。彼女は倒れ込むように青い顔で頭を下げ、…いや平伏した。

 やってしまったという顔を地面に押し付けて、彼女は自分が出来る精一杯の謝罪をするしかなかった。


「おい…、見てみろよ…」

「あぁ、あの子が噂の」


 商人も行き交う貴族街の一角では見慣れた光景かもしれない。

 圧倒的多数の平民に囲まれていれば、リコに同情の目が集まったかもしれない。


 だが、ここは校内という閉鎖空間で、近くで見る程によく分かる。

 リコ以外の生徒の制服もまた、支給された制服ではないのだ。

 彼女たちとリコでは、学内に至っても住んでいる世界が違う。

 貴族の恐ろしさを嫌という程知っているから、少女は条件反射的に平伏した。


「お気になさらずに。皆々様もどうか目を瞑ってくださいませんか?例え、貴女が平民の出と分かっていても、いつもと変わらず平等に接しますの。それこそが、臣民の手本となる貴族の役割ですのよ」


 そして堂々とマリアベルはリコを許した。

 すると集まりかけていた生徒の足が止まる。

 やってしまった平民は、ただただ平伏している。

 頭を垂れる平民の女と、それを見下す高貴な女。

 世相が変わり始めているとは言え、絵画に残す価値もない当たり前の描写だ。

 ありがちな光景だったのと、ボルネーゼ家の令嬢の言葉とで、貴族の子供たちは一斉に立ち去ろうとした。


 その興醒めにも似た空気を読み、貴族令嬢マリアベルも踵を返す。


 だがここで空気が変わった。


「皆、ちょっと待ってくれ。今のマリアベルの態度はおかしい。リコもだ。リコ、立つんだ」


 男の声でマリアベルの肩が僅かに浮く。リコの方はその十倍ほど飛び跳ねる。

 言葉遣いは一般的だが、今までの趣旨に反する物言いに、衆人たちも再び足が止まる。


「ここはド田舎の貴族領とは違うんだ。リコは全く悪くない。悪くないんだから、頭を下げる必要なんてない。さぁ、手を」


 堂々と平民に手を差し伸べるヒーローに生徒たちの背筋が凍る。

 因みに、これだってありがちな封建社会の縮図には違いない。

 銀色の髪の青年、凛とした緑の瞳の彼、どこからともなく現れたやはり特注の制服を着た男。


「え!?レオナルド殿下…。どうしてここに⁉」


 最初に彼の名を言ったのは、紫髪の少女の後ろにいた橙色の髪の少女だった。

 マリアベルの側をいつもいつも、くっついて歩く伯爵家の娘だ。

 貴族の大半である伯爵家のご令嬢、彼女が声を上げてしまうのも無理はない。

 息子、娘に爵位はないとはいえ、流石のマリアベルを呼び捨て出来る人間はそうそういない。

 なんと、この学校にはこの国の王の息子、即ち王子様も通っていた。


「殿下と呼ばないでほしい。私たちは同じ学び舎の生徒の関係。敷地内に身分はない」

 

 王子が平民に手を差し伸べて、同じ目線まで引き上げる。


 とは言え、彼が間に立つだけでマリアベルとリコの立ち位置が変わる。

 封建制度の意味が変わってくる。とは言え、封建制度の頂点に立つのは彼の父親なのだ。

 とは言え、ボルネーゼ家が力を持っているのは事実である。

 風刺画家にとって、噂好きの貴族たちにとって、これは垂涎の風景かもしれない。


 ——時代が変わろうとしている…かもと


 その張り詰めた空気を読みとった平民の娘は即座に立ち上がった。


「違うんです、レオナルド様!私が勝手に転んで、マリアベル様のスカートを汚してしまっただけです。私が謝るのが」

「ち、違わなくはないよ、リコちゃん」


 すると今度は少し毛色の違う声。

 中庭の茂みから、緩やかなカールがかかった長い金髪の青年が姿を現す。

 同時に周囲の生徒たちが息を漏らす。


「おい。ここは」


 タイミング良く現れた彼は、レオナルドの友人であり、それはそれは高貴な生まれのお坊ちゃまだ。

 息を漏らしたのは女子生徒たち。彼の登場というより二人がセットで現れたことが大きいらしい。

 因みに、男子生徒は心の中で間違いなく舌を打っている。


「イグリース様‼‼」


 彼の名を出したのは、マリアベルの後ろの女子生徒だった。

 橙の髪と反対側、左側に立っていた緑の髪の少女で、彼女もマリアベルに付き従う伯爵家の娘の一人だ。

 そんな彼女の声を王子は無視し、金髪で軽薄そうな男を半眼で睨みつけた。


「イグリースは来るなと言っただろう。私の目撃証言だけで十分だ。今、リコはマリアベル達に転がされた。ちゃんと見ていたんだ。謝るべきはお前だろう、マリアベル」


 そして銀髪の王子は三白眼のまま、人差し指を令嬢に突き立てた。


「私は——」


 マリアベルは貴族の令嬢として、堂々と立ち振る舞っていた。

 背を向けたからには、ただ立ち去るのみと考えていた。

 だが流石に、王子の言葉には目を剥かざるを得なかった。

 歯噛みして俯き、一度だけ振り返る。


 平民に謝る。それがどういう意味か、王家ならば分かるだろうに、と。


「自己紹介をしたかっただけですのに」


 そして彼女は謝らない。

 ただ、その声は


 あまりにも小さく、言った本人にさえ、聞き取れない捨て台詞だった。


     □■□


 いつものように美しい背筋、制服さえもドレスと見紛う。

 それほどに美しい姿で、あの麗しき少女が立ち去っていく。

 ただ、今日はほんの少し寂しそうに見える。

 そんな彼女の背中をリコは呆然と眺めていた。

 その背を追いかけるように走っていく、橙色と緑色の髪の少女。

 二人の姿も左右対称で、とても美しく——


「あ…」


 ただその視界は直ぐに遮られ、男性の割に華奢な手が彼女に差し出された。


「ほら、リコちゃん。後は王子様に任せて、俺の手を。ほら、怪我をしていないか心配だからさ」

「えと。でも…」

「でも、じゃないでしょ。俺が保健室に連れて行ってあげるよ」


 なんて言いながら、自らがリコの手を握る優男。

 そして男に手を握られて、俯く少女。

 灰被りのリコにとっては余りにも別世界で、彼女は事態を呑み込む呼吸さえも忘れてしまっていた。


「だからイグリース。それも私の役目だ。カッコ良いところだけを持っていくな。他の者も、だ」


 王子様からの命令に、今度こそ蜘蛛の子を散らすように生徒たちが去っていく。

 笑顔を張り付けたままの生徒たちの、心の内はさて置き。


「王子様、心が狭いですよ。この国の誰よりも位が高いんです。もっと心を広く…」

「王子と呼ぶなと言っているだろ。——それよりも気付いたか?」


 因みに、少女を握っていた金髪優男の手を絡めとって、レオナルドは親友に耳打ちをした。

 勿論、幼気いたいけな少女に聞こえないように計らいながらだ。


「分かったよ、レオナルド。君が言っていた通り、平等を口にした『王立大学校』そのものは、平等な世の中を否定したがっているみたいだねぇ」


 生徒たちが内心で面白くないと思っていた。それには流石に気付いている。

 だが、それだけではなかった。

 大学校自体が平等を否定している。というのは、教職員を含めての話である。

 教員の一人、いや二人以上が今の状況を盗み見ていた。

 高貴な生まれであるレオナルドとイグリースに言える立場ではない。

 だが、それでも二人は大人達の手の上で転がされぬよう、心に誓うのであった。


 『貴族どもの好きにはさせるか』と。


 そんな二人の誓いは、少女には聞き取れないわけで。

 彼女は彼女で呆然と、消えてしまった背中の残像を思い浮かべていた。


「私はどうして転んじゃったんだろ…」

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