第3話 終わらない今日

 私はなんてダメな人間なんだろう。

 飲み屋の座席につくなり、対面に座る東堂さんの顔を見て己の意思の弱さに絶望していた。


「菊池さん、何飲みますか?」


 そんな私の心情など露しらず、東堂さんはメニューを開いて嬉しそうに眺めている。……かわいい。

 そんなことを考えている自分に思いっきりビンタをかました。

 推しと二人きりでいることさえ罪深いというのに、推しの可愛さに目を奪われるなんてどこまで図々しいんだ私!

 心の中で己を罵っていると、私の奇行に東堂さんが目をパチクリとさせていた。


 ────かわ゛い゛い゛っ!!!!


 だって仕方ないじゃん! こんなに綺麗な顔で笑顔向けられたらそりゃ嫌でも堕ちるよ!もっと近くで眺めたいって欲望がエベレストしちゃうでしょ!

 もうこうなったら飲まないとやってられない。これは全部一夜の幻。そうデイドリームってやつ。


「ビールでお願いします」

「いいですね、俺もそうします」


 そう言って東堂さんはメニューを閉じ「すみませーん」といつもより少し大きい声で店員さんを呼んだ。

 え、東堂さんが私の真似をした……? え? なに? 可愛すぎない? 無理だよ。これ以上供給されても心臓も思考も追いつかないって。限界オタク超えて死亡寸前なんだが?

 東堂さんの圧倒的推し力に、陸に上げられた魚の如くぷるぷると震えが止まらない。


「ビールって最初の一杯目が一番美味しいですよね」

「ソウデスネ……」


 まともな会話なんてできるわけがなかった。だってもうとっくにキャパオーバーしてるわけで。己の欲望に抗えずこんなところにきたけど思考がお花畑すぎて、このままだと何をしでかすかわからない。


「お待たせしましたー」


 数分もせずに運ばれてきたビールを受け取り、とにかく正気を取り戻そうと一気に煽った。前方から「すごい」という一言と羨望の眼差しを感じる。

 おかげでオーバーヒートしていた頭が少し冷えた気がする。


「飲みに誘っといてあれなんですけど、実は俺、酒あんまり強い方じゃなくて」

「そうなんですか?」

「はい。あ、でも飲むのは好きですよ。量は飲めないですけど」


 そう言って東堂さんは私よりも半分くらい遅いスピードで飲み進めた。


 私はずっと、東堂さんの顔が好きで、眺めているだけで満足だった。もちろん今だってそうだ。

 周りが知っている情報はもちろん私だって知っているし、仕事に対する姿勢だって推している理由の一つだ。

 ──けれどこうして話してみると、知らないことの方がずっと多いのだということに、気付かされる。

 普段の凛とした佇まいと違って、目の前にいる東堂さんはよく笑うし、キリッとしていた目元も今は優しい気がした。

 プライベートな東堂さんはこんな感じなんだ。なんて、まるで知らない人みたいに思えてくる。

 ──でも、なんだかそれが少し、嬉しく思えた。



 ちょっとお手洗いに、と菊池さんが席を立ち見送ったあと、一人取り残されたテーブルで俺は深く項垂れていた。

 なんだ、これ。──なんか、うまく説明できない。けど。


「菊池さんってこんなに可愛かったっけ……?」


 心臓がありえない早さで脈を打っている。酒を飲んでいるから当然といえば当然なのかもしれないが、明らかにそれだけじゃない。

 お酒を飲んだ菊池さんは少し砕けていて、普段が真面目なだけにギャップがすごい。笑顔も控えめで可愛いし、ごはんを食べる姿も可愛い。なんかもう全部可愛い。

 どうしよう、と頭の中でぐるぐるする。そんなつもりじゃなく、ただちゃんと話して誤解を解こうと思っただけなのに、気づけば普通に楽しく話してるし。

 もしかして──俺、実は嫌われてないんじゃね? そんな気すらしてくる。

 だが、普段会社ではあんなに睨まれるし、今日の誘いだって一度は断られたわけで。思い返すと膨らんだ自信は一瞬で萎んでしまった。

 菊池さんがわからない。少なくとも今の時間は楽しく過ごしてくれている気がするし、普段だって別に何か怒られたりするわけじゃない。

 だったらいつも俺が感じているあれやこれやはどういうことなんだろう。気になりだすと止まらなくなる。


「東堂さん?」

「あ、おかえりなさい」

「……はい」


 おずおずと席に着き、落ち着かない様子で菊池さんがスマホの画面を見た。

 ──誰かからの連絡を待ってるのか?


「あ、あの……もうすぐ終電なのでそろそろ出ないと」

「え、もうそんな時間でしたか」

「はい」

「すみません、すぐ出ましょう」

「……はい」


 バタバタと身支度と会計を終え、店を出た。小走りで急ぎながら駅に着き、改札を潜り抜ける。おかげでかなり余裕をもって終電に乗ることができそうだ。


「東堂さん」

「はい?」

「今日は、ありがとうございました」

「いや、こちらこそ……」


お礼を言われると、途端に寂しさが胸を締めつけた。

 楽しかった時間も、もう少しで終わってしまう。菊池さんとも、こんな時間を過ごせる機会はあまりないだろうし。


「今日、すごく楽しかったです。東堂さんのこと、色々知れてよかったです」

「……っ」


 同じ気持ちでいてくれたことに、胸がぐっと苦しくなった。

 ここから同じ電車に乗って、もう少しは一緒にいられるかもしれない。でも、彼女が先に降りてしまったら、今日はもう過去になってしまう。


 ────どうしよう。今すぐにでも、引き留めたくてたまらない。


「あの、菊池さん」


 隣に立つ彼女の、小さな手を握った。一瞬びくりと肩が震える。戸惑いを隠せない瞳が俺とぶつかった。

 もっと傍にいたい。今日を終わらせたくない。沸き上がる焦燥が俺の背中を押す。


「今日は、もう少し一緒にいませんか?」


 その言葉と同時に、終電の電車がキーッと目の前に停車した。

 驚いたように俺を見上げるだけで、菊池さんは何も言わなかった。


「乗りましょう」


 手を引くと、彼女はコクリと頷いた。

 はっきりとした答えがないまま、電車はゆっくりと動き出す。

 それでも、握り絞めた手を振りほどかれなかったことに、俺は心底ホッとしていた。


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