第9話

俺は陽菜の元に戻った。彼女は路地の外で不安そうに待っていたが、俺の顔を見て少しだけ安心したようだった。


「篠宮くん……大丈夫だった?」


俺は頷き、陽菜の顔を見つめた。


「ありがとう、陽菜。君がいなかったら、俺は……」


言葉を続けることができなかった。陽菜がただ静かに微笑んでくれた。


「ううん、篠宮くんが自分で答えを見つけたんだよ。私はちょっと手伝っただけ。」


その言葉が胸に沁みた。数字に囚われずに立ち向かえたのは、陽菜が教えてくれた「空白」の力だった。


だが、まだ終わりではない。あの男が言った通り、俺はもっと自分自身を知らなければならない。そして、それが俺の中に眠る「数字じゃない力」を解き放つ鍵になるはずだ。


「……まだ終わらない。俺は、もっと強くならないと。」


陽菜は優しく頷き、彼女を描いた紙を握る俺の手にそっと触れた。


「大丈夫だよ、篠宮くん。私はずっと味方だから。」


その言葉が、数字のない温かさを俺に与えてくれた。


陽菜の言葉が胸に染みた。その「味方」という響きが、これまで数字だけを見て生きてきた俺にとって、どれほどの力になるのかを改めて実感する。


「あの男……善意99の男、あいつを何も止められなかった。むしろ、これからが本番だと思う。」


俺は陽菜に正直に告げた。男が最後に残した言葉、「もっと深く、君自身を知ることだ」が頭から離れない。彼はまだ俺のすべてを見抜いていないと言いたかったのだろう。そして、それは逆も同じだった。俺も、彼の真意を完全には理解できていない。


陽菜は少し黙った後、俺をじっと見つめた。


「篠宮くん、私、手伝えることがあったら何でも言ってね。でも……無理はしないで。」


その言葉に、俺は少しだけ笑った。陽菜の言う「無理をしない」は、俺にとってほとんど不可能に近いことだ。それでも、彼女の気遣いが嬉しかった。


「ありがとう、陽菜。もし何かあれば頼らせてもらうよ。」


俺はそう答えたが、心の中では決めていた。この戦いに陽菜を巻き込むわけにはいかない。彼女は数字に囚われない存在だ。その「空白」を、あの男の数字の嵐に触れさせてはいけない。


夜、アパートに戻った俺は、またスケッチブックを開いていた。描き始めたのは、善意99の男だった。その冷たい目、その数字の輝き。そして、その裏に隠された何か。


「数字を使って世界を支配する……」


彼の目的は明確だ。数字の力で「秩序」を作ると言っていたが、それが本当に人間にとって幸福なものになるとは思えない。むしろ、その秩序は人々を数字に縛り付ける檻になるだろう。


「俺は……どうすればいい?」


自分に問いかける。陽菜が教えてくれた「数字じゃないもの」を信じるのはいい。でも、それだけで彼に勝てるのか?


その時、頭の中にふとある考えが浮かんだ。


「善意99は、本当に善意なのか?」


あの異常な数値は、彼の言葉や行動と一致していない。彼が周囲の人々を引き寄せ、支配するために使っているその数字が、果たして純粋な「善意」なのか。それとも、何か別の力で作り出された偽物なのか。


「もし……あの数字が作られたものだとしたら?」


その仮説が胸の奥で膨らむ。もし善意99が偽りの数字であるなら、それを破る方法があるはずだ。そして、その方法は――俺が数字を見る能力に隠されているかもしれない。


「数字を……壊す?」


呟いた言葉が、自分の中で重く響いた。それは、俺がこれまで頼りにしてきた能力そのものを裏切るような考えだった。でも、彼に対抗するためには、数字を見るだけでは足りない。数字を超えるためには、数字そのものを打ち破る力が必要なのだ。


翌日、俺はスケッチブックを持って街に出た。そして、あの男を探した。彼に会うことで、俺の仮説が正しいのかを確かめなければならない。


しばらく歩いていると、遠くから善意99の輝きが見えた。やはり、あの数字は異常なほど強烈だ。その男が立っている周囲の人々の好感度が、次々と跳ね上がっていくのが見える。


彼の目がこちらに気づく。冷たい微笑が浮かび、その数字の輝きが俺に向かって迫ってきた。


「また会ったね、篠宮くん。」


その声が妙に響き渡る。俺は彼に近づき、視線を逸らさずに立ち止まった。


「お前の善意99、その数字は本物か?」


俺の問いに、彼は目を細めて笑った。その笑みは、俺の問いを予期していたかのようだ。


「本物かどうか、そんなことに意味があるのかい?数字は数字だ。それ以上でも以下でもない。」


彼の答えは曖昧だったが、その態度が逆に確信を与えた。あの善意99は、何か作り物のようなものだ。そして、その数字に囚われない何かを見せることで、彼の「秩序」に穴を開けることができるかもしれない。


「数字に意味があるかどうか、それを決めるのはお前じゃない。俺は、数字に縛られない自由を見せてやる。」


その言葉を放つと、彼の微笑が消えた。彼の目が、初めて俺に本気で向けられたように感じた。


「面白いね。なら、その“自由”とやらを見せてみろ。」


善意99の輝きがさらに強まる。視界がまた歪み、数字の嵐が俺を飲み込もうとする。その中で、俺はスケッチブックを強く握りしめた。


陽菜が教えてくれた「空白」。それが俺を支える力となる。数字の嵐の中で、俺は自分の胸の中にある「数字ではないもの」を掴み取るために立ち上がった。


「お前に見せてやるよ。数字じゃないものの力を!」


俺の声が嵐の中に響く。その瞬間、視界が揺れ、善意99が一瞬だけ揺らいだ。俺の中で何かが解放されようとしていた。

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