第23話 ──「水槽の中の天気予報」
保健室の扉は、音もなく開いた。
湿った匂いと共に、人工照明の青白さが広がる。
破れたカーテンが風もないのに揺れ、机の上には──使われていない酸素マスクが一つ置かれていた。
ユリは室内に一歩足を踏み入れると、眉をしかめた。
「……変な音がする。ポコポコって……水音?」
リクが指差した先には、小さなガラスの水槽。
だが、水槽の中には魚も水草もない。
代わりに──浮かんでいたのは、小さな風船と、濡れた紙片だった。
「……天気予報だ」
ユリが紙片を取り出し、濡れた文字を読み上げる。
『火曜、午後七時。空は曇り、記憶は雨。
誰かの罪が、乾くことはないでしょう。
特殊警戒レベル:感情3、遺書濃度高め。
朗読予定者:リク=カツラギ。
注意事項:血痕の除去は各自で。』
「……何これ、予報?」
リクは、短く答えた。
「“嘘の遺書”がある限り、火曜の天気は予測される。
この天気予報は、かつて俺が提出してたものだ」
「え、じゃあこれ……」
「俺が書いた“未来の自分”への予告状。
つまり……“火曜会”の未来は、俺がかつてプログラムした“予報アルゴリズム”に従ってるんだ」
ユリは、唇を噛んだ。
「あなた、どこまで知ってたの……?
“創始者の暗号”だって、最初から解けてたんじゃないの?」
沈黙。リクは口を閉じたまま、水槽の底を見つめる。
その時──水槽の奥、濁った水の中に何かが浮かび上がった。
白い制服。
名前の刺繍。
そして……“カツラギ・レン”。
ユリの顔から、色が失われた。
「……誰?」
「俺の息子だ。10年前、俺が……殺したとされてる子供の、名前だ」
水槽の中の“それ”は、にやりと笑ったように見えた。
その瞬間、保健室のスピーカーから、ノイズ混じりのアナウンスが流れ始める。
『……次回の朗読者は、ユリ=ミカヅキ。
題名は、“転校届の裏側に書いた嘘”。
内容の真偽は問わないが、涙腺の調整を忘れずに。
繰り返す、次回朗読者は──』
ユリが、驚愕の表情でリクを見た。
「私が……読むの?」
リクは、小さく頷いた。
「“火曜会”は、すでに自律している。予報も、朗読も、すべて俺の手を離れて、動き出してる。
……だが、“誰が書いたか”は、まだ人間が決めている。
君が何を書くか、それだけは、君にしか決められない」
水槽の水が、黒く濁っていく。
その中心に、“レン”の名前が、ぐにゃりと崩れていった。
まるで、記憶そのものが溶け出すように。
ユリは背筋を伸ばした。
「……分かった。
書くわ、“転校届の裏側”の嘘。
ただし、私は“ほんとのこと”を、嘘として語ってみせる」
リクの目が、どこか安堵に揺れた。
「それが、“火曜会”の本質だ。
真実を、嘘に見せることで、誰かがやっと……呼吸できるようになる」
ユリはうなずき、保健室をあとにした。
その背中を、誰もいないはずのベッドの下から、何かがじっと見ていた。
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