第2話
「ばっ、ばかものォ!」
椅子に座った体勢から瞬間的に青年の前へ現れた少女は、そのまま彼をぺちぺちと叩いた。その衝動的な動きとは裏腹に青年をしばく手にはほとんど力が込もっていない。
青年はといえば、ぺちぺちと叩かれながら「風にたなびく髪の毛が綺麗だなあ」などと他人事のように考えていた。「色白の肌が紅潮するのもまた美しい」とも。
「言ってみろ。なぜ入れた!」
ハートチョコの中からこぼれでた赤黒い血液シロップで口元を汚した少女は、青年の髪を掴みながら詰問する。
「歯切れのよさを狙って血液配分を下げたのですが、室温が想定していたより高くシロップが固まっていなかったのは誤算でした。次回は風味を備えつつこぼれ出さない程度にシロップが固まる際を研究したいと──」
「待て待て待て待て」
2月半ばのガレージ内、それも夜半とあっては息が凍るほどに寒い。ヒトの理を外れた少女には心地よい気温であったが、生身のヒトである青年には寒すぎる。彼の身体を懸念して少々の暖房を点けたのは、少女の僅かばかりの温情であった。
一瞬、少女は申し訳ない気分になり掛けたが、普通に考えてみればチョコレートに異物を混ぜ込むほうが圧倒的に悪い。
「次回の抱負を聞いてるんじゃなくてだな」
「お味はいかがでした?」
聞いているのか聞いていないのか、青年は献上品の出来を問う。彼の表情はまったくの真摯で、自らの瑕疵など存在しないかのようだ。
少女は思わぬ攻勢を前に返し文句を迷い、しどろもどろになっていた。しかし、ふと主導権が失われていることに気付いたようだ。
「あー……、もうっ」
乱れていた髪を払って身だしなみを整えると、少女はおもむろに青年の耳元へ顔を寄せた。
「バカめ。別々が旨いに決まっておろうが」
甘ったるくも鉄くさい香りをあとに残しつつ、少女は顔を離す。そして元のように椅子へ座ってひざまずく青年を見下した。彼女の表情には、上手いこと言ってやったと言わんばかりの自信が満ちていた。
青年は何事か悩んでいたが、しばらくしてぽつりと呟いた。
「ああ、ご飯にチョコを掛けてもおいしくないですよね」
「んー、お米のパフならチョコに入ってるけどな──」
「なるほど……!」
「なるほどじゃないが」
流石の慧眼とでも言いたげな熱視線を送る青年には、少女は額を押さえざるを得なかった。こうなってはもはや彼を止められないからだ。今回のように。
直接血を吸えば青年もまたヒトの理を捨てられる。しかし彼がそれを望んだことはないし、少女も望まれないなら吸う道理もない、と少女は考えているが、実際に彼が何を考えているかは問いただしていないので不明なままだ。
「まあいいや、今日は帰ってよし」
今まで顔以外に身動きひとつしていなかった青年は、少女の許しが得られたと同時に立ち上がり、一礼してガレージを出ていった。
青年の足音が充分に離れたのを確認すると、少女はまだ大部分が食べ残されている血液混入チョコを見つめて、恥ずかしそうに呟く。
「本当に考え無しなんだから、バカ」
月が雲に遮られ、再び闇に閉ざされたガレージの中で、それからしばらくのあいだカリカリとチョコをかじる音が響いていた。それほど大きなチョコではなかったが、音が鳴り止むまでには半時も経過していた。
そして雲が晴れ、ガレージの内部が見えるようになった頃には、もうだれもそこには居なかった。
ゲテとラヴの境界線 青王我 @seiouga
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