ゲテとラヴの境界線
青王我
第1話
完全なる漆黒。ヒトの眼には全くの闇だ。
青年は骨の髄まで寒さが染み入るような石の床へ膝をついて、ただひたすらに待っていた。こうべを垂れ、膝をつく。誰が見ているわけでもないが、この格好を崩すべきでないのは青年自身が分かっていた。
音もなく扉が開く。眼を伏せている青年にはその様子が知れることは無いが、それでも扉から流れ込む新鮮な空気で動きがあったことは彼にも理解できた。
また音もなく扉が閉じられ、何者かが部屋の中央へ動いていく。青年は部屋の空気の動きだけで、その一挙手一投足を感じ取っていた。普段の彼ではその初動すら感じ取ることは出来なかったであろう。
何者かの動きが止まる。ふわりと空気が動き、青年の真正面で何者かが椅子へ腰を下ろしたようだ。
「おもてを上げよ」
初めて何者かの声が部屋に響く。重々しい雰囲気、重々しい口振りに反して、その声はうら若い少女のもののようだ。
青年がゆっくり顔を上げると、彼の想像のとおり、そこには彼の主人たる少女の姿があった。足を組み、片腕を椅子にもたれ、高みから見下すように、少女は青年を見つめていた。
折よく雲が晴れ、月光のもとに少女の風貌が明らかになった。長い黒髪を束ねもせず風に任せている姿は、超然とした美しさを感じさせる。艶やかな髪が発育途上の肢体の上を流れる様は、宗教的彫刻を想起するだろう。
「献上品をこれへ」
さも当たり前であるかのように、少女は手招きした。それに応えて青年は、脇に置いてあった赤いリボンで結ばれた武骨な白い箱を差し出す。箱自体には全くの飾り気もなく、変哲のないボール紙の箱のようであった。大きさは大人の手のひらを広げたくらい。リボンはといえば、多少の飾り気はあってもやはり洒落っ気は無く、箱の表面へ蝶々結びを見せるのが精々であった。
少女がリボンを解き、白い箱の蓋を開ける。そこにはあらかじめ少女が想像した通り、チョコレートが納められていた。ただしハートマークをかたどり、白いクリームで『LOVE』と書かれた特大のチョコレートではあったが。
少女は思わず顔をしかめ、額をおさえた。下僕である彼、青年の愛の深さは心得ていたが、まさか血糖値スパイクで殺害に至るつもりだとは思わなかったからだ。
いや違う。これは見た通りの特大のラヴだ。青年はそのつもりだし、少女もまたそれを額面通りに受け取らなければならない。青年の熱視線に耐えられなくなった少女は、臆せずその特大のハートチョコへかじりついた。
チョコレートはその見た目の重厚感に反して容易く噛み砕かれた。それはそのハートチョコが単なるチョコレートの塊でなく、中空であったからだ。もちろん単に空気が入っていたわけではなく、別のものが詰め込まれていた。
そう、シロップだ。
チョコレートの中身にシロップを詰め込むには、まずチョコレートで外郭を形取らなければならず、包みに使っていた簡素なボール紙に反して大層手間の掛かったチョコレートであることが少女には分かった。
咀嚼するにつれ、チョコレートの組成が明らかになっていく。市販の板チョコによる整形された外郭と、生クリームを混ぜたガナッシュ、それにシロップはカエデの樹液であるところのメープルシロップがベースであることは分かった。しかしそのシロップには少女にとっては既知の、それでいて本来混ざっていてはいけない要素が練り込まれているようだった。
粘着質で、赤っぽく、鉄の味がする。
要するに血液だった。
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