第3話


  2


 騒がしいベルの音が鳴り響いた。聞きなれた目覚ましの音、見慣れない天井。

 乱雑に散らかったリビング、寝起きでぼぅっとした頭を左右に振り、周りを見て順々に思い出してくる。


「そうだ、引っ越してきたんだっけ」


 乱暴に開けられたダンボールから、自分の荷物が飛び出している。昨日の『探し物』の痕跡だ。

 結局、昨日、全てのダンボールを開ける騒ぎになった。どうしても見つからず、諦めかけていたその時、木葉が偶然開けた一度もいじっていないはずのクローゼットの中に制服は綺麗に並んでかけられていた。引越し業者の人が気を使って入れておいてくれたのだろう。

 がっくりと肩を落とし、落胆と安心の中、俺はぐっすりと眠ってしまったらしい。肩にかけられた毛布ときっちりセットされた目覚まし時計は木葉が用意してくれたのだろう。

 顔を洗い、朝の用意を始めた。制服に袖を通し、台所で朝食を取っていると木葉が自分の部屋から降りてきた。寝ぼけた様子でまぶたをこすって、


「おはよぉ、にいちゃん、あたしのぶんはぁ?」


 まだ、かなり眠たそうだ。仕方なしに俺はトーストを用意してやり、木葉の前に置いた。


「さんきゅ」


 テレビをぼんやり眺めながら、とろとろと朝食を食べ始める。俺は木葉を置いて、準備をすすめた。筆記用具、のど飴、携帯に財布を順々に鞄に入れていった。

 歯を磨いていると、木葉がどたどたやり始めた。


「あーもう! 兄ちゃんどうしてもっと早く起こしてくれなかったの!」


 俺は騒ぐ木葉を無視して、玄関で靴を履く。木葉も制服に着替え、どたばたと家中を走り回っている。それをぼんやりと眺め、ときおり「早くしないと先に行っちまうぞ」と急かす。そんなことを言いながらも律儀に待ってやる俺はいい兄貴だなと、思う。寝ぼけている時点できちんと起こさないのも兄の愛情と言うやつだ。

 木葉を待っているとインターフォンが鳴った。さくらだ。俺がドアノブを回し、外に出ようとすると木葉がぶぅぶぅと文句を言い出す。


「待ってよ、もう準備できるから!」

「外で待ってるからな」


 木葉にそう言い残し、俺は外に出た。予想通りそこにはさくらが立っていた。


「おはよ。春くん」


 俺が挨拶を返すと、さくらはにこにこ顔で迎えてくれた。転校生は校長に挨拶するために少し早めに行く。それに付き合ってさくらも早起きしてくれたのだ。


「もうちょっと待ってくれ。木葉がそろそろ出てくるから」


 さくらがコクリと頷き、玄関の方を見つめた。


「もう、待ってって言ってるのにー……」


 木葉とさくらの目線がぶつかる。木葉の顔には大きく疑問符が浮かんでいる。さくらは変わらずにこにこと笑みを向ける。


「木葉、紹介するよ。幼なじみのさくら。―――さくら、これが噂の木葉だ」


 そう言うと、さくらがペコリと頭を下げた。


「はじめまして、木葉ちゃん」

「あ、は、はい。はじめまして」


 慌てて木葉もそれに倣う。それが終わるのを見届け、二人に声をかけ、歩き始める。二人は照れながら、互いに軽く自己紹介を始めた。


「―――へぇ、十年前の幼なじみかぁ。なんかロマンチックだねぇ」


 木葉が変に納得している。腕を組んでうんうんと頷く。

 通学路の横に川が流れている。それは十年前にもあったのだが、今は昔の面影を無くし、白いコンクリートで塗り固められている。川に沿って植えられた桜も、もう季節を過ぎたために全て緑の若葉に変わっていた。この桜も昔はなかった。本当に全て変わってしまった。


 改めて街を見るとだんだんと自信を無くす。俺は本当にここに住んでいたのだろうか。自分の中に残る微かな思い出も全て偽りのような気さえしてくる。

 俺はそんな思いを振り払うために、視線をそらした。上へと向けた視線の先には青空が広がっていた。それは俺の昔の記憶と重なる青空と同じだった。

 視線を戻すと、さくらの顔が映った。彼女もまた昔の面影を残す、幼さをぬけきらない笑顔を見せている。この空と彼女だけがこの街で唯一残った俺の思い出のような気がした。


 そんなことを考えてると、ふと、さくらと目が合った。俺は恥ずかしくなって、視線を前へと向けた。遠くに高校の正門が見えた。

 はじめて見る、これから通う自分の学校を眺める。白い校舎に、所々に植えられた木々が光に反射して輝く。これには木葉も少し感動しているように見えた。木葉はつい最近、前の学校の入学式で同じ体験をしているはずなのだが、あえて口には出さなかった。


 さくらは自分のロッカーから今日授業で使うのであろう辞書や、参考書を取り出すと、俺達を校長室に案内してくれた。階段を上りきったところで、さくらが言った。


「この先の突き当たりが校長室だから。―――じゃ、私は教室に行ってるね」


 さくらは、またね、と言い残して教室へと向かった。


「さくらさんって、いい人だよね」


 さくらが立ち去るのを見届けてから木葉がさらりと言った。


「そうだな、いいやつだよなぁ」

「……ふーん……」


 上目遣いで、俺の目を覗き込んでくる。


「な、なんだよ」

「なんでもないよ。そっかぁ、ふーん……」


 何か妙な納得をしている気がするが、とりあえず無視することに決めた。木葉のことだ。何か言えば、きっと言葉で噛みついてくる。それだけは避けたかった。

 さくらに言われたとおり、まっすぐ進むと校長室の前に着いた。




 校長の話は長かった。校風がどうのこうの、はっきり言って無駄な話をたらたらしたあとに、俺らの将来のことについて熱弁を振るった。こうも多く転校を経験すると、こういった校長の話にもだんだんと慣れてくる。

 そんな話を聞き流し、校長室を後にした俺と木葉は担任教師にそれぞれの教室へと案内された。


 担任の先生に連れられ、教室についた。「ちょっと待ってて」と先生は教室の中に先に入っていく。直前まで騒がしかった教室がシンと静まり、中で何か話しているようで、少ししてから先生が顔を出して手招きした。

 教室に入ると、視線が集中する。この雰囲気だけはどうしても慣れない。


「はい、彼が転校生の澤見春くん。ほら澤見君、前に出て自己紹介して」


 改めて、教室を見回すと、よく知る顔にぶつかった。さくらだ。小さく手を振る彼女から視線を外して、教室を奥まで見渡して、自己紹介を始めた。


「えーっと、東京から来た澤見春です。えっと……はい……」


 俺は他に何を言っていいかわからず、先生のほうをチラリと見た。俺の心中を悟ったのか先生が喋り始めた。


「澤見君はもともと、こちらの方に住んでいたことがあるそうです。もしかしたら顔見知りの人もいるかもしれないわね。―――じゃあ、私は授業があるからこれで。質問とかは休み時間にしなさい。澤見君の席は窓際の一番奥だから、それじゃ」


 先生は早口にそう言うとさっさと教室を出て行ってしまった。俺は自分の席につくと、どっとクラスメイトが波のように話し掛けてきた。

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