ああ!昭和は遠くなりにけり!!第12編
@dontaku
第12話
ああ、遠くなる昭和の思い出たち
(続11)淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂そして歌穂
1月第2週の土曜日。午前中は保育園での今年初めての演奏会だ。遥香さんの都合が付かないため4人での演奏会だ。それでも優太君と歌穂の楽しいヴァイオリンの演奏にちびっ子たちの明るい笑顔が絶えることは無かった。里穂も遥香さんの後が継げる位の見事な演奏を見せて美穂と子供たちのお遊戯をアシストしてくれた。優太君のアニソン、歌穂の童謡なども次々と演奏されちびっ子たちだけでなく保護者の皆さんにも好評だった。ちびっ子たちが退場すると園長さんたちからのリクエストに答える。
里穂と歌穂のセッションで「チゴイネルワイゼン」を披露する。小学校3年生と1年生の見事な演奏に皆さんからため息が出る程だった。特に定番となった曲後半からの高速演奏にはすっかり魅了させられたという表情で皆さんが聴き入ってくださった。
ばっちりのタイミングで2人が演奏を終えると物凄い拍手が起こった。深々とお辞儀をして里穂と歌穂が退場すると入れ替わって美穂と優太君の登場だ。
美穂のピアノが鳴り響くと優太君の演奏が始まる。今や十八番となった「カルメン幻想曲」。プロ顔負けの力強い演奏で魅せる小学5年生同士のセッションにまたまた度肝を抜かれる皆さん方。もうプロのリサイタルといった様相でこちらも後半の高速演奏になだれ込んでいく。その勢いに完全に飲まれてしまった皆さん方はただ呆れたような表情で2人の演奏に酔いしれていた。こちらも2人揃っての力強いフィニッシュを魅せる。会場は拍手の渦だ。2人は深々と一礼して里穂と歌穂を呼んだ。拍手が鳴り止まない中、4人揃って再度お辞儀をして拍手に答えた。園長先生のお礼と感想を頂き無事に終了となった。
保護者の皆さんは連絡事項等があるとのことで、4人は拍手で見送られて保育園を後にした。
「いつ聴いても4人の演奏は見事だわあ。」そう言って一人でパチパチパチと拍手をしてくれる若菜さん。
4人で照れまくる姿を見ていると普通の小学生なんだなあと思う若菜さんだった。
歌穂のCM出演の話は信子から副社長さんに話があったと若菜さんが教えてくれた。「事務所でもその話題で持ちきりなのよ。」更に「“天使の3姉妹”と“歌穂のヴァイオリン姫”のCMを同じタイミングで流すみたいよ。」4人にそう説明をしてくれている間にわが家の近くまで戻って来た。
「お昼はどうしようか?」若菜さんが4人に尋ねる。
演奏でお腹が空いているようで全員お寿司が食べたいとあっという間に意見がまとまった。何時もの回転寿司屋さんに入るが順番待ちだ。一先ず伊藤さんが順番待ちをしてくださると言うので5人はワゴン車で待機することにした。その間は歌穂のCM撮影の話で大盛り上がりだ。早紀さんからの連絡を皆心待ちにしていた。「あのスタジオで撮るのかなあ。」と里穂が言うと「私たちも付いて行って良いのかなあ?」と美穂も歌穂が一人になることは避けたいと思っている様だ。「そうだね。歌穂ちゃんは初めてだから近くにいてあげたいよね。」優太君も歌穂一人きりでの撮影は心配の様だ。「打ち合わせの時にママに話してもらおうよ。」里穂の言葉に美穂と優太君はうん、うんと頷いた。肝心の歌穂はまだ実感が涌かないようで他人事のような顔をして3人の話を聞いていた。
「そうしようね、歌穂。」美穂がそう話しかけると「美穂お姉ちゃん、私、海老アボカドが食べたい。」と的外れの返事をする歌穂。そんな歌穂を「やだあ!歌穂ったらあ!」と笑いながら抱き締める里穂。「あらあら、肝心の歌穂ちゃんは心ここにあらずって感じだね。」そう言って若菜さんも笑い出した。「それにしても、今日は16時からで良かったわね。」若菜さんの言葉に大きく頷く美穂。
若菜さんの携帯が鳴る。伊藤さんからだ。これを合図にワゴン車から店内に急いで移動する。店内は大勢の人が順番待ちをしていた。奥の席から伊藤さんが手を振ってくれていた。4人の登場に一瞬騒めく店内。だが4人は特に気にも掛けずテーブル席へ急ぐ。お腹がペコペコの4人は早速回ってくるお寿司に目を送っている。「あっ!歌穂!海老アボカドが来たよ!」そう言って里穂が教えてくれる。タイミングを計って見事にゲットする歌穂。もうすっかり慣れたものだ。
皆好きなものを取って並べていくとあっという間にテーブルがお寿司でいっぱいになる。通路を通る人がちらりと6人のテーブルを見てその様子に皆驚いて通り過ぎて行く。3姉妹は端末をピアノの様に連打して注文していく。それに呆れる3人。「さすがだなあ。」伊藤さんが思わず漏らす。優太君と若菜さんもうん、うんと笑って頷いた。
その後、結婚式場の控室にいる若菜さんに信子から電話が入った。歌穂のCM撮影の日程を控えて欲しいとの連絡だった。いよいよ歌穂のプロジェクトが始動し始めた。
歌穂のCM撮影の打ち合わせが行われる次の土曜日がやって来た。歌穂は信子と優太ママと一緒に楽器メーカーの本社ビルに居た。1階の受付で入館証を頂く。自分の名前が書かれている入館証をじっと見つめる歌穂。とても嬉しそうだ。信子と優太ママも入館証を貰って説明を受けていた。エレベーターホールで2人のママに教わりボタンの上のセンサーに入館証をかざすとエレベーターを使うことが出来る。中に入りもう一度行き先階ボタン上のセンサーにかざすとそのボタンが押せるのだ。
エレベーターホールで出迎えてくれた早紀さんに新年のご挨拶を交わし宣伝部の会議室へ向かう。入って右側の席に信子、歌穂、優太ママの順に座り宣伝部の皆さんが来られるのを待つ。すると早紀さんともう一人女性が入って来られ3人にお茶を出してくださった。「歌穂ちゃんはお茶で良かったかしら?」そう聞かれて「はい。」と答える歌穂。それから、早紀さんから一緒に居る女性の紹介があった。歌穂の宣伝担当となる千里さんが今後の窓口となるということだった。
「初めまして。千里と申します。今後ともよろしくお願いいたします。」そう言って名刺を渡していただいた。信子と優太ママは自分の名刺を渡していた。
「歌穂。この名刺をお2人にお渡しして。」信子に渡された名刺をきちんと両手で渡す歌穂。「ありがとう、歌穂ちゃん。」そう言って歌穂の名刺を見るお2人。
「まあ!高原町の観光大使なのね!」そう言って驚くお2人。するとドアをノックする音が。
「失礼します。」そう言って入って来られたのは宣伝部の部長さん、課長さん、CM担当者の3名の方々だ。
課長さんとCM担当さんは初対面なので3人で名刺交換をする。大人に交じっての歌穂の名刺交換する姿が可愛い。早紀さんと千里さんはそんな歌穂の姿を見て可愛いのは元よりしっかりした子だと思った。開発部の皆さんから聞いていた通りの女の子だと確信出来た。
先ず、最初に歌穂がOKを出した子供向けの新開発のヴァイオリンの名称が“エチュード(練習曲)”と決まり現在生産ラインに乗っているとの報告がなされた。それに喜ぶ歌穂。通常のバージョンと上板に小さく里穂のサインが書かれた歌穂バージョンが設定されているとのことだ。信子と優太ママの顔を交互に見て小さく手を叩く歌穂。そして現物のモックアップ見本が3人の前に並べられた。小さいながらもしっかりと歌穂のサインがプリントされている。歌穂はモックアップを手に取って顎あてに自分の顎を乗せてみた。5人の社員さんたちはその仕草をじっと見つめていた。「ふう。」ため息をつく歌穂。
「どうしたの?歌穂。」信子が歌穂に聞いた。
「サインが気になるのね、歌穂ちゃん。」優太ママが歌穂にそう尋ねると小さく頷く。
「えっ!サインが?」驚く社員さんたち。
「はい。表板の上部にサインがあると楽譜を見たり弦を抑える時にどうしても気になってしまうんです。
ですから気が散ってしまう子も多いと思います。
出来れば右の側板部分に移して頂ければと思います。」
「ちょっと貸してね。」千里さんが歌穂の持つヴァイオリンを渡してもらい顎で挟んでみる。
「あっ!歌穂ちゃんの言う通りかもしれません。大人は気にならないかもしれませんが好奇心旺盛の子供たちは目が行ってしまうかもです。」そう言って部長さんにモックアップを渡した。「うん。確かに子供たちは気になるかもしれないな。直ぐにサイン入れを中止させよう。」そう言って会議室から急いで出て行かれた。残った社員3人は順番に顎あてに自分の顎を乗せてみる。「その状態で身体を上下左右に振ってみてください。」優太ママがアドバイスをしてくれた。
「あ!ああーっ!本当だ!動くとサインがついてくる!」ヴァイオリンの表板に書かれているのだから当たり前なのだが。
「そうね。最初は直立不動で弾き始める子が多いけど慣れてくると身体でリズムを取る子も出てくるわね。」頷きながら早紀さんも納得してくれた様だ。
「そうだね。側板なら演奏の邪魔にならないね。」
CM担当の社員さんも納得出来た様だ。
「ふう。今、工場の責任者にサイン入れを中止してもらったよ。歌穂ちゃん、貴重なご指摘をありがとう。いやあ、開発部の部長が言った通りだ。何て頭脳明晰なお嬢さんなんだ!」部長さんはそう言って手放しで歌穂を褒めてくださった。ちょっと照れた顔が可愛い歌穂だった。
サインの件が落ち着いたところでCM担当の社員さんからCMの概略の説明が行われた。
題名は“ヴァイオリン姫と『エチュード(練習曲)』”と決まったとのことだ。弾く曲は「きらきら星」。
ヴァイオリン店でヴァイオリンを探すヴァイオリン姫(歌穂)が新しいヴァイオリン“エチュード(練習曲)”を見つけ手に取って「きらきら星」を弾いてみる。そして「“エチュード(練習曲)”!皆も一緒に弾こうよ!」と呼びかける。そしてステージで「ラ・カンパネラ」を演奏するっ歌穂の映像で終わるといったストーリーだ。
衣装については楽器店では普段着っぽいもの、最後に入れ込む「ラ・カンパネラ」の演奏シーンは音楽ホールで白地に青いラインの入ったドレス姿で撮影するとのことだ。さっそく千里さんによって、衣装作成のために歌穂の採寸が行われた。
ロケ地は香織さんの勤めるヴァイオリン専門店と有名な貸しホールだ。歌穂の時間は土日しか取れないことから一発で撮り終えるという意気込みだった。
セリフの台本を頂き、来週土曜日の撮影に臨む歌穂。
たった1行のセリフだが、早速、帰りの車の中で練習をしていた。
「歌穂、ちょっと寄り道するわよ。」信子はそう言って携帯電話販売店に車を停めた。そして3人で店内へ。
「歌穂、好きな電話を選んで良いわよ。」
家に帰ると里穂と優太君が玄関まで走って出迎えに来てくれた。歌穂が携帯電話の入った紙袋を持っているのに気づくと早く見せて!とせがむ里穂。それを笑って見守る優太君。歌穂が新しいマリンブルーの携帯を取り出すと里穂の説明が始まった。「お友達とかの連絡先を入れるのって大変なのよね。」里穂はそう言いながら住所録を開く。「わあ!もう登録してあるじゃないの。」驚く里穂に「お店のお姉さんがママの携帯からコピーしてくれたの。」そう言ってにっこり笑う歌穂。
丁度その時美穂と若菜さん、伊藤さんが結婚式場から帰ってきた。美穂はいつになくご機嫌だ。若菜さんが台所の信子に何やら報告している。
「美穂ちゃん、何か良いことがあったのかい?」美穂にそっと尋ねる優太君。「うん。結婚式場のCMに出ることになったの!」そう言って優太君に抱き着く美穂。「そうか!そうか!おめでとう!」そう言いながら二人で抱き合って飛び跳ねながらくるくる回っている。
そんな時優太ママが慌てた様子でピアノルームから飛び出してきた。「優ちゃん大変大変!コンマスが優ちゃんと「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」をコラボしたいって連絡があったの!オーケストラをバックに優ちゃんが弾くんだよ!ママ嬉しくって!」そう言いながら優太君の手を取って踊り出す優太ママ。
「えっ?僕が?」信じられない表情のままダンスに付き合せられる優太君。「いやあ、優太君おめでとう!」伊藤さんも拍手をくれた。「皆すごいなあ。」里穂は少し落ち込んでいた。何処からか電話を貰っていた信子が里穂のところへやって来た。
「里穂!落ち込んでいる場合じゃあないわよ。サッカークラブの親会社からCMの依頼と国歌斉唱の依頼も来ているそうよ。」どうやらクリスマス会でコーチの皆さんの前で歌ったことがご縁に繋がったらしい。
「里穂にはのど飴のCM依頼も来ているそうよ。」そう言って里穂に抱き着く信子。里穂は信じられないといった感じで放心状態だ。皆で「おめでとう!」とお互い祝い合う4人。「わあ!誰が何をするのか分からなくなってしまった!」手帳に予定を書き入れながら嬉しい悲鳴を上げる伊藤さんだった。
一気にCMの依頼が入って来た4人。若菜さんはスケジュールの調整に大わらわだった。伊藤さんと2人で依頼主との撮影交渉などを行なっていた。そんな中で一番気がかりなのは最年少の歌穂だった。姉たちとスケジュールが重なるとどうしても1人で行かなければならない。水曜日以外の平日なら都合が着くという2人のママも協力してくれるという。「最悪、学校をお休みさせるしかないわね。」そう言って割り切る2人のママ。第1、第2土曜日の午前中が塞がっているのと結婚式場の仕事が入っているので美穂のスケジュール調整が大変そうだ。そこで若菜さんが提案したのは式が終わった後の会場での撮影だ。同じ結婚式場のCMなので融通が利く。土日は2人のママと手分けして4人でマネージャー業務を行うこととした。子供たちが学校に行っている間、4人の協議は続いた。時折事務所と相談しながら若菜さんは話しを進めていく。
「準備さえ整えばあの子たちのことだから直ぐにOKを頂けると思うの。でも、監督さんとかプロデューサーさんの意向通りに演奏できなかった場合が怖いわ。」信子が一番気にしているのはそこの部分だった。美穂と里穂は臨機応変だが歌穂はどうだろうか。
「でも、先週の打ち合わせでもはっきりと意見を出していたから大丈夫だよ。」優太ママがそう言ってフォローしてくれた。「私は優太が心配なの。オーケストラの真ん中で独奏するなんて、しかも私の目の前でだよ。音合わせは土日ぶっ通しだし、土曜日の2件の演奏会はお休みするかもしれないわ。」そう心配する優太ママに「誰かいればソロリサイタルが可能な4人だからどうにかなるわよ。」と言って優太ママを元気付ける信子。「土日は私たちも会社の車かレンタカーで対応させていただきます。」2人のマネージャーさんから力強い言葉を頂き安心する2人のママ。後は若菜さんと伊藤さんにスケジュール調整をして頂くだけだ。
「あっ、そうだ。歌穂に携帯を持たせたの。番号は・・・。」
月が替わった2月最初の土曜日。節分ということもあり、老人ホームは豆まきが行われていた。今日は遥香さん、優太君がお休みとなり3姉妹での演奏会だ。
最初は歌穂の文部省唱歌の演奏に始まる。歌穂の弾く優しいヴァイオリンの調べにうっとりとするホームの方々。特に「おぼろ月夜」「みかんの花咲く丘」が好評だった。美穂のムード歌謡、里穂の演歌とホームの皆さんは大盛り上がりだ。外部からのお客様も大勢いらして会場は大盛況だった。最も受けたのは美穂と里穂の曲紹介をした歌穂だった。しっかりとメモを見ながらだったが「可愛い!」と掛け声が飛び交う程だった。
そんな3姉妹だが、午後からは3人が別行動になる。
ピアノの出番がない信子が歌穂をCMで着る衣装合わせに同行する。若菜さんは里穂のサッカークラブ部のCM打ち合わせ、美穂は伊藤さんと披露宴の仕事とポスター撮りといよいよ大きく動き始めた。
遥香さんも優太君もお互いに練習や音合わせに出向いていた。
翌、日曜日。今日は、美穂は結婚式場の仕事が2件と夜にはCM撮影のリハーサル、里穂は午後から美里さんに国歌の歌唱指導を受け、歌穂は来週日曜に行われるCM撮影の打ち合わせとスタッフさんたちとの初顔合わせに臨む。美穂と里穂はCM撮影の経験があるためあまり心配事は無かったが、歌穂は信子と一緒とはいえ大勢のスタッフさんたちの中での一人で撮影だ。
予定より早めにスタジオ入りし、皆さん全員に挨拶をして回る。わざと歌穂一人だけをその場に残して信子はそっと陰から歌穂の様子を伺う。監督さん、助監督さんから演技指導を受けて緊張しているかと思いきや時折皆さんの笑い声に包まれて一緒になって笑っている。そんな歌穂の姿を見てホッと一安心の信子だった。
皆さんが小休憩される間に歌穂は衣装合わせだ。イメージ画通りの衣装に歌穂は目をぱちくりさせて大喜びだ。スタイリストのお姉さんたちに着せていただく。
「わあーっ!かわいい!」お姉さんたちの大きな声が更衣室から聞こえてくる。そして直ぐにお姉さんたちに連れられて更衣室から出てきた歌穂。
白とピンクのレースのストライプが入ったスカートはふんわりと広がり春を思わせる明るい色調だ。
「うん。歌穂、良く似合っているわよ。」信子に言われて少し照れる歌穂の表情に集まってきたスタッフさんたちからも「おおーっ!」という声が上がる。とうとうプロデュ―サーさん、監督さん、助監督さんも小休憩を切り上げて駆けつけてこられた。
「おおーっ!これは可愛い!」口々にそう言いながら愛らしい歌穂を眺めている。
「今からスチールだけでも撮らないか?」監督さんの提案にスタッフの皆さんが所定の位置に着く。
歌穂はカメラマンさんとは初めてだが、実は“天使の3姉妹”を撮影してくださったカメラマンさんだ。
優しく歌穂に話しかけながら何枚もシャッターを切っていく。その様子を皆さんがじっと見つめている。
静まり返ったスタジオ内にカメラマンさんの声とシャッター音だけが響いていた。
ADさんに新発売のヴァイオリン“エチュード(練習曲)”と弓を渡された歌穂は嬉しそうに構える。
「あっ!」皆が息を飲む、
歌穂は何時も通りビシッ!と立ちポーズを決める。
既に先ほどまで見せていた照れた表情は無い。きりりと引き締まった表情はプロのヴァイオリニストそのものだった。余りの豹変ぶりに全員が驚く。唯一驚かなかったのは“天使の3姉妹”を撮影したカメラマンチームの皆さんだけだった。普段は愛くるしい女の子たちが演奏となると表情が一変する、姉ら3人を撮影したカメラマンさんはその表情を待っていたかのようにシャッターを切り続ける。
「歌穂ちゃん、何か弾いて見せてよ。」カメラマンさんのリクエストに「はい。」と答える歌穂。ニュースでは話題になっている歌穂ら4人だが実際に演奏を聴いた人は残念ながらいなかった。
「歌穂、何時も通りソロバージョンでね。」信子の声に頷く歌穂。
最近練習している「ラ・カンパネラ」を力強く弾き始める歌穂に「おおーっ!」と驚きの声が上がる。身体を大きく揺らしながら新製品のヴァイオリン“エチュード(練習曲)”を弾きこなす歌穂。それに合わせて愛らしいスカートがゆらりゆらりと揺れる。カメラマンさんはそんな歌穂を撮りまくった。「こんな難しい曲を良く弾けるなあ!」そんな感心する声が現場に広がる。そんな中、歌穂は曲後半の高速演奏に入る。余りの速さにヴァイオリンが壊れるのではないかと皆さんが心配するほどだ。
「うふふ。大丈夫ですよ。歌穂は正確に弓を弦に当てていますから。」そう言って笑顔で歌穂を見つめる信子だった。そして大迫力の歌穂の演奏は終わった。
全員が拍手で歌穂の熱演に答えてくださった。
「歌穂ちゃん、小休止がてらにもう1着のドレスも着てみてよ。」監督さんの言葉に信子に渡されたドリンクを頂きながら「はい。」と答える歌穂。再びスタイリストのお姉さんたちと更衣室へ向かう歌穂。
「信子さん、歌穂ちゃんの演奏、素晴らしいですね。響子さんが惚れ込むわけだ。」プロデューサーさんがそう言って褒めてくださった。
「いやあ、3姉妹のピアノも見事だったけど歌穂ちゃんのヴァイオリンの演奏は半端じゃあないですね。」助手の男性にカメラを交換してもらいながらカメラマンさんはそう言って驚きを隠せない様だ。
着替えが終わる頃を見計らって更衣室へ足を運ぶ信子。更衣室からは笑い声が聞こえてくる。「うふっ、心配して損しちゃった。」信子はスタジオへそっと戻って行った。
着替えとお色直しを終えた歌穂がスタジオに現れた。
「おおーっ!このドレスも素敵だ。」皆さんからそんな声が上がる。ピンクに替わってスカイブルーのストライブの色違いの衣装だ。また別のセットで撮影を行う。最初はヴァイオリンなしでの撮影だ。カメラマンさんの指示にてきぱきと応える歌穂。カメラマンさんもノリノリになってきた。そんなカメラマンさんを見て笑う歌穂。愛らしい笑顔が次々とカメラに収まって行った。続いてはヴァイオリンと弓を持っての撮影だ。
こちらも笑顔でカメラに収まる歌穂。
「えっ!もう撮影やっているんですか?」その声は宣伝部の千里さんだ。「やあ、千里ちゃん。あんまり可愛いので先にスチール撮っちゃっているところだよ。ごめん、ごめん。」監督さんが両手を合わせて千里さんに謝っている。「うわあーっ!順調過ぎですね。」荷物を降ろしながら千里さんは嬉しそうに監督さんに言った。そして信子に挨拶をして見学の輪に加わった。
「可愛い!」思わず声を出す千里さんにスタイリストのお姉さんたちが最初のピンクも可愛かったと聞いて残念がる千里さん。「千里さん、ごめんなさいね。現場に慣れさせようと思って早く来たらこの状況なの。」信子の言葉に笑って頷く千里さん。
「よおーし!歌穂ちゃん、また弾いてみてくれる?カメラマンさんの言葉に頷く歌穂。そして再びビシッ!と立ちポーズを決める。そして各弦の音を確かめていく。
「す、すごい!まるでプロそのものだわ!」驚きの声をあげる千里さん。「チゴイネルワイゼン」を弾きます。そう言って構える歌穂。直ぐに演奏が始まった。力強くキレのある音色はとても6歳の女の子が弾いているとは思えなかった。そんなことはお構いなしに歌穂は演奏を進めていく。「信じられん。何でこんなに上手に弾けるのだろう?」プロデューサーさんが半ば呆れかえったように呟く。
「いやあ、スチールでこれだけ可愛いとなると明日の映像撮影も楽しみです。」プロデューサーさんは腕組をしながら信子にそう言った。
丁度その頃、結婚式場では美穂のCM撮影が行なわれていた。結婚式場の正面玄関から左右に分かれて登って行く階段をバックにエンジのドレス姿の美穂がしなやかに登って行くシーンだ。慣れなかったハイヒールにも直ぐに慣れて教わった通りの歩き方でとても10歳とは思えない仕草が妙に色っぽい。大勢の見物客を気にすることもなく撮影は順調に進んだ。
「ピアノまでやっちゃおうか。」監督さんがそう言うとスタッフの一人が「18時まであと50分ありますから大丈夫です。」と答えた。小学生の労働時間は市の条例で18時までと定められているからだ。
撮影道具が大急ぎで披露宴会場へ移される。グランドピアノの脇に数台のカメラが設置された。美穂の斜め前からの2台、指元を写すカメラが1台、遠くからズーミングするカメラが1台と斜め上からのカメラが1台、計5台ものカメラが設置されていく。その間に美穂はお色直しでノースリーブの白地に青い花が散りばめられたプリント柄のドレスに着替えての撮影だ。
音源も同時に録音される1発撮りだ。
短いリハーサルが行われカメラや照明、録音機器などのチェックが行われる。すると会場の外から大声で話す声が。すぐさまスタッフが外へ飛び出す。やがて大声は聞こえなくなった。それでも人の声がかすかに聞こえるというので部屋の周りは立ち入り禁止となってしまった。そのおかげで美穂の「結婚行進曲」の撮影は一発OKをいただいた。取れ高に満足の皆さんにお礼を言って普段着に着替える美穂。若菜さんが監督さんたちと笑顔で話をしている間に伊藤さんが荷物を纏めてくれた。スタイリストさんたちにお礼を言って更衣室を出てきた美穂は監督さんを始めとするスタッフの皆さんに「ありがとうございました。お疲れさまでした。」とお一人お一人に声を掛けて回った。皆さんも笑顔で美穂に答えてくださった。その様子を見ながら監督さんが若菜さんに言った。
「あんな子は初めてだよ。可愛くて、ピアノが飛び切り上手で、しかも礼儀正しい。あの子は絶対に売れるよ。うん、うん。」そう言って笑って頷いてくれた。
丁度同じ頃、美穂と歌穂が家に帰ってきた。里穂はピアノルームで発生練習と国歌を歌っていた。
リビングでお互いの撮影の様子を交換し合う2人と大人3人。初心者らしくヴァイオリンが思ったように弾けないという歌穂に「弦を荒っぽく弓を当てて弾いてみたら?」とアドバイスする美穂。あまり上手に弾けない美穂からの的確なアドバイスだった。
翌、日曜日は美穂と歌穂はCM撮影、里穂はボイストレーニング、優太君は音合わせと皆多忙だ。
美穂には若菜さんが、優太君と優太ママには伊藤さんが、歌穂には信子がとそれぞれ車で送迎を行なった。
美穂は午前10時と13時に披露宴での演奏の予定が入っているため16時から18時の間に撮影を行うことになっていた。
また、歌穂はスタジオでの撮影が続けられることになっていた。初心者らしい演奏は美穂のアドバイスもあり何度か練習して出来る様になっていた。スタジオでの撮影は順調でNGなしで撮り終えることが出来た。
そして2か所のロケ先へ向かう。ドレスを着たままマイクロバスに乗って千里さん、プロデューサーさんや監督さんといろいろなお話をさせていただいた。
最初の現場は貸し音楽ホールだ。着くや否やプロデューサーさん監督さんと一緒にホールの責任者さんにご挨拶へ行く。お2人に交じっての可愛らしいお客様に責任者の方を始め他のスタッフさんたちは大変驚かれていた。「演奏されるんですよね?」そう聞かれにこにこと「はいもちろんです。」と答えるプロデューサーさん。ホールのステージはいつでも演奏が出来る状態だ。機材の設置が行われる中「歌穂ちゃん、肩慣らしに少し弾いてみようか。」と監督さんから声がかかる。その様子を遠巻きにホールの関係者さんが見守っている。「あんな小さな女の子に何を弾かせるのかな?」皆さんがそうひそひそ話をしている。
ADさんが歌穂にヴァイオリン“エチュード(練習曲)”と弓を手渡した。1弦ずつ音を確かめる歌穂。
「いつでもOKです。」静まり返ったホールに歌穂の可愛い声が響く。スポットライトが歌穂に当てられピンクのラインの入ったドレス姿の歌穂がステージ上に浮かび上がる。「うわあ!かわいい!」ホール関係者の女性たちからそんな声が上がる。
「よおーし!リハを始めるよ!僕が手を揚げたら演奏を始めてね。」そう言って各ポジションの確認をする監督さん。おもむろに右手が上がった。
何時もの様にビシッ!とヴァイオリンを構える歌穂。
驚くホール関係者の皆さんをよそに歌穂の演奏が始まる。信子はもう見ているだけで良かった。
「ラ・カンパネラ」の演奏が始まる。小さいホールながら音の反響が素晴らしい。それに気付いたのか歌穂は何時もより柔らかく演奏を続けていく。そのあまりの上手さにびっくりのホール関係者の皆さん方。第3部から高速演奏が始まる。その速さ、それを支える技術力に呆然とするホール関係者の皆さん方。中には何処かで誰かが弾いているのではと辺りを見回す人さえもいた。怒涛の様なラストを見事に演奏した歌穂に沢山の拍手を頂いた。「歌穂ちゃん、すごい演奏だったね。少し休んで本番に行こうね。」監督に言われて「はい。」と返事をするや信子の元に駆け寄る歌穂。何やら耳元で相談している。うん、うんと頷く信子。
「すみません。ピアノをお借りしてもよろしいですか?」そう言って歌穂と一緒にステージ上のピアノの元へ。おもむろに「ラ・カンパネラ」の1パートを弾き始める信子。頷きながらその旋律を聴いている歌穂。
信子のピアノ演奏がだんだん早くなる。そこでピアノが止まる。「こんな感じよ。」信子の声に「うん。」と頷く歌穂。「一緒に弾いてみましょう。」そう言って目で合図を出し合う。ピアノの伴奏に合わせて間を確かめているのだ。「もう1回やってみましょうね。」
そんな様子を見守るプロデューサーさんと監督さんたち。あれだけ見事な演奏を披露した歌穂だが自分では納得できる演奏ではなかった様だ。他の皆さんも何がどういけないのかがさっぱり分からなかった。
「ごめんなさい、お時間を頂きました。」そう言って頭を下げる2人。信子は客席に戻る。「信子さん、大丈夫ですか?」「はい。」
「よーし!本番へ行こう。カウント!」監督さんの言葉にスタッフ全員に緊張が走る。「10,9,8・・・」と助監督さんのカウントダウンが始まる。「キュー!」
舞台中央で深々とお辞儀をする歌穂。そしてビシッ!とポーズを決める。歌穂の演奏が始まる。相変わらずの小学1年生らしからぬ演奏だ。身体を揺らしながら演奏をする姿は正しく“ヴァイオリン姫”そのものだ。
このホールではドレスを着替えて2パターンの撮影が行われた。更衣室で次の衣装に着替えて次のロケ先へ向かう。ホールの皆さんの握手責めに嬉しい悲鳴を上げる歌穂。そんな音楽ホールを後にして最後の撮影となるヴァイオリン専門店へ向かう。今日は臨時休業しているとのことだ。繁華街のビルの一角にあるため楽器店の前にマイクロバスを停めての撮影だ。信子の車は“道路占有許可証”が無いため近くの駐車場へ。
歌穂の着替えが入ったバッグを持って信子が楽器店裏口から中へ入る。中はライトに照らされている。
普段着の歌穂が2階へと上がっていく姿が撮影される。何度かリハーサルが行われて本番がスタートする。
ウキウキ感を出す演技もばっちりと決まりOKが出される。「歌穂ちゃん!女優さんでもやって行けるよ!」総監督さんに大声で言われて何時もの少し照れた表情を見せる歌穂。スタッフさんたちも皆笑顔だ。
信子も歌穂の様子に安心していた。
2階に上がるとヴァイオリンがたくさん並んでいる。
ここで香織さんと初めてご挨拶をする。しっかりと名刺を交換すると直ぐに香織さんが話しかけてくれた。
「実は優太君と美穂ちゃんがヴァイオリンを買いに来てくれたの。びっくりしちゃって。そしたら今度は歌穂ちゃんが来てくれて、またまたびっくりしているの!」撮影の準備が出来るまで信子を交えたお喋りが続いた。スタイリストさんに呼ばれて歌穂と香織さんが事務室でお化粧をする。どうやら共演する様だ。
香織さんはひたすらセリフを繰り返して練習している。何度かそれを聞いて覚えてしまった歌穂だった。
歌穂のセリフは「私にも弾けるヴァイオリンはありますか?」だけなのだが香織さんは商品である“エチュード(練習曲)”を説明するセリフの練習を直前まで続けていたのだった。リハーサルで陳列されているヴァイオリンたちを見て回り“エチュード(練習曲)”を見つけるシーンの撮影だ。ここまではセリフは無く見つけた時の歌穂の喜びの表情がズームアップされる設定だ。「ちょっと待って。」プロデューサーさんから疑問が提起された。「駄菓子屋じゃあないんだからさあ、子供が一人でヴァイオリンを買いに来るかい?」
最もなご意見だ。そこで母親である信子が加わることになった。しかも「あらあーっ、たくさんあるわね!」というセリフ付きだ。少し躊躇する信子だが横で歌穂が手を叩いて喜んでいる。
信子を含めた3人でのカメラリハーサルとなった。
ヴァイオリンを探す歌穂と信子に店員さんの香織さんが声を掛け、新商品“エチュード(練習曲)”を紹介し、早速歌穂が「きらきら星」を習い始めの子の様に弾いて見せるという設定だ。「あのね、少し音を外してあるから普通に弾いても大丈夫だよ。」2人にそう言って微笑む香織さん。
数回のリハーサルの後本番が始まる。最後の撮影だ。皆に緊張が走る。そんな中、本番も無事に撮り終えモニターチェックが行われる。シーンを繋げるためにやや遅れて信子が歌穂に合流するといった設定となっていた。監督さんのOKもいただき拍手の中プロデューサーさんから歌穂に花束が贈られた。生まれて初めて受け取る花束に満面の笑みを浮かべ喜ぶ歌穂。
折角仲良くなれた皆さんとのお別れが寂しい歌穂だったが「また一緒に仕事しようね。」という皆さん方に手を振って信子の車の到着を待つ。付き添ってくださった千里さんと香織さんにお礼を言って車に乗り込み手を振って車中の人となる歌穂だった。
一方、結婚式場では美穂の撮影が行われていた。
昨日とは違うドレスに着替えてのピアノの演奏シーンの撮影だ。併せてスチール撮りも行われた。美穂はもうポージングもカメラマンさんの求めよりも先にポーズを決めていく程だった。そのため映像撮影の支障になることもなく順調にスケジュールは熟せていた。髪型も大人っぽく仕上げられた美穂はカメラチェックの度に映っている自分の姿に驚いていた。「美穂ちゃんの花嫁姿を最後に撮るからね。」監督さんにそう言われてウエディングドレスに着替える美穂。
式場内のチャペルで男性モデルさんとの結婚式シーンの撮影だ。スタイリストさんとメイクさんに連れられてチャペル前に現れた美穂の姿に監督さんを始め皆さんが驚く。小柄ではあるがハイヒールを履きこなし純白のドレスに身を包んだ美穂の晴れ姿はとても小学生とは思えなかった。そんな美穂の姿にスタッフさんたちの士気は大いに上がった。「やだ、ドレスと髪型とお化粧のせいですよ。」ブーケを手に笑う美穂が沢山カメラに収まっていった。テレビCMはもちろんポスターやチラシにまで美穂のウエディングドレス姿が載せられると聞いてなぜか気恥ずかしい美穂だった。
移動中の若菜さんに事務所から連絡が入った。里穂の今回の一連の仕事は事務所経由なのだった。どうやら春のリーグ開幕戦の国歌斉唱の他にフリーキックのセレモニーにも参加して欲しいとの追加注文だった。さらに、3月から1年間チームのマスコットガールとして活躍をお願いしたいとの申し出でを頂いたとのことだった。その話を若菜さんに聞かされた美穂は自分の事の様に大喜びだった。スポーツ万能の里穂にぴったりの仕事だと思ったからだ。「毎日お迎えが来るまで健君とキックの練習だね。」そう言って若菜さんと笑い合った。
美穂が家へ戻ると既に信子と歌穂が帰って来ていた。
お互いに撮影の様子を報告し合う2人。信子と若菜さんは里穂をピアノルームに呼んだ。そしてサッカーチームのセレモニーとしてフリーキック、3月からのマスコットガールに決まったことを伝えた。目を輝かせて喜ぶ里穂。「明日から健君と猛特訓だね。」そう言って微笑む信子に「うん!」と大きな声で返事をする里穂だった。
平日は学業優先のためお仕事は入らない。今日水曜日は遥香さんがワゴン車で迎えに来てくれた。音楽室では歌穂が同学年の女の子たちに校歌の演奏方法を教えていた。片やグランドでは里穂と健君がコーナーキックの練習をしていた。
今日は遥香さんを含め5人での練習だ。遥香さんは土日には響子さんのお供で全国各地の公演先へ出向いていた。優太君がオーケストラと一緒に演奏すると聞いてすごく喜んでくれた。「あの雰囲気、ピアノじゃあ味わえないよね。」お土産のお菓子の包装紙を丁寧に外しながら遥香さんは言った。「歌穂ちゃんにだってその内オファーが来るかもよ。学校長さんもベタ褒めだったから。」
ホットココアを頂きながら最近の身の回りの話をする5人。色々な話が出る中で、最も関心を持たれたのは歌穂の監修した新しい子供向けのヴァイオリン“エチュード(練習曲)”だ。特に優太君が関心を示したのが軽量化で、音質の変化に興味を示していた。
女子たち3人は歌穂の衣装に興味があるようで早く写真を見たいといって待ちきれない素振りを見せていた。「ママも出たんだよ。」と言う歌穂の発言に驚く4人。信子は自分が出たことは一言も話していなかったからだ。これでまた楽しみが増えたと4人は喜んでいた。「さあ、美里先生がいらっしゃるまで皆練習するわよ。」
週末の土曜日。今日は信子と優太ママが地方公演だ。優太君も公演の合間に全体練習を行うために同伴する。2人のママの公演を真近に見て、そして楽団員の方々から音楽や楽器の話を聞いて大きな収穫を得ることが出来た様だ。
また、遥香さんも響子さんのコンサートに同行し、数曲の伴奏を担当した。
今日は、3姉妹は別々の行動となるため美穂には応援のマネージャーさんが付いてくれた。というのも美穂は1日中結婚式場での仕事になっていたからだ。通常の演奏業務とCMの完成ビデオの最終チェックを行う打ち合わせの仕事も入っていたからだ。応援に来てくださったのは何と若菜さんたちの上司である池田課長さんというバリバリのマネージャーさんだ。
リビングでご挨拶をして名刺交換をする美穂。その小学生らしからぬビジネスマナーに驚く百合子さん。
「噂には聞いていたけど、3人とも想像以上に賢いお嬢さんたちだわ。」そう言って褒めてくださった。
「百合子さんが手放しで褒めることなんてめったにないんですよ。」里穂と一緒にワゴン車に乗り込んだ伊藤さんが車を走らせながら里穂に話してくれた。
今日はサッカークラブの経営母体である大企業へご挨拶と打ち合わせのために訪れる。
続けて若菜さんが歌穂を乗せて、百合子さんが美穂を乗せて次々に出発していった。
里穂と伊藤さんは大企業の本社ビルの地下駐車場から広報担当の女性に電話を入れる。しばらくしてその女性が迎えに来てくださった。3人で名刺交換を済ませ、一緒にエレベーターで最上階へ向かう。京子さんは自分で自己紹介して、受け取った里穂の名刺を見て「まあ!高原町の親善大使なのね!」と感心していただいた。
里穂は「会議室が最上階にあるのかしら?」と思っていると見晴らしの良い重役専用会議室へ通された。
「少々お待ちくださいね。」そう言って京子さんは一旦会議室から出て行った。
里穂と伊藤さんは並んで座っていた。「伊藤さんが年上だから上座へどうぞ。」そう言う里穂に「いいえ!この仕事の主人公は里穂さんです!私は一緒について来ただけです。」そう言って優しくたしなめる伊藤さん。するとノックする音が。急いで起立する2人。
「失礼します。」京子さんがドアを開けるとがっしりした体格の男性とやや細身の男性が入って来られた。
さっそく4人で自己紹介をしながら名刺交換を行う。
がっしりした体格の方が皆藤社長、細面の方は中務広報部部長と自己紹介された。お2人とも里穂の名刺を見て驚かれていた。「ほう。高原町の親善大使をなさっているのですね。まだ小学生なのに大したものだ。有名人でもなれない方がいらっしゃるのに。うん、うん。」そう言って里穂を褒めてくださる皆藤社長さん。
「お褒めを頂き恐縮です。」そう言ってお辞儀をする里穂に「副社長さんがおっしゃる通りですね。本当にきちんとされている。」またまた褒めていただきくすぐったい気がする里穂だったが「いえ、いえ。」と返答した。「えっ?副社長とお知り合いでいらっしゃるんですか?」伊藤さんと顔を見合わせながら皆藤さんの顔を見つめる里穂。「真っすぐ見つめて来られる!すごくチャーミングなお嬢さんだ。やはりあなたに決めて良かったです。実は副社長さんとは大学の同期でして、毎年キャンペーンガールの紹介をして頂いているのですが、今回は小学生だけど才能溢れる女の子だよ、と紹介いただいた次第です。それまで音楽に疎いもので“天使の3姉妹”を知らなかったのです。」
そう言って置いてあるペットボトルのお茶を勧めてくださった。「便利なものが出てきましたよね。風情は無いけれども清潔感があるし、女性がお茶を入れるタイムロスもない。」そう言って笑われた。「いただきます。」里穂はそう言ってペットボトルのキャップを開けた。それを見て少し驚く皆藤さん。「結構力持ちですね、里穂さん。」そう言ってまた笑われた。
「はい、剣道をやっていて、今はピアノを弾いております。ですから握力は鍛えているんです。母や姉の様に力強く演奏したいと思いまして。」里穂もそう言って笑う。「そうですか、ピアノの演奏も握力が必要なんですね。ところで、剣道の腕前は?」「はい、初段です。1年生の時に取りました。」と里穂が返事を返す。「そうですか、そうですか。で、民謡もおやりとのことですが。」今度は民謡のことを尋ねられる里穂。
どうやら里穂のことは既に調べているようだ。それで話を振って来られるのだろう。伊藤さんはそう感じていた。「はい、やはり1年生の時に小学生の全国大会で1位になりました。」と胸を張って応える里穂。
「まるほど、そうですか。実は昨年、クラブハウスでのクリスマス会で見事な歌を披露されたとかでコーチの皆が新年会で話していたもので、それで里穂さんを知った次第なのです。」
そこでしびれを切らしたかのように中務さんが口を開いた。「今社長が申しあげました様に今年度のキャンペーンガールと3月のリーグ戦の開幕式で国歌を歌っていただきたいのです。さらに、オープニングイベントとしてフリーキックでゴールめがけてボールを蹴っていただきたいのです。もちろん、必ずゴールを決めていただかなくても大丈夫です。」そんな話の内容を伊藤さんは手帳にスラスラと書き込んでいく。その手際の良さに驚く里穂。やはり伊藤さんは良きマネージャーであってくださるのだと強く実感した瞬間でもあった。会場のスタジアムでは全てお膳立てをして置きますので、来られたらユニフォームに着替えてもらい案内に従ってグラウンドのお立ち台に上がっていただきます。そこで国歌斉唱となります。
その後、フリーキックの場所へ案内係と審判がお連れしますので審判が手を挙げて笛を吹いたら思いっきりボールを蹴り込んでください。」一気に説明をしてくださった中務さんに「ご説明ありがとうございます。」そう言って会釈をする里穂と伊藤さん。「詳細はこちらをご覧ください。」そう言って京子さんがプリントを渡してくださった。
「まあ、そんなところです。いかがでしょうか、社員食堂ですがお昼などご一緒に。」皆藤さんが誘ってくださった。顔を見合わせた2人が頷く。「ありがとうございます。お言葉に甘えてご一緒さていただきます。」里穂の返事ににこにこ顔で社員食堂へ。広々とした明るい食堂で窓際からの眺めも最高だった。
「何でもお好きなものをどうぞ。」そう言われたもののどうやら以前私が言ったことをふと思い出したらしい。「わあーっ。私カレーにしようっと!」里穂がそう言うと伊藤さんも「今日は里穂ちゃんと気が合うなあ。私もカレーを頂こう。」と言ってカレーの列に並ぶ。「それじゃあ、僕もカレーにしようかな。」そう言って皆藤さんもカレーの列に並ぶ。結局5人ともカレーになった。京子さんがカレーのお盆を持ったまま急ぎ足で窓際の席を確保する。一旦カレーを置いてお冷を取りに行く里穂。それを追うように京子さんも里穂に続く。「うーん。伊藤さん、里穂さんはてきぱきしたお嬢さんですね。感心、感心。うちの社員に欲しいなあ。」そう言って笑う皆藤さん。一緒になって笑う伊藤さんと中務さん。「お宅でもそうなんですよ。3姉妹、皆さん活発で、本当に何時も感心します。」という伊藤さんの言葉に頷くお2人。
京子さんと里穂がお盆にお冷を持って来てくれた。
そして席に着くと何時もの様に「いただきまーす!」と声をあげる。お3方と周りの社員の皆さんから「かわいい!」という声が上がった。
5人で黙々とカレーを頂く。ただ、スプーンが食器に当たる音だけが聞こえてくる。
「ごちそうさまでした。」里穂がお3方にお礼を言った。そして食器を片付けようとすると「里穂さん、大丈夫。各自で返却口へ持っていくんですよ。」そう言って返却口まで先頭になって教えてくれた。途中でピアノを発見する里穂。その様子に気付く皆藤さん。
「里穂さん、食器を返したらピアノの近くの席に移動しましょう。」そう声を掛けてくださった。「はい。」と嬉しそうに返事をする里穂。早速黒いグランドピアノのすぐ傍のテーブルに腰を下ろす。
「皆さん、何を飲まれますか?」京子さんが皆のオーダーを聞いていく。そして飲み物を取りに向かうと伊藤さんが一緒に行ってくださった。
「里穂さんはピアノをどれくらい弾いているんですか?」中務さんが里穂に尋ねた。「はい、1年と10か月です。」と答える里穂。少し驚かれた様子のお2人だった。「あのう、ピアノ弾いてもよろしいですか?」恐る恐る尋ねる里穂に「誰が弾いても良いんですよ。ストリートピアノですから。」そう言いながら本当に大丈夫だろうかと少し心配をするお2人だった。
「今日はまだピアノを弾いていないんです。」飛び切りの笑顔をお2人に見せる里穂。さっそくピアノの前に座りカバーを開ける。そして少し考える里穂。一人で頷いておもむろに弾き始める。最近得意になった「花のワルツ」だ。里穂の可憐なピアノの音が食堂内に流れる。余りの上手さにお2人はびっくりされている。集まってくる社員の皆さん方。「ああーっ!里穂ちゃんだあーっ!」女子社員の皆さんから黄色い声が上がる。そんな人混みの中を京子さんと伊藤さんが飲み物を持ってきてくださった。「すごーい。里穂ちゃん、とっても上手なのね。」京子さんは立ったままピアノを弾く里穂を見つめている。「まだ1年と10か月でこんなに弾けるものなのか!」絶句するお2人。
「えっ?1年と10か月ですか?何かの間違いでは?」京子さんも驚く。「いやあ、私も始めて里穂ちゃんの演奏を聴きました。コンクールにも出たことが無いし、お宅のレッスンルームは防音で聞こえないし。」同じように驚く伊藤さん。老人ホームへは主に信子が送り迎えするので伊藤さんは行っても控室で予備のヴァイオリンのお留守番役なのだ。「うわあ、防音のレッスンルームがあるんですね。環境が良いんですね。」そう言って感心する京子さん。里穂の演奏が終わると丁度お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。社員の皆さんは各自自分の部署へ戻って行った。
それと入れ替わりに秘書の女性が皆藤さんの元へ。
「おっ、そうだった。それじゃあ里穂さん、伊藤さんまたお会いしましょう。あっ、次の食事からはお気兼ねは無用ですよ。それでは失礼。」そう言ってくださる皆藤さんに「次にお会いできるのを楽しみにしています。その時は“里穂ちゃん”と呼んでくださいね。」そう言って微笑む里穂に「OK!」と言って手を振る皆藤さんだった。
少し飲み物で一息入れると、中務さんと京子さんにお礼を言ってエレベーターホールへ向かう。京子さんがエレベーターホールまで送ってくださった。お礼を言って地下駐車場へ向かう。「きちんと対応してくださりありがとうございます。副社長のお知り合いとは存じませんでした。」そう言ってにっこりと笑う伊藤さんだった。
一方、歌穂と若菜さんは楽器メーカーの会議室に居た。
ドアをノックして宣伝部長さんと千里さんが入って来られた。お2人ともにこにこ顔だ。初対面となる若菜さんと名刺交換をする。
千里さんから「撮影時には大変ご協力を頂きありがとうございました。」とお礼の言葉を頂いた。続けて宣伝部長さんからCMの映像が完成した旨の報告がなされた。
「いや、実は取れ高が良すぎて15秒にまとめるのに苦労しましてね、30秒、60秒、180秒の4種類を3パターンずつ作らせていただきました。」そう言いながら大画面テレビのスイッチを入れた。すぐさまCMが流れ始める。画面の中の自分に驚く歌穂。何時も通りの表情、特にヴァイオリンを弾いている時の表情が自分でもなぜかおかしかった。笑いを堪えて大画面を見続ける。CMの中の自分が自分でない様に思えてくる不思議な感覚だった。
「さっそくこのCMが3月から流れます。大人気の“天使の3姉妹”と併せて流す予定です。あと、サインですが、このような形に収まりました。」そう言って新しい子供向けヴァイオリン“エチュード(練習曲)”をケースから出して見せてくださった。手に取ってみる歌穂。サインは側板にしっかりと印刷されていた。
ケースに目を遣ると可愛い赤と黄色のバラがあしらわれている。「このケース、可愛いですね。」ケースの中から弓を取り出しながら歌穂は微笑みながらお2人に話した。
「お褒め頂きありがとうございます。こちらのケースは従来あったものをリニューアルしたものなのです。」千里さんはそう説明してくれた。
「わあ、そうですか。私も欲しいなあ。今度香織さんの所へ買いに行こうっと!もう売っているんですか?」そう言って若菜さんに「帰りに寄ってくださいね。」とお願いする歌穂。「はい。そうしましょう。」若菜さんも快く応じてくれた。
「いや、歌穂ちゃん、このヴァイオリンセットは歌穂ちゃんへの弊社からの心ばかりのプレゼントです。」そう言ってにっこりと微笑む宣伝部長さん。
「歌穂ちゃん。CMだけでなく商品開発にも携わっていただいたお礼と思ってください。」千里さんも微笑みながらそう言ってくださった。
「わあーっ!ありがとうございます!」満面の笑顔で嬉しさを爆発させる歌穂。自分が関わった初めてのヴァイオリンだ。それが嬉しかったのだった。
頂いたヴァイオリンをしっかり胸に抱き、CMが録画されたビデオテープも頂き楽器メーカーさんを後にする歌穂だった。
今日は大安吉日ということもあり、結婚式場は大忙しだった。美穂の道案内で結婚式場の従業員駐車場に到着。さっそく従業員入り口から事務所へ入る。マネージャーさんたちに百合子さんを紹介、名刺交換をする百合子さん。階段を上がり2階の控室へ。そこには大きな美穂のポスターと大画面のテレビが置かれていた。少し気恥しそうに自分のポスターを眺める美穂。そしてその隣で腕組みをしながらじっくりと眺める百合子さん。「良く撮れているわあ!美穂ちゃん!素敵じゃあないの!」そう言って褒めてくださる百合子さん。普段厳しい課長職の百合子さんだったが文句のつけようもなかった。それ程の出来栄えだった。
「やだ!百合子さん、恥ずかしいです!」そう言って頬を染める美穂。
「おはようございまーす!」そう言って入って来たのはサブマネージャーさんだ。さっそく百合子さんと名刺交換をする。「まあ、課長さん自らいらしていただきありがとうございます。ポスター素敵でしょ?従業員皆が欲しいって言って朝の朝礼が盛り上がっちゃって。今からCMの映像をお見せしますね。」そう言ってビデオデッキと大画面テレビのスイッチを入れてくれた。音楽と共に美穂の映像が流れる。「わあーっ!綺麗!綺麗じゃあないの!美穂ちゃん!」大きな声で自分の事のように驚き、そして喜ぶ百合子さん。その一方で本当に自分なのか?と驚いた様子の美穂。
「綺麗ですよね!とても小学生とは思えないわ!」サブマネージャーさんも少し興奮気味だ。
披露宴が始まった後も百合子さんは何度も美穂のCM映像を繰り返し見続けていた。そして披露宴が始まるとそちらのモニターと交互に見続けて忙しく過ごしていた。特に今度は披露宴での美穂の演奏に釘付けとなった百合子さん。招待客を招き入れる時の「愛の挨拶」を演奏する美穂の姿は天使そのものだと思った。
「この子たち、可愛いだけじゃあないわ!」事務所上層部の皆さんが言われる事が過剰ではないことを始めて認識できた百合子さん。披露宴の流れが気になって来て中継モニターに釘付けになっていた。
すると2人の若い女性が入ってきた。「すみません。ご一緒させてください。」そう言って百合子さんと並んで座り一緒にモニターを見始めた2人は小声で「凄い。」を連発している。気になった百合子さんが2人にその訳を尋ねるととんでもない答えが返ってきた。
2人は音大生で、アルバイトで演奏の仕事をしているとのことだ。先日、美穂の演奏のオーダーが多すぎるとマネージャーに話したところ「美穂ちゃんがどんな演奏をするのか良く見ておいで。」と言われたとのこと。今見ていてその理由が分かったと反省していた。
音楽のことは良く分からない百合子さんだが2人が言うにはかなり高度な指使いをしているとのことだった。音大生をも感心させる美穂の技巧に驚かされる百合子さん。最後までモニターを見続けると招待客の皆さんたちがわざわざ美穂のピアノの傍を通って列をなして出口へ向かっている。「これって“美穂ちゃん詣で”って言われているんです。普通、披露宴ではありえないですよね。」そう言って2人でため息をついていた。
そんな披露宴もお開きとなりモニターから目を離した時だった。「わあっ!美穂ちゃんのポスターだわ!」そう言って額に入っている美穂のポスターを見つけ走り寄った。「すごいわ、大人の顔をしているわね。」そう言ってまじまじと眺めている2人。
そんな時、美穂とサブマネージャーさんが披露宴会場から戻って来た。「こんにちは。」と2人に挨拶をする美穂。「わあっ!美穂ちゃんこんにちは。」少し舞い上がっている2人の音大生。「4月から遥香お姉ちゃんがお世話になります。」としっかり遥香さんのフォローも忘れない美穂だった。
午後に2件の仕事を控えている美穂には仕出し弁当が振舞われる。控室で百合子さんと仕出し弁当を頂きながら普段の生活ぶりを話す美穂。ピアノに関すること以外は普通の小学生にしか思えない。謙虚で勉強熱心な女の子という感じだ。更に感じたことは決して他人を差別しないということだ。これは里穂と歌穂、そして遥香さんにも言えることだ。美穂と話をするうちにそう確信する百合子さんだった。仕出し弁当を美味しく頂いた後は会場のピアノを借りての練習だ。披露宴の内容に基づいて演奏する曲目を決めていくのだ。
その緻密さにも感心する百合子さん。何時も前を向いて勉強や仕事をこなすバイタリティーに脱帽する百合子さんだった。
美穂はピアノの前に座ったまま次の披露宴を迎える。
百合子さんは控室へ戻り再びモニターに釘付けとなる。開演前にスタッフの皆さんが美穂のピアノの前に集まり最終打ち合わせを行なう。そして駆け足で各自の持ち場へ散っていく。小学生のアルバイトと言ってもスタッフの一員として溶け込んでいる美穂を見てやはりスーパー小学生だと思わされる百合子さんだった。
こうして美穂の仕事が終わったのは18時過ぎだった。
美穂の仕事が終わるタイミングを計って若菜さん、伊藤さんから百合子さんに連絡が入った。夕食をどうしようかということだった。何時もの大型スーパーの敷地内にある回転すし店はどうかという美穂の提案でそこに決まった。2組とも帰ってくる途中とのことで直接すし店へ向かうとのことだ。美穂は電気屋さんに寄りたいと百合子さんに言った。百合子さんは『何を買うのだろう?』と思いながら道を教えてくれる美穂の案内に従って電気屋さんへ車を走らせた。電気屋さんと言っても大型電気販売店でかなり賑わっていた。
「美穂ちゃん、何を買うの?」百合子さんに尋ねられてビデオデッキと答える美穂。「ビデオデッキ?」思わず聞き返す百合子さん。「イメージビデオを頂いたけれど家にはないんです。だから買わなくっちゃあと思って。」そう答える美穂の目は真剣だ。「だって、それって美穂ちゃんの・・・。」と言おうとしたがもうビデオ売り場に着いていた。美穂は店員さんに事情を説明する。実際にビデオテープを見せると店員さんは直ぐに案内してくれた。「これはVHSのテープですね。こちらの機種になります。そこには様々なメーカーのビデオデッキが並んでいる。「ステレオタイプで音が良いものはどれですか?主にピアノとヴァイオリンを聴きたいのですが。」自分が求めるものをきちんと店員さんに話す美穂。「そうですね、音を重視されるのでしたら“HI-FI”というステレオタイプがよろしいですね。」そう言って説明してくれる店員さん。美穂の真剣な質問内容に冷やかしではないと思ったようだ。「テレビと繋ぐコードも一緒にください。」そう言う美穂に3口のジャックコードを持って来てくれた。「ビデオデッキの色とテレビの色の端子を繋ぐだけです。色を間違えなければ誰でも簡単に繋ぐことが出来ますよ。」そう優しく説明してくれた。「そうですか。あと、父はオーディオに金色のものを使っているのですが・・・。」美穂のあまりに専門的な質問に少し戸惑う店員さん。「それはですね、音声や映像を伝える信号が極力ロスや劣化を防いでくれるのが18金なんですよ。その代わりお値段は張りますけどね。」そう言って別の店員さんが説明してくれた。「ありがとうございます。良く分かりました。それではそのコードとこちらのビデオデッキをください。百合子さんにはさっぱり分からない会話の後にスパッと決断する美穂に感心する。店員さん2人は電卓を片手に何やら計算をしている。美穂は値段を暗算で計算していた。それでは値引きをさせて頂いてこちらでと電卓を見せてくれた。にっこり笑う美穂。「それではこのカードで。」と言ってカードを渡す美穂に驚く百合子さん。そんな百合子さんに「急な買い物をする時に使いなさいって父と母から言われているんです。」と言う美穂に唖然とする百合子さんだった。
買ったビデオデッキを車まで運んで頂いてお寿司屋さんへ向かう。さすがに2台の車は到着した様で順番待ちをしているところだった。ワゴン車にいる里穂と歌穂と合流する美穂。お互いの今日の出来事を報告し合う。「ねえ、美穂お姉ちゃん。私これを頂いたの。そう言って見せてくれたのは可愛いバラの花が施された白い色のヴァイオリンケースとビデオテープだった。「このテープってどうやって見るの?」里穂が美穂に尋ねた。「うふふ、実は私もビデオテープを頂いたの。だからそれを見る器械を買ってきたのよ。」その言葉に運転席の伊藤さんもびっくりだった。「それでは家に帰ってから私が設置しましょう。」その伊藤さんの言葉に大喜びの3人娘だった。
その後は6人でお寿司パーティーとなった。
明日の予定を確認する3人のマネージャーさんたち。
「あなた達からトラブルや苦情が上がって来ない理由が良く分かったわ。」そう言って笑う百合子さん。それにつられて一緒に笑う若菜さんと伊藤さん。
明日も忙しくなりそうだ。
次の日曜日、美穂は結婚式場の仕事、里穂はのど飴のCMの打ち合わせで大手製薬メーカーへ、歌穂は一人家で練習兼お留守番だ。
そして里穂と若菜さんは都内の大手製薬メーカーさんへ向かう。
大きな自社ビルで昨日同様のセキュリティーが厳重な会社さんだ。受付で広報部の担当である知美さんに連絡を取ってもらう。ロビーの椅子に座りしばらく待っていると知美さんが迎えに来てくださった。
3人で名刺を交換しエレベーターで会議室へ。製薬メーカーさんだけあって社員でも降りられない階があるという。やはり新薬開発に細心の注意が払われているのだと子供ながら感じた里穂。
会議室へ通されしばらく待つ。CMのポスターが額に入れて飾られている。様々な薬があるんだなあと2人で感心しながら眺めているとドアをノックする音が。
「失礼します。」そう言って入って来られたのは2人の男性社員だった。さっそく2人は立ったままご挨拶、そして名刺交換をする。小学生の里穂に名刺を差し出され少し驚かれた様だ。直ぐに課長である平田さんが「ほう、里穂さんは高原町の親善大使ですか。もう既にご活躍されているのですね。“天使の3姉妹”皆さん可愛いですよね。」そう言いながら着席を勧めてくださった。
「申し遅れました。私、宣伝部部長の山崎と申します。この度は当社のオファーにお応えいただきありがとうございます。私どもは4月の新学期に合わせて子供用ののど飴をリニューアルすることとなりまして、起用する子役さんも新しいフレッシュな方を探しておりました。そこで私共が魅力に感じたのが里穂さんなのです。やはり実際にお会いしてみて間違いのない人選だと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。それでは新しいCMにつきまして、平田の方からご説明をさせていただきます。その間に知美さんがお茶を出してくださった。
平田さんの説明によると春を迎えた校庭の桜の前で深呼吸をする女の子。しかし春は花粉が舞い飛ぶ季節。喉が荒れて声も霞む。そこでリニューアルしたのど飴の登場となるといった内容だ。しかもテーマソングは里穂が歌うとのことだ。さっそく絵コンテと歌詞が書かれた楽譜が2人に配られた。絵コンテに目を通す里穂。演技力が問われそうだなと直感する。
「テーマソングは別撮りで音声のみとなります。」
楽譜を見てメロディーを口ずさんでみる里穂に感心されるお3方。「里穂さんはピアノも弾かれるのですよね。オケ(カラオケ)バージョンだけでなくピアノのバージョンも付け加えましょうよ。」知美さんの提案にウキウキする里穂だった。撮影日は来週の日曜日、場所も地図を頂いた。
ある程度話が纏まったところでおもむろにお茶を頂く。「あっ!」里穂は美味しいと素直に思った。それは祖父と祖母が飲んでいたあのお茶の味だった。
「美味しい。祖父と祖母を思い出します。」しみじみと話す里穂に「当社のハト麦入り健康茶をご存知なのですか?」と少し驚かれた様子のお3方。「いやあ、小学生のお嬢さんに味を褒めて頂けるとは。」そう言ってもろ手を挙げて喜ばれる山崎さんと平田さん。玉崎さんが知美さんに目配せをする。
雑談で盛り上がってお暇することとした。廊下に出てお2人に挨拶をして後姿を見送り帰ろうとするとエレベーターホールに知美さんの姿が。大きな手提げ袋を下げている。
「今日はありがとうございました。」里穂と若菜さんがお礼を言うと「こちらこそありがとうございました。あと、こちら皆さんでお楽しみください。」と言って里穂に手提げ袋を手渡してくださった。「わあーっ!ありがとうございます!」そう言って喜ぶ里穂に少し嬉しそうな知美さん。「ではまた、来週。」とご挨拶をしてエレベーターでロビーまで戻る。
若菜さんと車まで戻りおもむろに中身を確かめる。中にはハト麦茶が沢山入っていた。「わあーっ!」改めて2人で喜ぶのだった。
そんな里穂の元に歌穂から電話が入った。一人で留守番をしている歌穂に何かあったのかと尋ねると帰りに響子さんの演奏会のビデオが欲しいとのリクエストだった。特に「チゴイネルワイゼン」が見たいという。「おかしいな?もう弾けているじゃあないの。」そう思いながらも若菜さんにお願いしてレコード店に寄ってもらうことにした。そのレコード店には音楽ビデオのコーナーがありクラッシックの棚に響子さんのビデオがいくつかあった。収録曲を確認していく。
なかなか見つからない。若菜さんも一緒に探してくれた。その結果2本のビデオが見つかった。「歌穂の教材用だ、2本とも買っちゃえ!」小3のその勢いに驚く若菜さん。確かに良い教材だと感心する。さっさとカードで決済をする里穂を見守る若菜さん。「この子たち決して無駄使いはしないわあ。」と感心するのだった。お昼に歌穂のハンバーガーも一緒に仕入れて家へ戻る。
家に戻り玄関を入ると直ぐに歌穂が「おかえりなさい。」と出迎えてくれた。靴を脱ぐ間もなく買ってきたビデオテープを渡す。歌穂は「ありがとう!」と言いながらリビングのテレビの前に陣取る。2人はそれを遠目に見ながらハンバーガーをテーブルに置き手洗いとうがいに洗面所へ。2人が戻って来ると歌穂は「チゴイネルワイゼン」を聴いていたというより響子さんの左指と弓捌きをじっと見ていた。「ああーっ!優太お兄ちゃんと同じだあ!」そう言って再びその場面を今度はスローで再生している。じっと凝視する歌穂。
そして大声で喜び始めた。「そうか!そうやって弾くんだ!」一人で飛び跳ねて喜んでいる歌穂を里穂と若菜さんは訳が分からずただ見守っていた。
「ねえ、歌穂。「チゴイネルワイゼン」ならもう弾けているじゃない。何が分かったの?」ハンバーガーを食べながら里穂が尋ねる。「ええ、きちんと弾けていると思うけど。」若菜さんも不思議そうだ。
「ううん、私の演奏と優太お兄ちゃんが弾いてくれた演奏が違うの。同じ楽譜で同じ様に和音を弾いているのになぜか違うの。響子さんのビデオを良―く見てやっと分かったの。後で練習してみよっと。」そう言いながら「いただきまーす!」とポテトにマスタードソースをたっぷりとつけてしまい「わあ!辛い!」と言って顔をしかめる歌穂の可愛さに思わず笑みが漏れてしまう2人だった。3人で美味しくお昼を頂き、里穂と歌穂は一緒にピアノルームへ入って行った。
歌穂は「チゴイネルワイゼン」の第3部の練習を始めた。「何で今更?」思いながらも里穂は伴奏に付き合う。「あれ?」さすがに里穂は歌穂の弾き方が何時もと違うと感じた。「里穂お姉ちゃん、ストップ、ストップ。失敗しちゃった。」そう言って謝る歌穂。「もう少しゆっくり弾こうか?」里穂の提案に「お願いします。」と言ってヴァイオリンを構え直す歌穂。そうして2人の練習は続いた。
「2人とも、お茶にしませんか?」若菜さんのインターホンからの声で「はーい!」と返事をしてピアノルームから飛び出してくる里穂と歌穂。食卓にはカラフルなクッキーが並ぶ。「わあーっ!」手を叩いて喜ぶ歌穂。そんな歌穂に「全部食べちゃあダメだよ!美穂お姉ちゃんも食べるんだからね!」と注意する里穂。
こんなやり取りを見ていると普通の小学生の姉妹と何ら変わらない。クライアントの会社の方々とお会いする時のあの礼儀正しさやビジネスマナーはどこから来るのだろう?と不思議に思える若菜さんだった。
「若菜さん、私、ハト麦茶を飲んでみたい。」そんな里穂のリクエストに快く応じてくれる若菜さん。「ハト麦茶あ?」初めて聴くお茶の名前に興味津々の歌穂。
3人で熱々のハト麦茶を頂く。「温かい麦茶だね。」歌穂が的確な感想を言う。「でも、身体に良さそうな成分が沢山入っているみたいだよ。美容にも良さそうだわね。」若菜さんはパッケージの成分表を見ながら2人にそう教えてくれた。いつもこの家はこうやってまったりとした時間が流れているのだった。
「ねえ、3人は喧嘩とかはしないの?」思い切って2人に尋ねる若菜さん。
「言われてみれば、しないよね。」里穂と歌穂はお互い顔を見合わせる。
「だって、する必要ないもの。皆、お互いのことを分かり合っているし、お互い嫌なことも言わないし、しないし。」里穂がそう言うと歌穂も頷く。
「だって、好きなことを好きなだけ出来るもの。パパもママも強制はしないし。」そう言う歌穂に里穂が続ける。「それがプレッシャーでもあるけど、最後は自分に跳ね返ってくるから練習は欠かせないし楽しいのよね。」里穂の言葉に今度は歌穂が頷く。「それに防音設備の練習室もあるからいつでも練習出来るし、困ると皆が助けてくれるの。」
この子たちは必然的に上達する環境が揃っているのだとつくづく思う若菜さんだった。
夕方になると里穂が干していた洗濯物を入れ、歌穂が台所に立つ。大きな土鍋を2つコンロに置いて夕飯の準備に取り掛かる。「お2人の分もありますから食べていってくださいね。」歌穂はそう言ってエプロンを着けた。6歳だというのになぜかお母さんを感じさせる歌穂。長ネギを切り、ごぼう、ニンジン、里芋の皮をピラーで手早く剥いていく。剝き終えた野菜は電子レンジを使って加熱する。その間に2人のママが買ってくれていたおうどんを茹でる。電子レンジである程度火が通った野菜を鍋に移す。土鍋の中で野菜がぐつぐつと煮立ってきたら鶏肉を入れて蓋をする。その間にぬか床からキュウリ、ニンジン、なすを取り出しボウルに入れてざっと洗って軽快な包丁さばきで切って器に盛り付けていく。ぬか床は混ぜ直して新たにきゅうりと人参を漬け込む。洗濯物を整理し終えた里穂が2階から降りてくる。手を洗って器とお箸、コップをテーブルに並べていく。
丁度、タイミングを合わせたかの様に美穂と伊藤さんが戻って来た。里穂が玄関でお出迎えだ。
「おかえりなさい。寒かったでしょ?」そう声を掛けて暖かいリビングへ。「おかえりなさい。」事務処理の手を止めて若菜さんが2人に声を掛けた。
「ただいま。車の中は良いけど外に出ると寒いねえ。」伊藤さんはそう言いながらテレビの画像を見る。「あっ!響子さんのコンサートだね。」そう言ってソファーに腰を下ろした。着替えを終えた美穂が手洗いとうがいを済ませリビングへやって来た。それと入れ替わりに伊藤さんが洗面所に向かう。
「あら、響子さんのコンサートね。」そう言いながら立ったまま画面を見つめている。「そうか!最近の優太君の演奏が変わって来たのは響子さんのおかげだったんだ!」そう言いながら台所へ向かう。
「歌穂、ただいま。」台所で料理に励む歌穂に声を掛ける美穂。
「あっ!美穂お姉ちゃんお帰りなさい。今日は味噌うどんだよ。」そう言ってにっこりと笑った。
「わあーっ!暖まって良いよね。」そう言ってリビングへ。おうどんも茹で上がり土鍋もお味噌を溶いて入れてあるので土鍋に移しておうどんに味が染みれば出来上がりだ。
小休憩をしにリビングへやってきた歌穂に美穂が声を掛ける。「練習しているんだね、和音と次の音への繋ぎ方。」そう言うと歌穂は「うん。」と頷いた。ヴァイオリンを弾いたことが無い里穂は2人が言っていることがピンとこなかった。「2人とも、何の話をしているの?」首を傾げながら尋ねる里穂に美穂が説明する。「ピアノで和音を弾いて次の音に映る時って間を繋ぐのに和音を弾きながら次の音を弾くよね。次の音が鳴ると直ぐに和音の手を止めると曲の流れがスムーズになるでしょ。ヴァイオリンだと和音だけでも難しいうえに次の音を鳴らさなければいけないから大変なのよ。難しい技巧だわ。歌穂は響子さんの指使いを見たかったのね。それで出来たの?」美穂の問いに首を横に振る歌穂。「そうか!それで何度もストップ!て言っていたのね。」やっと理解出来た里穂だった。「それでプロの方の演奏はスムーズに聴けるんですね。」伊藤さんがそう言って感心していた。「なるほど!ビデオテープが欲しいと言っていたのはそのためだったのね。」若菜さんもやっと理解出来たようだ。
響子さんの演奏を聴きながら5人で味噌煮込みうどんを頂く。飲み物は冷えたハト麦茶だ。このハト麦茶は美穂と伊藤さんにも好評だった。
ふうふうと熱々のおうどんを頂くと身体の中から暖まって来る。皆、羽織っていた上着を脱ぎながら味噌煮込みうどんに舌鼓を打っていた。「歌穂、美味しいね。」皆にそう言われて何時もの少し照れてはにかむ笑顔を見せる歌穂だった。
翌日月曜日からは里穂と健くんのサッカーの特訓、そして歌穂のヴァイオリンの奏法の猛練習が開始される。
1週間が過ぎるともう3月だ。新入学の4月へ向けての歌穂の新しいヴァイオリン“エチュード(練習曲)”のCMが流れ始める。併せて“天使の3姉妹”も一緒に放送された。評判がすこぶる良く、新作は作られず、従来のものを再び流すことになったのだ。視聴者の皆さんの評判がすこぶる良いためであった。
歌穂の新CMは可愛いと評判になり“エチュード(練習曲)”の売れ行きも好調だった。併せてどこのヴァイオリン教室も盛況で講師不足が問題になっていた。
楽器メーカーでもフランチャイズの音楽スクールのヴァイオリンのレッスンを強化するために優香さんが走り回っていた。そこで優太ママの学友をメインに講師を探していた。現役のヴァイオリン科の方々にも呼び掛けてくれた。そのため関東のヴァイオリン教室の講師不足はどうにか解消出来た。
同じ問題は高原町の音楽教室でも起こっていた。
桜さんの大学で学生課を通じてアルバイトの募集を行ったが、人は集まったもののどうしても水曜日が手薄になってしまう。そこで音大オーケストラのヴァイオリン担当の皆さんから都合の付く方々にお願いすることとなった。結局2人の方が応募してくださり水曜日の出張は信子、優太ママに2名を加え4名となり賑やかさが増した出張となった。
3月の第1週の日曜日はいよいよ里穂のサッカースタジアムでのお仕事だ。特別席にご招待を頂いた美穂、歌穂、優太君と健君、そして若菜さんと伊藤さん。特に健君は自分の事以上に緊張していた。里穂にボールの蹴り方やその後の処理まで教えてくれていたがやはりこの大観衆の中で里穂が緊張しないかとそのことだけが気がかりだったからだ。そんな会場は主催者発表で2万3千人もの大観衆が詰めかけ、すでに両チームの応援合戦が繰り広げられていた。時間を見て皆藤さんの元へ全員でご挨拶へ。皆藤さん以下重役の皆さんは笑顔で迎えてくださった。そして「さっき里穂ちゃんに会いに行ったけど、ユニフォーム姿が似合っていてとても可愛かった。」と満面の笑みだった。
13時になりいよいよオープニングセレモニーが始まった。新シーズンの開会宣言が行われ皆藤社長が祝辞を述べられ、いよいよ里穂の国歌歌唱だ。バックヤードから濃いブルーのユニフォーム姿の里穂が登場する。コートの前で一礼し案内のお姉さんと共に仮設のお立ち台へ上がる。4方向を向いてお客様たちに深々と一礼をするとそのたびに地鳴りのような拍手が起こる。
「かわいいーっ!」という女性ファンの応援の声と「本当に歌えるのか?」と心配する声も聞こえる。
6人は里穂よりも緊張していた。
「国歌歌唱。歌うは“天使の3姉妹”の里穂ちゃんです!」というアナウンスが流れると拍手喝采の大コールが起こる。里穂がマイクの前へ数歩進み出るとスタジアム内がシーン!と静まり返る。
「きみがあよおーわあ-・・・。」何時もの里穂のパンチのある歌声がマイクを通じてスタジアム内に響き渡る。「!」これにはスタジアムの皆さんが驚き無言で里穂のアカペラの国歌を聴いていた
「うまい!さすが民謡日本一の里穂ちゃんだ!」皆藤さんは貴賓席で大満足の様子だった。他の重役さんたち、招待客の皆さんも感心して笑顔で頷かれていた。
テレビ中継のアナウンサーさんは余りの上手さに声も高らかに実況中継をしていた。同じ頃、芸能プロの社屋でも社長を始めとする幹部社員の皆さん方がテレビ中継に見入っていた。「上手い!上手すぎる!」社長さんはそう言って副社長と手を取り合って大喜びだった。そしてこの後、前代未聞の事態が起こる。
国歌歌唱が終わり再び4方向に深々とお辞儀をする里穂に拍手が波のように巻き起こる。もう場内アナウンスが聞こえないほどだ。そんな中、里穂はフリーキックのためにゴールの手前に案内された。左右に分かれて両チームの選手の皆さんが並び色々声を掛けてくださる。その一言、一言に笑顔で答える里穂。選手の皆さんもとてもフレンドリーで満面の笑顔で里穂を見守ってくださっていた。
主審の右手が上がりホイッスルが鳴る。するとボールの後ろに後ずさりする里穂。
「おっ!このお嬢さん知っているねえ!」そう言ってお互いに笑いながら里穂の様子を見つめる選手の皆さん。当然ファンの皆さんも「おおーっ!良く分かっているじゃないか!」という温かい声援が飛ぶ。
キーパーさんはゴールに向かってかなり右寄りに置かれたボールの真正面に居て余裕のポーズで「さあ何時でもおいで!お嬢ちゃん!」とジェスチャーで表現する。
里穂が身を屈め、猛ダッシュで走り、渾身の右足でボールを蹴った。
「おおーっ!」選手の皆さんと会場の皆さんから声が上がる。これはゴロにならなかったことへの驚きの声だった。里穂の蹴ったボールはやや高くキーパーさんの右横へ飛んでいく。誰もが取れる!そう思われた瞬間、里穂がゴール前に全力疾走する。それに驚くキーパーさんと選手の皆さん、そして会場ぼ皆さんも。
さらに驚くことが起こった。何と!里穂が放ったのは健君直伝のバナナシュートだったのだ。キーパーさんが取ろうとする手をわずかに避けてゴールへ向けて向きを変えながら飛んでいく。
「うそだろっ!」驚く選手の皆さん方。そしてゴール手前にはすでに里穂の姿があった!
「な!何いーっ!」そう言いながらボールの飛んで行く先を見つめるキーパーさん。
パン!という音を立ててボールはコールの上枠にあたり跳ね返った。キーパーさんがボールの行方を目で追うと既に美穂が渾身のジャンプをしていた。
「な、何なんだ!この子は!」侮り過ぎた!
里穂はすかさずキーパーさんの逆サイドへヘディングでボールをゴールに押し込んだ。あっという間だった。
ゴールを認めるホイッスルが鳴り審判の男性が里穂に駆け寄ってきて倒れて立ち上がろうとする里穂を抱き締めてくださった。「おでこは大丈夫ですか?」
一瞬、会場内は何が起きたのか分からなかった。
静まり返ったスタジアム内に選手の皆さんの雄叫びと拍手が、そして選手の皆さん全員が里穂の元に駆け寄り誰からともなく胴上げを始めた。
観客の皆さんもスタジアムの大画面に映し出される里穂のフリーキックの全てを確認し大騒ぎとなった。
貴賓席の皆さんも信じられないといった面持ちの中か皆藤さんだけが飛んで大喜びだった。
招待席の美穂ら女性3人は何が何だかまだ理解出来ていないようで優太君を含む男性3人が飛び跳ねて喜んでいる姿に唖然としていた。
この模様はテレビで実況中継され、何度もスローで紹介された。
中継を見守っていた芸能事務所の重役さんたちも大喜びでお互いの肩を叩き合っていた。
グラウンド内の胴上げが終わるとキーパーさんが里穂を肩車して選手全員で観客の皆さんに手を振ってご挨拶、そして両チームの選手の皆さんと記念撮影だ。里穂の素晴らしいプレーに称賛の声援と拍手が鳴り止まなかった。
「マネージャーさん!里穂ちゃんの取材の要望が各マスコミから届いています!」スタジアム関係者の方が慌てて若菜さんのところに走り寄って来た。
「わかりました!対処します!」若菜さんはそう言うと関係者の方と一緒に里穂のいる控室へ向かった。
そのころ、グランドでは公式戦が始まっていた。里穂のプレーに刺激されたのか、両チーム共に素晴らしいプレーが連発していた。
若菜さんが控室へ入ると里穂は皆藤さんを始め広報部の中務さん、京子さんとスタジアムの関係者の皆さんに囲まれて談笑していた。皆さん里穂の偉業に大絶賛で、特に皆藤さんは誰かと大きな声で電話をしていた。「若菜さん、副社長から。」そう言って自分の携帯電話を渡してくださった。副社長は大喜びで「事務所の電話が鳴り止まない!」と大声で叫んでいた。
「記者インタビューには私も同席します!」そう言って携帯電話を皆藤さんにお礼を言いながら返した。
里穂のこのニュースは全国に放送された。ワイドショーやスポーツニュースではサッカー解説者の皆さんがバナナシュートの蹴り方や飛んだコース、里穂が見せたヘディングシュートをフリップを使って詳しく説明をしていた。
当然、里穂とのお付き合いがある会社さんなどはこの話題で持ちきりだった。
里穂のインタビューには皆藤社長、若菜さんも同席し里穂のサポートをしてくださった。
インタビューでの最も関心の話題は“誰が里穂にフリーキックを教えたのか?”だった。その話に及ぶと早速若菜さんがやんわりと話の核心をそらして里穂をフォロー。皆藤社長も「サッカークラブとも親交があると聞いている。」として人物の特定を避ける発言をしてくださった。そして「誰に教わったにしろ、走りながらバナナシュートを正確に蹴ることが出来る里穂の運動神経と動体視力、そしてゴール付近へ向かう瞬発力を褒めてあげたい!」と言ってインタビューを纏めてくださった。
美穂に結婚式場の仕事が控えていたため里穂と若菜さんをスタジアムに残して5人は引き上げて行った。
結婚式場でも里穂のフリーキックの話題で持ちきりだった。マネージャーさんに歌穂と優太君、健君を紹介し控室への入室を許可していただく。初めての美穂の職場に興味津々の3人。美穂の等身大のパネルが建てられポスターがたくさん貼られている美穂の控室はとても輝いて見えた。
遠巻きでサブマネージャーさんと打ち合わせをする美穂は普段目にすることのないプロ意識に溢れる別の顔だった。
ドレスに着替えて部屋を出て行く美穂を見送ると3人は大型モニターに釘付けだ。スタッフの皆さんと談笑する美穂をじっと見つめる優太君。
スタッフの皆さんが定位置に着く。美穂のピアノから「愛の喜び」が流れ招待客の皆さん方が入って来られる。自分の席を確認し、そこへ荷物を置くと皆さんが美穂のピアノの周りに集まって来られた。それに驚く3人。気に留めることもなく演奏を続ける美穂。
招待客の皆さんが全員席に着かれるといよいよ披露宴の始まりだ。入り口の白い扉にスポットが当てられフロアマネージャーさんが頷く様に美穂へ合図を送る。それに合わせて美穂の「結婚行進曲」が流れる。
息を飲むように披露宴の様子に見入る様に見守る3人。「美穂お姉ちゃん、ただ弾いているだけじゃあないんだね。ちゃんと思いが伝わっている!」幼い歌穂は演奏家としての心構えを、身をもって教えられた気がした。
そんな披露宴の後半で1人の女の子がヴァイオリンを披露するという。お嫁さんの姪に当たるというまだ幼稚園児の女の子だ。しっかりとブルーの可愛いドレスを身に纏って演奏を始める。たどたどしいながら「ぞうさん」を無事に弾き終えた女の子。良く見ると“エチュード”のヴァイオリンを手にしている。司会のお姉さんのマイクで新郎新婦に「結婚おめでとうございます。」と挨拶をして、ヴァイオリンの話を聞かれると今月に入って習い始めたばかりだという。会場からは暖かい拍手が起こる。話を聞いてみるとどうやら歌穂のファンのようだ。美穂も2人に加わり話が弾んだ。「美穂さんは歌穂ちゃんのお姉さんなんだよ。」司会の女性の言葉に驚く女の子。「うふふ!一緒に呼んでみようか?」美穂のその言葉に今度は会場が驚く。「歌穂ちゃーん!」3人で大きな声で歌穂に呼び掛ける。慌てて控室から会場へ駆けつける歌穂。
高砂の席の裏手から女の子へ手を振りながら現れた歌穂に会場は騒然となっていた。女の子は飛び上がって喜んでいる。会場からリクエストの声が巻き起こる。
少し躊躇したものの女の子のヴァイオリンを借りて演奏することにした。歌穂がヴァイオリンをビシッ!と構えると一瞬で会場が静まり返る。そんな中「花」の演奏が始まる。ヴァイオリンの音色の良さに驚く女の子。まぎれもなく自分のヴァイオリンが奏でる音なのだ。歌穂の見事な「花」の演奏に酔いしれる会場内。
一方のスタジアムでは公式戦が終わり、里穂が関係者出入り口で選手たちをハイタッチでお迎えしていた。すると相手チームの選手の皆さんたちまで一列に並んでハイタッチしてくださった。この光景にスタジアム内は明るい笑い声で溢れていた。選手の皆さんは試合終了まで幼い里穂が待っていてくれたことが大変嬉しく思われた様で皆さん疲れた表情も見せず、里穂と接してくださった。最後は2ショットで里穂と写真を撮る行列まで出来、皆藤社長とスタジアム関係者を驚かせていた。
それぞれの仕事を終わらせ全員が家に戻って来たのはもう夕方遅くだった。皆でお茶を頂きながら健君は家に電話を入れる。すると里穂の活躍を知っていたお母さんから里穂ちゃんを連れて戻っておいでという嬉しいお誘いが。大喜びの里穂。ユニホーム姿のまま全員でワゴン車に乗って健君のマンションへ。若菜さんが2人に付き添う。健君のお母さんにご挨拶をしてそのまま戻って来た。もう行き先は決まっていた。何時もの回転寿司屋さんだ。そこで3姉妹のお誕生日のお祝いが。里穂が居ないのが残念だが仕方がない。奇しくも3姉妹は全員が3月生まれ。3月の毎週日曜日がお誕生会と化すのだった。
翌月曜日、小学校では里穂の話題で持ちきりだった。
国歌歌唱もそうだが、何と言っても里穂のバナナシュートと見事なヘディングが話題となっていた。
そんな中、3姉妹と優太君が車を降りて登校する。案の定校門近くはマスコミの皆さんで大賑わいだった。
しかし信子のワゴン車は給食の食材の納品口を使っていたので大騒ぎになることもなく無事に4人を送り届けていた。
里穂が教室に入ると既に登校していた全員が里穂の周りに駆け寄ってきてくれた。女の子たちは里穂の歌を、男の子たちはフリーキックを褒め称えてくれた。
そんな時、健君が登校してきた。「おはよう!」とお互いに何時も通りの挨拶を交わすと、健君も何喰わぬ顔で男子たちの話の輪に加わった。その後は何時もの教室と変わらなかった。
その一方で歌穂も話題の中心にいた。3月に入ってから流れ始めた“エチュード(練習曲)”のCMについてだ。CMでの愛らしい仕草やヴァイオリンは弾けるのかといった質問や感想が飛び交っていた。しかしこちらも授業が始まると何時もの1年生の教室に戻って行った。
放課後、月曜日は5限目まで音楽室が使えないため歌穂は美穂の勧めで毎週図書室に居た。探して読んでいたのはピアノに関する図書だったが内容が意外と1年生の歌穂には難しく、家に帰って2人の姉に聞くためにノートにその単語を書き出していた。
そんな様子を見た図書係の先生が声を掛けてくださった。「あら?歌穂ちゃんはピアノも弾けるの?」そう言って声を掛けて頂くのが嬉しい歌穂だった。
「はい、まだ4か月ですが来月コンクールに出ます。」その答えに少し驚く図書係の先生。『ピアノ教室の発表会だろう・・・。』と思っていた。いくら姉の美穂がピアノの達人だからと言っても、まだ経験も浅い幼い歌穂がそんなに上手に弾けるとは夢にも思っていなかった。ふと歌穂のノートに目を遣ると“重音と和音の違い”と書かれている。逆に先生は“重音”の意味が分からなかった。「あらあ、覗いちゃってごめんなさい。目に入っちゃって。でも難しそうなことをメモしているのね。」そう言う先生に「“重音”は分かるんだけど“和音”とどう違うんだろう?と思ったんです。」と答える歌穂。「“和音”は同時に幾つかの音を鳴らすことなのよ。でも先生には“重音”という言葉を初めて聞いたわ。」説明しながら最後に首を傾げる先生。「なあんだ!同じことかあ!」嬉しそうに笑顔を先生に向ける歌穂。「えっ?“重音”って“和音”のことなの?」そう2人で話していると里穂と健君が図書室へやって来た。2人は先生に挨拶をして歌穂を自習室へ誘った。歌穂のノートに書かれているワードに目を遣る里穂。「ねえ、歌穂。“重音”ってなあに?」
生徒全員が下校した職員室では図書係の先生と音楽の先生が歌穂の言っていた“重音”の話で盛り上がっていた。「そう、“重音”って弦楽器で弾く“和音”のことなんです。」音楽の先生にそう説明されたやっと同じ意味だと理解出来た図書係の先生。
「それにしても、歌穂ちゃんはヴァイオリンで“重音”が弾けるのかしら?」と新たな疑問を投げかける図書係の先生。「そうねえ、プロの方なら皆さん弾かれているけど、まだ1年生の歌穂ちゃんはどうなのかしらね。」と答える音楽の先生。
「いやいや、目標は高い方がより良い励みになるものですよ。」話を聞いていた教頭先生が微笑みながら2人の先生にそう話しかけた。
家に帰っておやつを済ませると4人は来月のコンクールに向けての練習に入る。部屋が足りないため、美穂は歌穂に自分のレッスン室を譲り自分が食卓で電子ピアノにて練習をしていた。信子は3人娘のピアノのレッスンを、優太ママは優太君と歌穂のヴァイオリンのレッスンを見て回っていた。そんな中、歌穂は優太ママに教わりながら確実に“重音”が弾けるようになっていった。これに驚く優太ママ。しかも“重音”から次の音への繋がりまでをも積極的に練習をしていた。響子さんのビデオを何度も見ての収得の技だった。この努力には流石の優太ママも脱帽だった。高速演奏と言いこの“重音”を使った演奏と言い、もうプロの領域だと確信した優太ママは信子にそう報告した。信子は「信じられない!」と大喜びだ。2人のママが喜び合っているのに気づいた美穂がヘッドホンを外して2人のママに尋ねた。「2人ともどうしたの?」
慌ただしかったCM撮影なども一段落が付き、翌月に控えたコンクールの練習に励む4人。こうして3月も過ぎて行った。
4月になると新学期。4人はそれぞれ進級した。
美穂と優太君は6年生、里穂は4年生、歌穂は2年生となった。春休みも返上で猛特訓に励んだ4人は最初のコンクールであるピアノコンクールに臨むこととなった。参加者が多いため、小学生は1から3年生、4から6年生と2つに区分けされていた。
当日は3人娘に信子が付き添った。信子は3人に特に何も言わなかった。ただ一人ずつ微笑んでステージへ送り出した。
客席には優太ママ、優太君、健ママ、健君、そして若菜さんと伊藤さんが応援に駆けつけていた。
もちろん学園高校の応援団の皆さん、はるばると遠路から来てくれた高原高校の皆さん、そして老人ホームの職員と入居者の皆さんとの賑やか過ぎる応援団が勢揃いだった。そんな中ひときわ目立ったのが芸能プロの皆さん、スポンサー企業の皆さん方だ。
そして何とプロヴァイオリニストの響子さんと美咲さん瞳さん姉妹も駆けつけてくださった。
開会が宣告され、出演者の氏名、年齢、ピアノ歴が紹介され、課題曲名と自由曲名が発表される。その度に拍手が起こる。
この後まさかの衝撃が走ることになる。
「歌穂、7歳、ピアノ歴5か月、課題曲は「カノン」、自由曲は、えっ?「ラ・カンパネラ」です。」驚く司会のお姉さんが思わず審査委員長の学校長さんを見た。まさかと思ったのだろう。原稿の間違いかも知れないと学校長さんを見遣ったのだが学校長さんはおもむろに頷いて見せた。動揺を隠せないのは観客の皆さん方も同じだった。わずか5か月で「カノン」と「ラ・カンパネラ」を弾くなんて正気の沙汰とは思えなかったからだ。
「信子お姉さんは何を考えているの?」美咲さんも空いた口が塞がらなかった。「いくらCMに出ているからって、しかもヴァイオリンだし・・・。」
控室では信子と美穂、里穂が歌穂を微笑んで送り出した。他の出演者たちは唖然としてその様子を見つめていた。「何時も通り弾けば良いんだよーっ!」「いってらっしゃーい!」信子と2人の姉に見送られて美穂のお下がりのピンク色の可愛いドレスを着て颯爽とステージへ登場する歌穂。
拍手で迎えられ、会場に一礼をする歌穂。そして美穂同様にピアノに手を添えてから椅子に座る。
静まり返ったホール内に歌穂の弾く「カノン」が流れていく。「う!うまい!」審査員さんの皆さんの顔色が変わる。皆さん左右の審査員さんを見あって驚きの表情を浮かべる。ホール内も同じだった。
「嘘でしょ!」響子さんが絶句する。
「なぜ?なぜそんなに上手く弾けるの?」美咲さんが思わず立ち上がる。
そんなことはお構いなしに歌穂の正確な「カノン」の演奏は続いた。そして美穂張りの繋ぎで自由曲の「ラ・カンパネラ」へと続いていく。
「こ、これを弾けるのか?」審査員の皆さんが息を飲む。「ありえない!ありえない!」審査員のお一人がそう呟く。紛れて会場にいた記者さんたちがそっと会場から抜け出していく。一応響子さんのコンサートにゲスト出演したとは言われてはいたものの誰も歌穂のピアノ演奏は聴いた事が無かった。
「どういうことなの?」大人しい瞳さんも驚きで身体をがたがたと震わせていた。そんな瞳さんをぎゅっと抱きしめる美咲さん。「奇跡って起こるのね!」
「いや、信ちゃん、美穂ちゃん、里穂ちゃんと遥香さん、先生が4人もいるのに誰の演奏にも似ていない!」
学校長さんもキツネにつままれた様に呆然としていた。
「歌穂のお母さん。貴方のお嬢さんはしっかりと貴方の花を咲かせましたよ。」信子は下を向いてただ涙していた。そんな信子をじっと見つめる美穂と里穂。
「ああーっ!そうだわ!このピアノのタッチ!」何かを思い出した響子さん。「そうか!それで弾けるのね!この難曲が!」そう言って控室へ向かう響子さん。
強引に控室へ案内してもらい信子を呼んでもらう。
「やっぱり分かっちゃったのね、響子さん。」そう言いながら2人を残して控室から出て行く信子。
通路で対面する響子さんと信子。お互いに手を握り締めて泣き出してしまった。これには案内係の女性もびっくりだ。後を追って信子を追いかけてきた美穂と里穂。2人が泣いているのを見て機転が早い美穂が言った。「歌穂のお母さんが分かったんでしょ?」
2人が頷く。「美穂と里穂の演奏の邪魔にならないようにと思っていたのに、ごめんなさい。余計な感情を持たせてしまって。」そう言って謝る信子に「いいえ、私が軽はずみだったばかりに、ごめんなさいね、美穂ちゃん、里穂ちゃん。」そう言って謝る響子さん。
「ううん。なんで誤るんですか?歌穂のママが分かったんでしょ。」里穂がそう言うと美穂が続ける。「これで歌穂も私たちと同じ、ママが2人いるんだよね、私たち歌穂を祝福するためにもピアノを弾くわ!」
そんな光景に通路入り口に立って待っている響子さんのマネージャーさんが目頭を押さえていた。
ホールでは歌穂の演奏が終わり物凄い拍手と歓声が巻き起こっていた。歌穂は美穂と同様にピアノに片手を添えて深々とお辞儀をした。そして一旦引き上げた歌穂に鳴り止まない拍手が。すると歌穂は再度ステージ中央へ。そして深々と一礼をした。
「やっぱり普通の子ではない!」審査員さんたちはそう確証して頷き更に健闘を称える拍手を送った。
客席の優太ママも涙して歌穂に拍手を送っていた。
そんな中、響子さんが席に戻って来た。気を取り直して里穂の演奏を聴くためだ。
小学校低学年の部の優勝は歌穂だった。しかも満点を叩き出した。これを皮切りに3姉妹の怒涛の演奏が始まる。
高学年の部の最初を飾るのは歌穂同様、初出場の里穂だ。健くんの拳にも自ずと力がこもる。
「大丈夫。里穂ちゃんなら心配ないよ。」そう言って健君の肩を両手で優しく揉みしだく優太君。
「里穂ちゃんはどんな演奏を魅せてくれるのかしら?」そう言ってじっとステージ袖を見つめる美咲さん。同じ様に瞳さんも里穂と歌穂の演奏に興味があった。
里穂がこれまた美穂のお下がりのライトブルーのドレス姿で登場した。サッカーでの活躍で一躍有名になった里穂の登場に大いに沸く音大大ホール。飛び切りの笑顔で会場に一礼し、ピアノに手を添えて再び一礼する。
拍手がものすごくアナウンスが聞き取れないほどだ。
里穂がピアノの前に座るとホール内が静けさに包まれる。何時もの里穂の力強い「カノン」の演奏が始まる。
すると突然観客席のお母さまが泣き出した。
「歌ちゃん!どうしたんだい?」慌てる老人ホームの皆さん。介護士の方も慌ててお母さまの元へ駆けつける。「ごめんなさい。大丈夫、大丈夫です。ただ嬉しくって、嬉しくって。」そう言って涙を拭うお母さま。
審査員席でも異変が起こっていた。突然理事長さんと学校長さんが涙を流し始めたのだ。驚く他の審査員の皆さん。「どうされたのですか?」と口々に囁くようにお2人に声を掛けられた。
「いや、余りにも母の演奏に似ていたもので・・・。」そう言いながらお2人は見つめ合ってお互いに笑っていた。
「わあーっ!信子さんの演奏にそっくり!」響子さんと美咲さんが同時に声をあげた。
里穂の指は正確に楽譜を再現していく。
「うれしいわ!信ちゃんが私の流儀を受け継いでくれてさらにそれを里穂ちゃんが受け継いでくれている!こんなに嬉しいことは無いわ!」そう言って再び涙にくれるお母さま。
「子供の頃母さんが弾いてくれたのと同じだね、兄さん。」そう言って理事長さんに小声で話しかける学校長さん。
里穂の演奏は自由曲「チゴイネルワイゼン第3部」へと移行していく。そして第3部名物の高速演奏だ。
力強く確実に鍵盤を叩いていく里穂。
「うん、クリスマスコンサートより確実に上達しているわ!さすが里穂ちゃんね。」そう言って聴き入る響子さん。
「里穂ちゃん、気迫がこもっている!これに歌穂ちゃんがついてくるというのか!」優太君は来週のヴァイオリンコンクールが楽しみになっていた。
そして最後の高速演奏で「チゴイネルワイゼン」を締めくくった里穂。
余りの迫力に皆拍手を忘れていた。そんなことには全く興味を示さずピアノに手を添えて深々とお辞儀をする里穂。すると思い出したかのようにホール内は大歓喜に飲み込まれていった。一旦ステージ袖へ引けた里穂の背中を歌穂が押して再びステージへ戻すとまたまた大きな声援と共に拍手が起こった。
ふと気付くとお母さまが立ち上がって両手を振ってくださっている。それに両手を振って応える里穂。
審査員の理事長さんと学校長さんは泣き笑いで拍手を送ってくださった。
控室へ戻って来た里穂は信子に抱き着いた。そして泣きじゃくった。「うれしい!うれしい!ママみたいな演奏が出来た!」そう言って泣きながら笑って見せた。
「そうね、そうだね。何時も頑張っていてくれたからだよ。」そう言って信子も泣いた。美穂と歌穂も里穂の完璧な演奏に感激して泣いていた。
以降、里穂の演奏に勝る奏者は現れなかった。
そして小学生高学年の部、トリの演奏者美穂の出番がやって来た。信子と里穂、歌穂に背中を軽く押されてステージへ向かう美穂。すでに拍手が巻き起こっている。拍手の中アナウンスが流れる。
「最後の出演者、美穂ちゃんです!課題曲は「カノン」、自由曲は「カルメン幻想曲ショートバージョン」です。」
何時ものルーティンでピアノに手を添えてのご挨拶から演奏に入る。静まり返るホール。
軽快な美穂の「カノン」の演奏が始まる。課題曲で皆譜面通りのはずだが何故か違うように聞こえてくる。
そう、音と音の間に余韻を持たせているのだ。
「おおーっ!」と審査員の方々から驚きの声が上がる。
「天才的な鍵盤使いだわ!」響子さんが絶賛する。
『さすが、美穂ちゃんね。一流ピアニストさんたちの弾き方を完全にマスターしているわ!』そう思って美穂の演奏に聴き惚れる美咲さんと瞳さん。
そして美穂お得意の「カルメン幻想曲」へと繋がっていく。何時もの様に力強く序奏に入る美穂。そして名場面を表すパートを中心に編曲された「カルメン幻想曲」を弾き進めていく。
「だれ?誰の編曲なの?聴いたことが無いわ!」ざわつく審査員の皆さん方。美穂は第3部へと曲を進めていく。第3部は超難解な高速和音演奏だ。これを軽々熟していく美穂。「さすが美穂お姉ちゃん!」控室で美穂の演奏を聴いていた里穂と歌穂が思わず声をあげる。舞台袖でじっと美穂の演奏する姿を見つめる信子。「もう、誰のものでもなくなったわね、美穂。こんなに早く自分の楽風を作ってしまうなんて。美穂、あなたならプロでもやっていけるわ!」そう言いながら嬉し涙を流す信子だった。
「本当に素敵な子たち!」そう言って今度は微笑む信子だった。
美穂の演奏は物凄い勢いのまま突然終わった。
「わあーっ!」音大大ホールは歓声と拍手が飛び交った。
ピアノに手を添えてお客様に一礼をして舞台袖に戻る美穂を信子がしっかりと抱きしめた。「ママ…。」そう言ったまま美穂は泣き崩れた。
信子に促されて再びステージに現れた美穂に大絶賛の声が飛び交う。再び深々とお辞儀をして舞台袖を抜けて控室へ戻ると今度は里穂と歌穂が駆け寄って美穂に飛び付いた。
「お姉ちゃーん!」そう言って3人は泣き出した。
初めてのコンクールで自分の力を出し切れた喜びと練習を支えてくれた姉、美穂への感謝の気持ちでいっぱいだったのだ。
高学年の部の演奏が終わりいよいよ審査となった。
3姉妹の周りには出演者たちが集まり大はしゃぎだ。「どちらが1位かしら?」などと騒いでいると進行のお姉さんに注意されていた。目標は3姉妹がそれぞれ満点を取ることだったが、3人はもうどうでも良かった。思った様な演奏が出来たことが一番の幸せだったからだ。
進行係のお姉さんが3姉妹に舞台袖で待つように言ってくれた。
高学年の部が発表された。同率1位は美穂と里穂だ。しかも2位と3位は該当なしとされた。基準点に至る奏者が居なかったからだ。ということは、総合審査へ進むのは小学生の部で満点を獲得した3姉妹ということになった。カメラのフラッシュが焚かれ表彰式が始まった。歌穂、里穂、美穂と賞状を頂きトロフィーを受け取る。さすがに歌穂には重すぎたようで進行係のお姉さんが支えてくださった。ホールには応援をしてくださった皆さんから「おめでとう!」の声が飛ぶ。
手を振ってくださる響子さんに3人で揃ってお辞儀をする。楽器メーカーの皆さん、サッカークラブの皆藤さん、医薬品メーカーの皆さん、そして結婚式場のマネージャーさんと様々な方が応援に駆けつけてくださっていた。
ホール内が静まったところで学校長さんの総評が始まった。
「3姉妹の皆さん、第1位おめでとうございます。」
するとホール内から再び拍手が巻き起こる。
「とても小学生とは思えない3人の演奏を聴かせていただきました。歌穂ちゃん!初めて5か月でなぜあんなに上手に弾けるのだろう?と審査員の先生方も大変驚かれていました。おそらく楽譜をしっかりと読み取っているからだろうという意見が多数を占めました。そうですよね、歌穂ちゃん。」そう言うと進行係のお姉さんが歌穂にマイクを向けてくださった。
「はい。楽譜さんがこう弾いてねって教えてくれます。」そう答える歌穂に「かわいい!」「すごい!」という声がホール内に飛び交った。
「そうかあ。きちんと楽譜が読めて、曲を作った昔の人との気持ちも読み取れるんだね。」そう言って学校長さんはにっこりと笑った。
「次は里穂ちゃん。私事で恐縮だけれど、私の母親の演奏に通じるものがあります。昔聴いた懐かしい旋律が心に染みてきます。2年弱のピアノ歴でここまで弾いて聴かせていただけるとは夢にも思っていませんでした。私の母も喜んでくれていると思います。お母さまのご指導の賜物だと思いますよ。最後は美穂ちゃん。貴方何者なの?」そう学校長さんが言うとホール内から大きな笑い声が。
「今日来ていただいた皆さん、美穂ちゃんが弾いてくれた『カルメン幻想曲』は誰の編曲だと思われますか?」ざわつくホール内の皆さん。
「美穂ちゃん自身の編曲だと思います!」ホール内に大きな声で答えたのは美咲さんだった。それに驚く3姉妹。「何で分かるの?」3人で顔を見合わせている。
美咲さんは続ける。「だってヴァイオリンの演奏を意識しているからです。少し抑え気味のメロディーはそこにヴァイオリンの音が加わることを想定しているからだと思います。」
この意見に会場も頷く。「なるほど!」
「美咲さんのおっしゃる通りだと思います。この編曲は美穂さん自身のためではなく歌穂ちゃんのために、そして里穂ちゃんのピアノの伴奏用に編曲したんですよね。フルで演奏すると優に10分を超える曲です。
それだと歌穂ちゃんの体力が肝心の第3部で十分に発揮出来ない、それを考慮した優しいお姉さんからのプレゼントなのではないでしょうか?美穂ちゃん、違ってたらごめんなさい。」そう言って一旦マイクを置く学校長さん。進行のお姉さんにマイクを向けられた美穂が話し始める。
「うふっ!さすが学校長さんと美咲さんですね。おっしゃる通り、この編曲は里穂と歌穂のために編曲したものです。どうしても弾きたい様で練習を見ていたんですが最後の最後で力が入り切れないんです。まだ7歳だから体力的に無理があるものですから第1と第2楽章で体力を温存するために書きました。」そう言って発言を締める美穂。そんな美穂にパチパチパチと拍手を送ってくれる美咲さん。それを引き金にホール内は拍手の渦に包まれた。
無事に表彰式が終わり中学生の部が始まった。片時も目を離したくないという美穂の要望でお弁当を持参してきた信子。「運動会みたい!」喜ぶ里穂と歌穂。
熱演でおなかを空かせた3姉妹はおむすびやたこさんウインナー、玉子焼きを美味しく頂く。既に小学生の皆さんは退散しており最終選考に残った3姉妹だけが控室にて和気あいあいと過ごしていた。
中学生の部のトリを務めるのは瞳さんだ。安定した演奏であったが残念ながら満点とはならなかった。
高校生の部は信子の地元のピアノスクールの後輩である陽子さんと夏海さんの2人が登場した。が、やはり満点とはいかなかった。
最後に控える美咲さんは3姉妹とは大の仲良しだ。
特に美穂は自分とそっくりな面が多い美咲さんに惹かれ目標としていた。美咲さんも自分と似たタイプの美穂をライバル視してお互いに向上し合っていた。しかも、美咲さんは美穂が自分や瞳さんの従妹であることをずっと心の中に閉じ込めていた。本当は力強く抱きしめてあげたい!と心の中で叫び続けていた。
この時点で美穂は美咲さんの微妙な変化に気付いていた。『コンクールが終わったらそれが何かを聞いてみよう!』そう思いながらステージへ向かう美咲さんを見送った。美咲さんは何時も通りにっこりと微笑んでくれた。
「あっ!」3姉妹は驚いた。美咲さんの課題曲は「カノン」だったからだ。『美咲さん!何で今更の「カノン」なんですか?』と美穂は舞台袖で思った。やはり何かある!と確信する美穂。
美咲さんの「カノン」の演奏が始まる。とても課題曲とは思えない優美なメロディーがホール内に流れていく。いつの間にか美穂の傍に居た里穂と歌穂も初めて間近で聴く美咲さんの旋律に震えるほど感動していた。美咲さんの演奏はそのまま自由曲へと流れていく。美穂の繋げ方と一緒だ。それに気付く里穂と歌穂。
『美穂お姉ちゃんと同じ手法だ!』幼い2人だったが美咲さんと美穂の共通点の多さに改めて気付く。『美咲さんとは似た者同士かも知れないと美穂お姉ちゃんは言っていたけれどそれ以上の何かがあるような気がする!』里穂と歌穂はお互いに頷き合っていた。
美咲さんの演奏は自由曲の「白鳥の湖」に移っていた。
オーケストラで演奏されるこの曲を自分でアレンジして演奏していることに気付く3姉妹。奇しくも美穂とはアレンジ曲対決となった。しかし美穂は思っていた。『この曲、後を引き継ぐ里穂と歌穂への餞別曲ではないかしら?』
演奏を終えると魅了されたホール内に感動の拍手が起こる。ステージ中央で深々とお辞儀をする美咲さん。
舞台袖で美咲さんにハグする瞳さんと3人娘、そして陽子さんと夏海さん。その光景が客席の一部から見え大いに沸いた。ライバル同士ながらの友情の深さがそれぞれの技を高めていると皆が知るところとなった。
短大・大学部門は美咲さんが予想通り満点を取って優勝した。
そして総合順位では第3位が夏海さん、第2位が瞳さんと陽子さん、第1位は美咲さん、美穂、里穂、歌穂となった。そして第1位と第3位の点差は僅か2点であった。今回非常にハイレベルなコンクールであったと総評された。
その後、入賞者記念撮影とインタビューがロビーにて行われる。
色とりどりのドレスを纏った受賞者7名が勢揃いをすると流石に圧巻だ。カメラのフラッシュが一斉にたかれる。特に3姉妹はCM出演にて全国に知れ渡っており、また、里穂はスタジアムでのリーグ戦開幕式での輝かしい活躍の後ということもあり音楽関係誌だけでなくスポーツ関係誌までも取材に来るという賑わいを見せた。一番幼い歌穂を中心に列を作っての撮影会は終始和やかに行われた。
インタビューではやはり7歳、ピアノ歴5か月にして満点を獲得した歌穂に質問が集中した。確かに瞳さん、陽子さん、夏海さんにしてみれば歌穂は怪物的な存在だ。「一生懸命練習しました。」という歌穂の答えに満足のいかない記者に、美穂が「天性の感覚としか言いようがありません。驚くことに身に着ける能力がずば抜けて高いと思います。私たち姉としては教えがいのある妹です。」と説明し、美咲さんが「歌穂ちゃんは天才としか言いようがありませんね。直ぐに覚えて実践できる。これが満点を獲得した原動力だと思います。」と追加説明をしてくれた。
こうして無事にインタビューも終わり入賞者7名は控室へ戻って来た。控室では碧さんと信子が昔話に花を咲かせていた。そう、陽子さん、夏海さんと3姉妹はこの2人のラインで結ばれているのだ。
これから楽器メーカーに入賞の挨拶へ向かうという3人を見送って、信子ら4人と美咲さん姉妹とで地下駐車場へ向かうことになった。
「その前にちょっといいですか?」美穂が美咲さんに気になっていることを話した。少しぎょっとする表情を見せる美咲さん。「どうしたの?美穂ちゃん、急に。」
平静を装うかのように答える美咲さん。
「美咲さん、私たちに何か隠していませんか?」
単刀直入な美穂の質問だった。
「相変わらず美穂ちゃんは鋭いわね。正直に話すわ。実は今度の夏ごろからウイーンの音楽大学に留学するの。もう少し日程が煮詰まってからと思っていたんだけど美穂ちゃんにはかなわないわね。」そう言って明るく笑う美咲さん。
「それじゃあ暫らくは会えないんですか?」少し寂し気に里穂が言う。「里穂ちゃん、ごめんなさいね。それと歌穂ちゃんも。折角ピアノでご一緒出来たのに。」背を低くして里穂と歌穂に謝る美咲さん。
すると歌穂がとんでもない事を美咲さんに言い出した。
「美咲お姉ちゃん、ウイーンの音大に五月さんという先生がいるの。その先生に『赤いピアノを大事にしている歌穂って子はピアノとヴァイオリンを一生懸命頑張っています。今は新しいパパとママ、2人のお姉ちゃんと幸せに暮らしています。』と伝えて欲しいの。」
一同驚愕した。幼い2歳の時に起きた両親の離婚をはっきりと覚えていたのだ。信子が歌穂に駆け寄り泣きながら抱き締めほおずりした。それに加わる様に美穂と里穂が抱き付く。呆然と立ちすくむ美咲さんと瞳さん。信子が思い切って歌穂の話をし始める。
皆さん、若菜さんも伊藤さんも聞いてください。
歌穂は昨年9月に私たちの家族になってくれました。
それは昨年8月にお父さんの光一さんが交通事故で亡くなられ身寄りが無くなったからです。そして光一さんと五月さんの間に生まれたのが歌穂です。光一さんはプロのヴァイオリニスト、五月さんはプロのピアニストです。そう言う意味で歌穂がヴァイオリンとピアノの両方が弾けるのはお2人の遺伝によるものだと思われます。特に五月さんは私の音大時代のピアノ科の同期です。五月さんはピアニストの道へ、私は教育者の道へ進みましたが、結婚されていたという形跡はありませんでした。つまり事実婚の状態だったのです。歌穂が生まれて2年後、五月さんは単独でウイーンに渡りました。そしてウイーンの音大の客員教授になられています。」泣きながらそう話す信子。
「そうか!それであの時、あんなに寂しそうな顔をして私たちを見ていたのね。」里穂がそう言って歌穂を抱きしめる。
「里穂お姉ちゃん、ありがとう!あの時優しくしてくれて。」歌穂はそう言って里穂にお礼を言って何時もの様に恥ずかしそうに下を向いた。
ああ!昭和は遠くなりにけり!!第12編 @dontaku
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