第20話

「ここに、私の家があったんです」


 広々とした空き地の真ん中に俺達は立っていた。霧島は先の戦いで制服がぼろぼろになってしまったため、今は俺の服を貸している。少し大きめのシャツを着ている霧島は少し違って見えた。そんな霧島は先程から、その空き地を懐かしむように眺めている。


 その場所はまるでそこには初めから何もなかったように、雑草が茂り、捨てられたゴミが風に吹かれていた。

 朝、目覚めると霧島の身体はほとんど全快していた。夜が来るまでどうしておこうかと悩んでいたところ、霧島がどうしても行っておきたい所があると、連れてこられたのがここだった。


「この辺りに玄関があって、いつもお母様が迎えてくれたんです」


 そう言って霧島はぐるりと辺りを見回して、


「何も無くなってしまったんですね……」


 背中を向けている霧島から、悲しみが伝わってくるのがわかった。

 俺達は空き地の隅に腰掛けた。霧島の瞳にはうっすらと涙で潤んでいた。


「本当にやさしい家族だったんです。お父様は厳しかったけど、怪我をして帰る私の手当てをしてくれた。お母様はいつも優しい笑顔で包んでくれた」


 それは霧島にとって大切なものだった。しかし、全ては無かったことになってしまっていた。

 閑散とした霧島の家の跡地を見渡すと、胸に悲しみが込み上げてくる。


「代わってくれたんです」


 霧島は寂しげな表情でそう呟いた。


「代わった?」

「私はあの時――少年に負けたあの時、消えてしまうはずだったんです。今まで私が鬼を消してきたのと同様に……。だけど、私は消えなかった。まだ、消えてしまうわけにはいかなかったから……。その代償に消えてしまったのが、私の家族、そして居場所なんです」

「負ければ……消える……」

「私と鬼は、同じところから生まれたもの……そして同じところへと還っていく」


 霧島はそう言うと、その寂しげな表情を振り払い、俺に訊ねてきた。


「夢で、私と出会ったことがあるでしょう?」

「夢で……?」

「花と月があって、水の上に立っている夢。それらが私と鬼に変わる夢」


 覚えている。初めて、霧島に会ったときのあの悪夢。まだ俺が霧島を恐れていて……。


「あの夜の夢か?」

「それが私たちです。月が鬼を表し、花が桃花を表し、水があなたを表す」

「――どういう意味だ? もっと詳しく話してくれないか?」


 霧島はゆっくりとした口調で、話し始めた。


「水はあなた自身を表し、これを心とします。月は鬼を表し、これを欲望とし、花は桃花を表し、これを理性とする。風は対極を表し、欲望と理性の関係を示し、戦いは葛藤を意味する。暗闇は夜を表し、これを不安とする」

「よけい……わからん」

「つまりは私たちがそれぞれあなたの心の一部である……ということです」

「心の……一部……」

「鬼はあなたの欲望の象徴で、桃花はあなたの理性の象徴ということです。桜花の力であなたは自分の心の一部を切り取り、この世界へと生み出したんです」

「何らかの理由で、自分の心の一部を具現化させたってこと?」


 いったいなんで俺はそんなことをしたのだろう。


「深い理由は私も知りません」

「そうか……」


 どうして俺が桜花の力を受け継いだのか。どうして俺が霧島たちを生み出してしまったのか。俺は何もわかっていない。それは霧島も同じだった。霧島自身、それ以上の事は何もわからないようだった。


「桃花って……刀の名前なんだよな」

「はい。それが?」

「じゃあさ、霧島の本当の名前って、何なんだ?」

「私の……・名前……」


 霧島は眉を寄せて目を伏せた。そうして、しばらくしてからぽつりと呟いた。


「さくや……」

「さくや? それが霧島の本当の名前………」


 やはり、と思った。


「いえ、今、ふっと……頭に浮かんだです」


 霧島自身、自分の名前なのかはっきりと自信を持てずにいるらしい。だけど俺にはその名前の意味することがわかっていた。


「――――浅木朔夜」

「え?」


 首を傾げて、霧島はこちらを見つめた。


「俺が好きだった従姉の名前。――――たぶん霧島の元になった人だろうな」


 二年前、俺は朔夜さんに出会った。まだ中学生で、父さんと木葉を避けていた頃、俺たち家族の間に出来た溝を埋めてくれたあの人。


「亡くなったんだ。交通事故で」


 目の前で車に轢かれた。あの時の記憶はまだ鮮明にこの目に焼き付いている。少し乱暴な口調で、そしてどこか優しい、俺たちの姉。


「あの頃、俺は確かに、欲望とか、夢とか、色んなものを捨てようとしてた。それが間違ってるって教えてくれたのが朔夜さんだった。――俺が欲望を切り捨てて生まれたのが鬼なら、それを斬るのは、間違いを正してくれた朔夜さんなんだろうな」


 霧島は少し悲しそうに俯いた。


「――――私は、その人の模倣なんですね」

「違うよ」


 自然と優しく声が出た。霧島は顔を上げて、俺の目を見つめていた。


「霧島は霧島だ。お前は、ちゃんと今、ここにいる」


 そっと霧島の手を握った。霧島は少し照れた様子で笑みを浮かべる。


「――――さくやか……なぁ、霧島」

「なんですか」

「霧島は、俺の夢の中の花だって言ってたよな」

「はい……それが?」

「おまえの名前な。咲夜にしないか」


 地面に『咲夜』と書いて見せる。霧島はそれを覗き込むように見て、


「咲夜……それが私の名前?」

「おまえが俺の暗闇に―――夜に咲く花だっていうなら、おまえの名は咲くに夜で咲夜。霧島 咲夜……」

「霧島……咲夜。私の……名前……」


 霧島の表情に笑みがこぼれた。自分でも地面にその名を書きもう一度だけ、その名を読んだ。そして、霧島は立ち上がり俺に向かって言った。


「澤見さん……」

「どうした。霧島」

「私を名前で呼んでください」


 霧島は期待に満ちた目で俺を見つめた。それはどこか子供のような無邪気な目をしていた。


「さ……咲夜」

「はい」


 霧島は今までにしたことのない笑顔を見せ、その呼び声に答えた。


「私、今、すごく嬉しいんです」


 両手を広げ、夕焼けに染まる空を仰いで霧島――いや、咲夜は言った。


「ずっと、曖昧だったんです。自分がここにいていいんだろうか。本当にここにいるんだろうかって……ひどく曖昧な存在だったから……でも今は違う。今、ここにいるって実感してる自分がいる。今までの自分もちゃんといたんだって、実感できる」


 咲夜はまた俺の前に立った。


「澤見さん。初めて会ったときのこと、覚えてますか?」


 霧島に出会ってもうすぐ一月になる。忘れるはずがない。


「覚えてるよ。おまえから逃げまくってたし」

「私もよく覚えてます。澤見さんに避けられて、こう見えても私、すごく落ち込んだんですよ?」

「ごめん。でも、あの時は本気で怖かったんだぜ?」

「今では良い思い出です。今、こうして一緒にお話してるのが不思議な感じです」

「そうだよな。あの時から考えたら不思議だよな」


 こうして話をしているのもいつかは良い思い出として、咲夜と話すことになるのだろうか。そういえばこんなこともあったなって、笑って話せるようになるのだろうか。


「日が……沈みますね」


 咲夜の言葉に、俺は沈みゆく太陽を見た。もう夜になる。夜になれば、あの最後の鬼との戦いに向かわなければならない。


「このまま、逃げる……ってわけにはいかないもんな」

「そうですね……・そうできればいいのだけれど」


 咲夜は困った笑顔でそう答えた。


「ほんとはあいつとは戦いたくないんじゃないか?」

「――はい。できることならあの子を消してしまいたくない。あの子には自分から自分のいるべき場所へと還って欲しい……」


 そう言って、桜花の方角を見つめた。遠くの丘にそびえるその木は夕焼けに照らされ、朱に染まっていた。

 やがて辺りを染めていた夕日が沈み、夜が訪れた。夕焼けの変わりに月明かりが桜花を照らし、最後の戦いに望む咲夜を照らしていた。背に浮かぶ月は桜花の元に向かう俺達を見送っているようにも思えた。

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