第22話
鬼が消え、しばらく呆然と、鬼の消えた場所を見つめていた咲夜は、何かに気付いたようにふっと刀の方を見つめた。じっと見つめる咲夜にあわせるように視線を刀へと移す。いつも通りの美しい刀身がそこにあった。咲夜は視線を逸らすことなく刀の方をじっと見つめていた。すると突然、じんわりと刀から光が溢れだした。見る見るうちにその光は刀全体に広がり、まばゆい光を発し始めた。
「咲夜! いったい何が――」
声をあげたとたんに、光は消え、何事もなかったように咲夜はそこを見つめていた。
咲夜の見つめている先には何もなかった。
「桃花が……消えました」
咲夜は静かにそう言うと、すっと立ち上がり、こちらに顔を向けた。
「話さなくてはならないことがあります」
そう言って咲夜はまた俺から目を逸らし、唇をかみ締めた。
「きっと……澤見さんは怒ってしまうでしょうね」
咲夜の瞳から涙が落ちた。
「――ど……どうしたんだよ」
俺は動揺を隠せず、咲夜の肩を掴んでいた。なぜかそうしなくてはいけない気がした。俺の中に言いようのない不安がそうさせていた。もう鬼はいないのに、もう心配することなどないはずなのに。
咲夜は少し困った様子で、ゆっくりと話し始めた。
「私と鬼が同じ場所から生まれてきたということは、もうご存知ですよね」
「俺の心から……なんだろ?」
「はい。鬼はあなたの心の欲望を象徴し、私はあなたの心の理性を表す存在でした」
対立しあう二人は、俺の心を出てからも戦いを続けた。鬼は俺を襲い、咲夜はそれを防ぐ。その戦いが今までずっと続いていたんだ。
「鬼はあなたの心へと帰ることが出来なかった。しかし、帰る欲求を止めることが出来ず、鬼の選んだ方法の一つがあなたを殺してしまうことでした」
「俺を殺して……鬼はどうするつもりだったんだ?」
「自由を得ようとしていました。あなたを殺してしまうことで、あなたと共にこの世界から消えようとしていました。あなたという檻がこの世界から消えることで、鬼も、そして私もあなたの心から開放されるはずでした」
俺は鬼のいた場所を見つめた。耳には葉音だけが響いて聞こえた。
「しかし、私があなたの心へと帰るために取った方法は、鬼たちを斬ることによって、彼らをあなたの心へと帰していくことでした。――――まったく逆の方法とることで、私はあなたの心へと帰ることを選んだんです」
「ちょっと待て……俺の心に帰るって……」
「私と鬼……対極しあう二つのものは、互いの存在をなくしてはその存在はありえない。『出る』ことができるから『帰る』ことができる。『生』なくして『死』はありえない。対極しあうものは、真逆であるがゆえに、最も近いものなんです」
ずっと目を逸らしていた咲夜が俺の目を見た。いつもの凛とした目をしていた。
「鬼が生まれて、初めて私の存在が生まれた。――鬼が消えるということは………私も消えるということなんです」
「――待てよ……なに言ってんだよ……」
「ごめんなさい。本当は……初めからわかっていたことだったんです。初めて鬼を斬ったあの日から……全て決まっていたことだったんです」
そしてまた目を逸らしてゆっくりと告げた。
「私はもう……消えます」
ただ、風が吹き抜けていた。二人の間に吹く風を俺は止める術もなくただ呆然と見つめていた。
「違うだろ……」
どうにもできないのはわかっていた。咲夜が消えるというのなら、それを止めることは俺にはできない。わかっていても、納得ができなかった。
「これからなんだろ? ――これからは鬼と戦う必要もない。いろんなこと、我慢しなくたっていいんだ。……家まで送ってくって約束したろ? 星を見にいこうって……夏休みに……みんなでさ……」
申し訳なさそうに咲夜は顔を逸らし、小さな声でごめんなさい、と呟いた。
「これから……もっといろんな幸せを掴むんじゃなかったのかよ……もっといろんな人と仲良くなってさ……いろんなところに行って……」
咲夜がそっと、俺の頬に指を当てた。咲夜の指に水滴がついた。そこで初めて自分が泣いているのに気付いた。咲夜は微かな笑顔を浮かべて言った。
「澤見さん……最後にわがままを言ってもいいですか?」
「わがまま……?」
そう言うと咲夜は体が触れ合いそうなほど近づくと両手の指を絡めて、恥ずかしそうにうつむいた。普段ここまで、咲夜に近づいた事のなかった俺は、思っていたより咲夜の背が低いことに気付く。小さな身体に細い腕。
出会ってからいままでの出来事が頭を巡る。ずっとこの小さな身体で、咲夜は戦ってきた。自分よりもはるかに大きな鬼をその手で倒してきた。初めは彼女のことが恐ろしかった。俺は彼女を避けたのにそれでも彼女は俺を守ってくれた。それからは少しずつ心が近づいていくのが嬉しかった。自分の中で、彼女の存在がだんだん大きくなっていくのがわかった。戦いが終われば、もっと些細な幸せが続くと思っていた。
――そう思っていた。
「澤見さん」
咲夜は俺の名を呼んで、また恥ずかしそうにうつむいた。口を開こうとしてはまた閉じ、目を逸らして悩んだ末に、やっと声に出していった。
「澤見さん――私を……抱きしめてもらえませんか」
そう言って、咲夜は真っ赤になってうつむいた。俺は何も言わずにそっと背中に手を回した。手が触れると同時に咲夜の体が強張るのがわかった。咲夜の小さな身体を包み込むように抱きしめると、次第に咲夜の体から緊張が抜けていき、そして咲夜もゆっくりと俺の背中に手を回した。
「澤見さん」
風音の中、俺の名を呼ぶ咲夜の声は囁くような優しい声だった。
「――私は今、一つ、願い事があるんです」
「――願い事?」
咲夜は小さく頷くとゆったりとした口調を変えることなく話し始めた。
「――私、澤見さんにずっと私のことを覚えていてもらいたい。――私が消えれば、みんなは私のことを忘れてしまうんだろうけど……だけど、あなたには覚えていてもらいたい。たとえこの世界に住む全ての人が私を忘れたとしても……あなたにだけは忘れられたくないの」
背中に回された咲夜の腕の力が強まった。
「私のこと……忘れないで欲しい。こんなこと願うのがおこがましいことだと思うけど……それでも……」
「――忘れない」
ぎゅっと咲夜の身体を抱きしめた。
「忘れるもんか……絶対忘れないから……この声も……この姿も……この身体も……このぬくもりも――絶対に忘れない」
また自分の目から、涙がこぼれた。服の袖でそれを拭い去るともう一度咲夜の身体を抱きしめた。
――絶対に忘れない。空気を通して伝わる声を……光を通して伝わる姿を……・体を通して伝わるぬくもり、感触、全ても……絶対に忘れない。
「――ありがとう」
咲夜は顔をこちらに向けて笑顔でそう言った。その瞳は潤んでいた。
「ずっと、言いたかったの……ありがとうって、澤見さんに……ずっと――私は本当にいろんな物をあなたからもらった。本当にたくさんのものを……」
咲夜は目を瞑った。その拍子で溢れた涙を指ですくうとそれをちらりと見て、
「これもあなたがくれたんだよ。――優しさの中にある暖かい気持ち。それに包まれる嬉しい気持ち。華月が恋焦がれた優しい心。人と触れ合うことで育まれる大切なもの。私に欠けていたもの。――あなたと出会って、優しくしてくれるのが本当に嬉しかった。ずっと知らなかったたくさんの楽しいことを教えてもらって嬉しかった」
「――ないでくれ」
抑え切れずに口から言葉が溢れた。
「行かないでくれよ……ずっと一緒にいたいんだ。ずっとそばにいて欲しいんだよ」
「泣かないで……私はあなたの前から消えてしまうけど、それでも私はずっとそばにいるから。――だから泣かないで……」
――咲夜にはもっと幸せになって欲しい。鬼の戦いが終われば、普通の生活に戻って、みんなともっと普通に話したり、遊んだりできる。そんな日常の幸せを掴んで欲しかった。だから、鬼が消えるのを望んだのに……。
「俺が終わりを望んだから……こんなことになったのか?」
わかっていたら、鬼が消えることなんて望まなかった。たとえ、ずっと戦うことになっても咲夜と一緒にいたかった。
「違うの。――私に心が芽生え始めた時、迷っていたの。――このまま鬼と会わずにいればずっとこの世界にいられるんじゃないかって……。そしたら、澤見さんの顔が浮かんで、このままじゃ駄目って思った。――優しくしてくれたあなたには幸せになって欲しいって思ったの」
俺の胸の中で咲夜は少し困った様子で笑顔を浮かべ、
「幸せなあなたの隣にいるのは私じゃないから……」
そうはっきりと言った。
「咲夜……」
「前に敷かれたレールの上を歩くことしか知らなかった私に、あなたは道を示してくれた。――こうなることを決めたのは私の意思。私が生まれたあの日、あなたがこの街に訪れたあの日から、彼女から与えられた使命としてでなく、自分の意志であなたを守る……・そう決めたの」
――彼女から与えられた使命?
「彼女って――」
咲夜は小さくこくりと頷いた。
「私は、あなたがこの街に訪れたその夜、この場所に生まれた。――そしてそこには彼女がいた。思い出して……あの日、この桜花の下にいた人のこと」
俺がこの街に着たあの日……この場所には………。
俺は頭を左右に振り、考えることを中断した。そんなはずはない。あいつは違う。
「彼女も、もうすぐこの世界から消えてしまう。あの人を救えるのはあなただけ。あなたのもつ意志の力だけが、その人を救うことができる」
「そんな……嘘だろ?……」
「助けてあげて……あなたにとって、そして私にとっても大切な人だから」
そう言いかけたところで、咲夜の体が微かな光に包まれ始めた。桃花を包んだあの光……。終わりの光。
「咲夜!」
「もうお別れだね……」
みるみるうちに咲夜を包む光がゆっくりと増していく。
「行くな! ――俺は……」
咲夜は俺の口を手で塞いだ。そしてそっと目を瞑り、俺の口を塞ぐその手の甲にそっと口付けをした。ゆっくりとした動作で唇を離し、閉じた目を開いた。
「私……忘れないから……ここで出会った人たちのことを……そして、あなたのことを……たとえ、みんなに忘れられたとしても……きっと、忘れない」
咲夜はぎゅっと俺の体を抱きしめた。俺も咲夜の体を強く抱きしめた。俺にはそうすることしかできなかった。
――彼女を放したくなかった。ただ、その一心で俺は咲夜の体を抱きしめていた。
「私……澤見さんのこと――」
そう聞こえた瞬間、まばゆい光が辺り一面に広がり、俺はその眩しさに目を閉じた。
――小さな鈴の音が鳴った。確かに聞こえた。
ゆっくりと目を開くと、俺は一人でそこに佇んでいた。身体にはまだ、彼女のぬくもりが、そして彼女の感触が残っていた。指の先から、少しずつ、そのぬくもりが消えていくのを感じた。
――彼女が消えた。その事を理解した瞬間、体の芯から力が抜けて、俺はその場にへたり込んだ。
数滴の涙が地面にこぼれた。俺はこぼれ落ちる涙をただ見つめていた。何も考えることができずにいた。失うことの悲しみが胸の中に渦巻いていた。
そして彼女の物語は終わりを告げた。もう永遠に彼女の物語が先に進むことはない。初めからそんなものはなかったのかもしれない。
それでも彼女がこの街に生まれ、生きていた事実を俺は忘れない。鬼との戦いも、学校で夜を明かしたことも、彼女と過ごしたたくさんの出来事も思い出として、俺の中で生き続けることだろう。
風が吹いていた。湿った空気が辺りを包んでいた。空には相変わらず、小さな星が頼りない光を灯し、まだ夜は長く続いていくような気がした。
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