第4話 恋は思案の外
改めて、私はなんてダメな人間なんだろう、と己の弱すぎる意思に絶望していた。
飲み屋を出て終電に走ったところまではいい。問題はその先だ。
『今日は、もう少し一緒にいませんか?』
そんな言葉にまんまとのせられ、現在、私は推しの自宅にやってきている。
先に言い訳をするなら、これは決して本意ではない。本来なら東堂さんの自宅周辺の飲み屋に入るなりして、私はタクシーで帰るつもりだった。
しかし、あの後も手を握られたまま声をかけるタイミングが掴めず、東堂さんに手を引かれてマンションにやってきてしまった。
もちろん、マンション前で私は「あの、ここら辺にお店とかってないんですか?」と一応聞いてはみた。が、「……家はいや、ですか?」なんて聞かれたら断れるわけもなく。
更には「絶対に変なことはしないので」とダメ押しまでされてしまい、ノコノコとこんなところまでやってきてしまったのだった。
──完全に私の敗北である。
「菊池さん、ワインって飲めますか?」
「の、飲めます」
「この間友達に貰ったやつなんですけど、せっかくだから一緒に飲みません?」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
東堂さんの自宅は、女性社員が口々に妄想していたものより、ずっと普通だった。私と同じ1LDKで、机の上には書類が散らばったりしていた。
家に着いた瞬間、それを恥ずかしそうに片付けている姿がなんだか可笑しかった。
「どうぞ」
大人しくソファーに座っていた私へワイングラスを手渡すと、東堂さんはすぐ隣に腰かけた。
どう考えても距離が近すぎる。こんなにゆったりとした広めのソファーでこの距離はダメだろう。うん、絶対ダメだ。
すすすっと少し距離をとると、東堂さんの目がこちらを見た。
「そんな身構えないでください、ちょっと傷つきます」
「す、すみません……」
そんなことを言われても、推しがこんな距離にいて心臓が持つわけないじゃないか!
──とは、とても言えなかった。
心を落ち着かせるため、先程飲み屋でもやったように妹へメッセージを送った。
『私、もうすぐ死ぬかもしれない』
『落ち着け』
『推しが隣にいるのはさすがに落ち着けない』
『どういう状況?』
『私にもわからない』
何がどうしてこうなっているのか、私の方が聞きたいくらいだ。
「菊池さん」
「は、はいっ」
即座にスマホ画面をうつ伏せて振り向いた。
「もしかして、付き合ってる人とかいました?」
私の手元から目線を上げて、真剣な表情で東堂さんが問い掛けてくる。
「え、いやいや、いないです! 大丈夫です!」
「……そっか」
「今のは、その……妹で」
「妹さんいたんですか?」
「ああはい、妹とはよく推しの話をして……」
途中まで口を滑らせてからハっと口を噤んでしまった。普通に考えて推し=東堂さんに結び付くことはないんだから、そのまま堂々としていればよかったのに、と後になって気づく。
「推し?」
「いや、あの、妹はアイドルが好きでして……」
「……菊池さんは?」
「わ、私ですか……」
私も適当にアイドルが好きだって嘘をつく?
いやでも、妹の話だって全然ついていけなくて知らないし、深掘りされたらそれこそ恥の上塗りになってしまう。
でも本人を前に「推しはあなたです」とか言えるわけない。というか言ったら完全に引かれるでしょ。
だからといって黙ってても墓穴掘るだけだし、それならいっそ素直にぶちまけるべき!?
「菊池さん?」
「わ、私の推しはあなたです!!」
思考回路が爆発したついでに口からも爆弾が投下された。
ああ、今日が私の命日なのかもしれない。朝とまったく同じことをまったく違う状況で、そう理解した。
「あの……」
顔面蒼白で項垂れる私に、東堂さんは「それってつまり、俺のことが好きってことで合ってますか?」と、確かめるように言った。
──好き? それはつまり、状況的にラブのほうだよね? 私今告白したと思われてる? いや、告白したはしたんだけど、そういう意味じゃなく。
「えっと……推し、というのは恋愛的なことではなくもっと一方的なもので、勝手に私が東堂さんの幸せを願ってるというか、存在そのものがすごく尊いもので……」
改めて推しというものを説明しようとすると難しい。
そもそも推しの形は様々で、推しにガチ恋する人、なんてのもいるくらいだし、もとを辿れば実は恋愛感情とあまり違いがないのかもしれない。自分でもよくわからなくなってきた。
「それってつまり、俺のこと男として見てないってこと?」
「いえ、そういうわけじゃなく! 東堂さんはすごく顔も綺麗で、いい匂いもするし、仕事もできて、男性としてスペックがありすぎるくらいかと! 女性社員もみんな東堂さんのことは素敵だと仰ってましたし、お近づきになりたいと──」
「菊池さんは?」
「え」
「俺のことどう思う? ……その、素敵だって思う?」
「……はい」
なぜここで私の意見を? そんなの聞かれるまでもなく、答えはイエスに決まっている。
東堂さんは私の推しで、私は東堂さんのファンで、それ以上の“何か”なんて、ない。
なのに何で。私の答えに東堂さんが嬉しそうに笑っている。それがこんなにも、胸を熱くさせるんだろう。
これじゃまるで、私が東堂さんのこと────。
そこまで考えて、自分の顔がかあっと熱くなっていくのを感じた。
こんなはずじゃなかった。ただ見ているだけでいいと思っていた。それは嘘じゃない。
だって会社で女性社員に囲まれ、仕事もできる東堂さんは何もかもが完璧で、私なんかとは住む世界の違う人だと信じていたから。
でも、本当は違った。今、目の前にいる東堂さんは、思ったよりもずっと人間味があって、男の人で──手を握る時、まるで壊れ物を扱うように、指先が微かに震えていた。
そんな東堂さんの顔を、誰も知らなければいい。私だけが知っていれば。手を引かれた時、そんなことを思ってしまった。
私は、東堂さんのファン失格だ。
「菊池さん」
私の手に東堂さんの手がそっと触れた。さっきもずっと繋いでいたけど、今の方がずっと、胸が苦しい。
「俺、菊池さんのこと好きです」
「……っ」
あまりにストレートで言葉にならない。
「今日、変なこと何もしないって言ったんで、嫌だったら突き飛ばしてください」
香水とお酒の香りが近づいて、心臓が壊れそうなほど高鳴った。
東堂さんの膝が私の膝にコツンとぶつかって、首筋に大きな手が添えられる。その手が、小さく震えていて胸がさっきよりもギューっと締め付けられた。東堂さん、かわいい。
顔を上げると東堂さんの長い睫毛が触れるほど近くにあって、綺麗な瞳とぶつかった。恥ずかしくなって服の裾を掴み、ぎゅっと目を閉じた。その瞬間、唇に柔らかい感触が伝わった。ゆっくりと食むように交わるそれが、何とも言えず──とても官能的だった。
こんなに真っ直ぐで一生懸命な気持ちをぶつけられ、求められて、本当に夢だったらどうしよう。もしそうだったら、覚めないでほしい。なんて、心からそう思った。
どれくらいそうしていたか分からない。キスが終わり「今日はここまでで我慢します」と言って、東堂さんが私のことをぎゅっと抱き締めた。
「あの……次は自信ないので、そのつもりで家にきてくれると助かります」
「……」
恥ずかしそうに首筋に顔を埋めながらもごもごと喋る姿がとてつもなく愛おしい。
東堂さんってすごく素直な人なんだなぁ、と心の中で呟きながら私もそっと背中に腕を回した。
「あの……」
「はい」
「私が今日、我慢できそうにないんですが」
「え」
たぶん、今夜はまだまだ長い。
Fin.
恋は思案の外 東雲 @snnmr
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